「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

南海トラフ巨大地震の本質をどう表現すればよいか

2014-10-18 19:33:34 | 地域防災
10年以上前から、東京から九州東岸までが入る幅6m×縦2mほどの1/20万地勢図を用いて、
我々の世代+次世代が覚悟しておくべき、南海トラフ沿いの巨大地震(東海・東南海・南海地震の連動発生)の
姿を伝えようというワークをしている。
今日(10月18日)の四日市市防災大学の6時間の講義・実習でも、このワークを行った。

阪神淡路大震災の様々な悲喜劇は、面的な広さとしては、
この縮尺では手のひら2つ分の範囲で展開されていたに過ぎない。
その範囲の外側では日常生活が営めていた訳であり、
そこを拠点に被災地域への「日帰り支援」も十分可能であった。
備蓄も3日分あればまぁ何とかなるというのもうなずける話だった。

しかし、宝永地震以上となるかもしれない南海トラフ沿いの巨大地震となると、
「敵は広さ」である。

この範囲の隅々にまで支援の手が差し伸べられるなどということは、
支援側と受援側の人数比を考えればあり得ないことは一目瞭然である。

「着眼大局」の言葉を用いて、この全体像を理解してもらえないか、と、
ここ3年ほどは努力を重ねてきているが、
最近は、これだけでは不十分なのではないか、と思うようになっている。

現在、「着眼大局」の説明用資料として用意しているのはA4版×3頁。
このような、だらだらとした文章で説明することは出来るが、
本質を射抜くようなシャープな言葉が欲しい、と思うようになった。

南海トラフ地震の本質を一言で表現するならば何か。
そして、この震災の発生まで20年程度の準備期間があるとすれば、
その準備期間を活かした対策の基本理念(哲学・方針)は何か。

前者については、「先進国日本の最後の日」「日本沈没」、
後者については「防災教育の根本的見直し」「自律した系」「分散」「『このくにのかたち』の再構成」
といった表現は出ている。しかし、これではまだまだである。

この「これではない」ということはわかるのだが、ではどう表現すればよいか。
ここ3年くらいの間に、本質を射抜くようなキーコンセプトにたどり着ければよいのだが……。

地震防災ポスターコンクールの審査を終えて

2014-10-18 00:09:25 | 地域防災
14時から静岡県の地震防災ポスターコンクールの審査委員会。

以前は地震防災と津波防災を分けて募集していたが、
今は津波を含むという意味で「地震防災」とくくっている。
小学校低学年の部、同高学年の部、中学校の部と3部構成。
今年は小学校低学年の部の応募が妙に少なかったのがちょっと残念。
まぁ、夏休みの宿題に、地震防災のポスターを描くような小学校の1~3年生が、
そんなにいる訳はないか……。

今回、改めて考えさせられたのが「刷り込みの怖さ」だった。

極めて恥ずかしながら、「旅の坊主」も比較的最近になるまで気付かなかったことなのだが……。

駿河湾地震説が発表されたのが1976年。
新耐震基準になったのが1981年。ということは……。

この間は、現行の建築基準で合法的に建てられた建物であっても、
震度6で「グチャ」にはならないまでも、
(注:その当時の気象庁震度階に震度6強・6弱は存在しない)
「修理しなくては住めないくらいの被害は受けるかもしれない」
というレベルの耐震基準であった、ということを意味する。

つまりは、東海地震の揺れを喰らったら、最新・最強の建築基準の家に住んでいたとしても、
揺れの後もその家にそのまま住めるというだけの耐震性は保証されていなかった、
ということになる。

となれば、「避難所(&避難訓練)」「非常用持ち出し袋」に着目されるのも当然、
ということになる。しかし……。

それから40年近くが経過して、今や、震度6強で事実上無傷、震度7でも致命傷なし、
というのが当たり前の世の中となっている。とすれば……。

40年近く前の「刷り込み」に踊らされているのはいかがなものか、と、
思わざるを得なかった。改めて今日、そのことを考えさせられた。

「安全な場所に住もう」「安全な家に住もう」
「今は実現できなくても、将来はそういうことができるようになろう」

もちろん、5年や10年で実現できるとは思っていない。
それでも、こういうテーマに則って夢を絵がしてほしい。
それこそが、あるべき防災ポスターコンクールなのでは、と思ったのだが、
さて、どのくらいの方々の共感を得られることだろうか……。