「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

「災害に強いまち」の物語はどうあるべきか

2014-10-20 23:47:43 | 地域防災
四日市市防災大学での講義・実習でメインテーマとしたのが「物語」だった。
防災ワークショップのファシリテーターをやるからには、
その人なりの防災の「物語」があってしかるべき、と思っている。

週が明けて、改めて「災害に強いまち」の物語はどうあるべきか、考える機会があった。

「災害に強いまち」というのは、自然の摂理にかなった土地利用がなされているまちであり
(=理想的には、津波リスク&土砂災害リスクのある場所には住家はない)、
建物の耐震性が確保されているまち(=震度6強で実質無傷のレベルに達している)、
だと考えている。

情緒に訴えかける「災害に強いまち」の議論があることは百も承知だが、
ここはドライに、立地と構造がまともであって初めて「災害に強いまち」になるという、
冷徹な事実はおさえておかなくてはならない。

前者について言えば、津波防災地域づくりに関する法律や土砂災害防止法の理念、
つまり、「危険な場所には住まない」「新設は認めない」「既設のものの移転のための算段を考えよう」
といったことを具体化することである。

土地利用についても、法律の世界では、防災の理想はすでに語られている。
後者の構造物についてはもちろん言うまでもない。
すべての家が現行基準に合致しているならば、
震度7の揺れを喰らっても犠牲者はごく少なくて済むだろう。

「災害に強いまち」の物語とは、これらのことの再確認から始まるように思う。
つまり、防災の理想は、避難場所を知っていることや非常用持ち出し袋の用意ではなく、
まずは土地利用がしっかりなされていることであり、
全国どこでも起こり得る震度6強の揺れに耐えられる安全な家に住もうということなのだ、と。

と同時に、これが具体化できていない(具体化できない)現実についても物語ってもらいたい、と。
リタイヤ組に防災の理想を説くことは大変残酷なこと。
でもその残酷さを百も承知の上で、でも、そこに本質があることを物語る、
限界の中でやれることを模索することの必要性を説く、
そういうことが求められているのではないか、と。

防災教育にも同じことが言える。理想は理想、現実は現実。
でも、教育は本質的に未来形なのだから、子供達には、
「今は出来なくても、将来は出来るようになろう」という夢を語ることが求められていると思う。
現実をしっかりと受け止めつつ、古き悪しき間違った防災の常識にとらわれることなく、
何が正しいのかを見極められるようになってほしい、と。

「安全な場所に住もう」「安全な家に住もう」「そのための経済力を持とう」

これらのテーゼをどのように語れば、「腑に落ちる」物語となるか。
シナリオと語り口と、どちらもまだまだレベルが低い、ということらしい。