上崩。在位十七年。改元者三、曰建隆・乾・開寶。壽五十。上仁孝豁達、有大度。陳橋之變、迫於衆心。洎入京師、市不易肆。嘗一日罷朝、坐便殿不樂者久之。左右請其故。上曰、爾謂爲天子容易邪。適乘快指揮一事而誤。故不樂耳。嘗宴近臣紫雲樓下。因論及民事。謂宰相曰、愚下之民、雖不分菽麥、藩侯不爲撫養、務行苛虐。朕斷不容之。
上崩ず。在位十七年なり。改元する者(こと)三度、建隆・乾徳・開宝と曰う。寿は五十。上、仁孝豁達(かったつ)にして大度有り。陳橋の変、衆心に迫らる。京師に入るに洎(およ)んで市、肆(し)を易(か)えず。
嘗て一日朝(ちょう)を罷め、便殿(べんでん)に坐して楽しまざる者(こと)之を久うす。左右其の故(ゆえ)を請う。上曰く「爾(なんじ)、天子と為るは容易なりと謂(おも)うか。適々(たまたま)快に乗じて一事を指揮して誤る。故に楽しまざるのみ」と。
嘗て近臣を紫雲楼下に宴す。因(よ)って民事に論及す。宰相に謂って曰く「愚下の民、菽麦(しゅくばく)を分(わか)たずと雖も、藩侯為に撫養(ぶよう)せず、務めて苛虐(かぎゃく)を行う。朕断じて之を容(ゆる)さず」と。
洎 及に同じ。 市、肆を易えず 市中では店じまいせずそのまま商売を続けていた。 便殿 休憩室。 快に乗じ いい気になって。 菽麦を分たず 豆と麦の区別さえ分らないこと。
太祖皇帝が崩御された。帝は在位十七年。改元すること三回で建隆・乾徳・開宝といった。年齢は五十歳であった。帝は慈愛に満ち親孝行で心がひろびろしており、大きな度量があった。帝となるきっかけとなった陳橋の変の際、衆人に迫られて天子に推戴されたが、都に入っても市中はそのまま営業して変わりないほど平穏だった。
或る日のこと、帝は朝政を終わって居間に戻られたが、永いこと鬱々として楽しまぬ様子だったので左右の者が心配してその訳を尋ねると、帝は「お前たちは天子になることは容易なことだと思っていようが、今日わしは軽はずみに、ある事を誤って指図してしまった。それで不愉快なのだ」といわれた。またある日のこと、近臣を紫雲楼の下に集めて宴の席を設けた。いろいろの話の末に民の事情に言及すると、帝は宰相に向かって「愚昧な民、豆と麦の区別もつかないような者に藩鎮の諸侯がそれを可愛がらず逆にむごい仕打ちをするようならばわしは断じて容赦せぬぞ」と言われた。