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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 月夜、西苑に夜遊の曲を奏す

2012-09-06 09:27:37 | 十八史略
西苑周二百里。其内爲海。周十餘里。爲蓬莱・方丈・瀛州諸山。高百餘尺。臺觀宮殿、羅絡山上。海北有渠。縈紆注海。縁渠作十六院。門皆臨渠、窮極華麗。宮樹凋落、翦綵爲花葉綴之。沼内亦翦綵爲荷芰菱芡、色渝則易新者。好以月夜、從宮女數千騎、遊西苑、作夜遊曲、馬上奏之。
後又開永濟渠、引沁水、南達于河、北通涿郡。又營汾陽宮。又穿江南河、自京口至餘杭八百里。

西苑は周二百里。その内に海をつくる。周十余里。蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅ
う)の諸山を為(つく)る。高さ百余尺。台観宮殿、山上に羅絡(ららく)せり。海の
北に渠(きょ)有り。縈紆(えいう)して海に注ぐ。渠に縁(よ)って十六院を作る。門皆渠に臨み、華麗を窮極せり。宮樹凋落(ちょうらく)すれば翦綵(せんさい)して花葉を為(つく)り之を綴る。沼内(しょうない)にも亦翦綵して荷芰菱芡(かきりょうけん)を為り、色渝(かわ)れば則ち新しき者に易(か)う。好んで月夜を以って宮女数千騎を従えて、西苑に遊び、清夜遊(せいやゆう)の曲を作って、馬上に之を奏せしめたり。
後に又、永済渠を開き、沁水(しんすい)を引き、南のかた河に達し、北のかた涿郡(たくぐん)に通ず。又汾陽宮(ふんようきゅう)を営む。又江南河(こうなんか)を穿(うが)ち、京口(けいこう)より余杭(よこう)に至ること八百里なり。


蓬莱・方丈・瀛州 神仙の棲むという東方海上の島に象った山。 台観 物見台。 羅絡 並び連ねること。 縈紆 くねくねと曲がること。 翦綵 綵はあやぎぬ。 荷芰菱芡 はす、ひし、みずぶき、すべて水草の名。 清夜遊 魏の曹植の詩に曲をつけたもの。 涿郡 今の河北省にある郡。 京口 江蘇省の鎮江。 余杭 浙江省の県名。

西苑は周囲二百里もあり、その中に海まで造った。周囲が十余里、中に蓬莱・方丈・瀛州という三つの神山になぞらえて高さ百尺余りの山を築き、山上には楼台や宮殿が軒を連ねた。その北側に水路を掘り、うねうねと海に至り、水路に沿って十六の宮殿を造営した。その門はすべて水路に向かって開かれ華麗を極めていた。冬になって木々がしぼみ、落葉するとあやぎぬで花や葉を作って飾り付けた。池の内でも、蓮や菱をつくり、色が褪せると新しいものに取り替えた。月の夜には宮女数千騎を引き連れて西苑に遊び、清夜遊の曲を演奏させて楽しんだ。その後、永済渠を開削した。沁水を引いて、南は黄河に達し、北は涿郡まで通じた。又汾陽宮を造営し、江南河を穿(うが)って、京口から余杭までに至るまで、八百里に及んだ。

十八史略 煬帝

2012-09-04 08:46:28 | 十八史略
煬帝大運河網を開削す
煬皇帝名廣。開皇末、立爲太子。是日天下地震。即位首營洛陽顯仁宮、發江嶺奇材異石。又求海内嘉木異草、珍禽奇獸、以實苑囿。又開通濟渠、自長安西苑、引穀洛水、達于河、引河入汴、引汴入泗、以達于淮。又發民開邗溝入江、旁築御道、樹以柳。自長安至江都、置離宮四十餘所。遣人往江南、造龍舟及雜船數萬艘、以備遊幸之用。

煬皇帝名は広。開皇の末、立って太子となる。是(こ)の日天下地震す。位に即くや首として洛陽の顕仁宮(けんじんきゅう)を営み、江嶺の奇材異石を発す。又海内の嘉木異草、珍禽奇獣を求めて、以って苑囿(えんゆう)に実(み)つ。又通済渠(つうさいきょ)を開き、長安の西苑より、穀洛(こくらく)の水を引いて、河(か)に達し、河を引いて汴(べん)に入れ、汴を引いて泗(し)に入れ、以って淮(わい)に達せしむ。又民を発して邗溝(かんこう)を開いて江に入れ、旁(かたわら)に御道を築き、植うるに柳を以ってす。長安より江都に至るまで、離宮を置くこと四十余所。人を遣り江南に往いて、龍舟及び、雑船数万艘を造らしめ、以って。遊幸の用に備う。

江嶺 揚子江と五嶺。 苑囿 草木を植え、禽獣を飼う苑。 通済渠 運河の名。 穀洛 穀水、洛水。 邗溝 運河の名。 御道 行幸のための道路。 龍舟 天子の御座船。

煬皇帝、名は広という。開皇の末に皇太子になった。その日、大地震に見舞われた。位に即くとすぐ洛陽に顕仁宮を造営した。揚子江から五嶺にかけて珍しい木材や石材を徴発し、各地の銘木、貴草を集め、珍らしい鳥や獣を求めて御苑を満たした。また通済渠を開鑿して長安の西苑から穀水、洛水の水を引いて黄河に通じ、黄河から汴水に、汴水から泗水を経て淮水に通じる大運河を通した。さらに人びとを徴用して邗溝を開き、淮水と揚子江を繋げ、運河沿いに行幸道を設け柳を植えさせた。長安から江都に至るまで四十に余る離宮を造営した。江南に人を遣って壮麗な御座船やさまざまな船数万艘を造らせて行幸や遊覧のために備えさせた。

十八史略 

2012-09-01 08:57:49 | 十八史略
文帝、太子広の弑するところとなる
帝所寵陳夫人出更衣、爲太子所逼、拒之得免。帝怪其色有異、問故。夫人泫然曰、太子無禮。帝恚抵床曰、畜生、何足付大事。獨孤誤我。將召故太子勇。廣聞之、令右庶子張衡入侍疾、因弑帝、遣人縊殺勇。帝性嚴重、勤於政事。令行禁止。雖嗇於財、賞功不吝。愛養百姓、勸課農桑、輕徭薄賦、自奉儉薄。天下化之。受禪之初、民戸不満四百萬、未年踰八百萬。然自以詐力得天下、猜忌苛察、信受讒言、功臣故舊、無終始保全者。在位二十四年。改元者二、曰開皇・仁壽。太子立。是爲煬皇帝。

帝の寵する所の陳婦人出でて更衣し、太子の逼(せま)る所となり、之を拒んで免(のが)るるを得たり。帝其の神色の異有ることを怪しみ、故(ゆえ)を問う。夫人泫然(げんぜん)として曰く、「太子無礼なり」と。帝恚(いか)って床を抵(たた)いて曰く、「畜生、何ぞ大事を付すに足らん。独孤我を誤る」と。将に故(もと)の太子勇を召さんとす。弘、之を聞き、右庶子(ゆうしょし)の張衡をして入って疾(やまい)に侍(じ)せしめ、因(よ)って帝を弑す。人を遣(や)って勇を縊(くびり)殺さしむ。帝、性厳重にして政事に勤む。令すれば行われ、禁ずれば止む。財に嗇(しょく)なりと雖も、功を賞するに吝(やぶさ)かならず。百姓を愛養し、農桑を勧課(かんか)し、徭(よう)を軽くし、賦を薄くす。自ら奉ずること倹薄(けんはく)なり。天下之に化す。受禅の初め、民戸四百萬に満たざりしが、末年には八百萬を踰(こ)えたり。然れども自ら詐力をもって天下を得たれば、猜忌苛察(さいきかさつ)にして、讒言を信受し、功臣故旧、終始保全する者無し。在位二十四年、改元すること二、開皇・仁寿という。太子立つ。是を煬皇帝と為す。

神色 顔色。 泫然 涙を流して泣くさま。 畜生 人に畜(やしな)われて生きているもの、転じて人でなし。 右庶子 東宮附きの官名。 勧課 勧奨と課役。 徭 夫役。 賦 租税。 倹薄 つづましいこと。 猜忌 疑い嫌うこと。 苛察 厳しく詮索すること。

文帝の寵愛した陳夫人が、帝前を出て着替えをしている時、太子が挑みかかった。からくも逃れたが、文帝がその顔色が尋常でないのを訝って問い詰めると、眼から涙をあふれさせ、「太子が無礼な振る舞いに及びました」とうったえた。文帝は床をこぶしで叩いて「畜生めこんな奴に天下を渡そうとしたのか。わしは独孤のために大事を誤ったわ」と激怒した。もとの勇を太子に戻そうとしたが、広がこれを聞くと、右庶子の張衡を病床に就かせ、隙をみて帝を弑殺し、さらに人を遣って勇を絞め殺してしまった。文帝は厳格で重々しく政治に勤めたので、令を出せばすぐに行われ、禁止すればすぐ止んだ。けちではあったが、功績を賞するときは金銭を惜しまなかった。人々を慈しみ養い、農業養蚕を奨励して、労役を軽くし、租税を少なくして自身の用度は切り詰めたので天下皆帝の徳に倣った。文帝が周から位を承けたときは戸数四百万に満たなかったが、治世の末年には八百万をこえた。しかし自ら謀略によって天下を得ただけに猜疑心が強く、厳しく追求することが多いため、功臣や旧知で身を全うした者が居なかった。在位二十四年、改元すること二、開皇、仁寿という。太子が即位した。これが煬皇帝である。

昨日八月三十一日は二百十日、旧暦では七月十四日で満月でした。電灯を消し、窓を開け放って月光をたのしみました。十四日の満月は始めて知りました。一ヶ月に二度満月があることも三年に一度ぐらいだそうです。