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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 李淵、太原に兵を起す

2012-09-18 09:12:38 | 十八史略

鄱陽賊帥林士弘、稱楚帝、據江南。 杜伏威據歴陽。 竇建稱長樂王。
馬邑校尉劉武周、朔方郎將梁師都、各據郡起兵。 李蜜據興洛倉、略取河南諸郡、稱魏公。 突厥立劉武周、爲定陽可汗、取樓煩・定襄・雁門諸郡。
梁師都取雕陰・弘化・延安等郡、自稱梁帝。金城校尉薛擧、起兵隴西、自稱西秦覇王。 武威司馬李軌、起兵河西、自稱涼王。 薛擧自稱秦帝、徙據天水。
蕭銑起兵巴陵、自稱梁王。
唐公李淵、起兵太原、克諸郡、入長安。時隋大業十二年。帝在江都。淵遥尊爲太上皇、而立代王。是爲恭皇帝。

鄱陽(はよう)の賊帥(ぞくすい)林士弘、楚帝と称して江南に拠(よ)る。
杜伏威(とふくい)歴陽に拠る。
竇建(とうけんとく)長楽王と称す。
馬邑(ばゆう)の校尉劉武周、朔方(さくほう)の郎將梁師都、各々郡に拠って兵を起こす。
李蜜、興洛倉に拠って河南の諸郡を略取し、魏公と称す。
突厥(とっけつ)劉武周を立てて、定陽可汗(かかん)と為し、樓煩(ろうはん)・定襄(ていじょう)・雁門(がんもん)の諸郡を取る。
梁師都、雕陰(ちょういん)・弘化・延安等の郡を取り、自ら梁帝と称す。
金城の校尉薛擧(せつきょ)、兵を隴西(ろうせい)に起し、自ら西秦の覇王と称す。
武威の司馬李軌(りき)、兵を河西に起し、自ら涼王と称す。
薛擧自ら秦帝と称し、徙(うつ)って天水に拠る。
蕭銑起(しょうせんき)兵を巴陵に起し、自ら梁王と称す。
唐公李淵(りえん)、兵を太原に起す、諸郡に克って、長安に入る。時に隋の大業十二年なり。帝は江都に在り。淵遥かに尊んで太上皇と為し、代王を立つ。是を恭皇帝と為す。


鄱陽の盗賊の頭目の林士弘が、楚帝と称して江南に拠を置いた。杜伏威は歴陽に拠った。先に反乱を起した竇建は長楽王と称した。
馬邑の校尉劉武周と、朔方の郎將梁師都は各々郡に拠って兵を起こした。
李蜜は、興洛倉を根城に河南の諸郡を攻略して、魏公と称した。
突厥が馬邑の劉武周を立て、定陽可汗とし、樓煩・定襄・雁門の諸郡を取った。
梁師都は、雕陰・弘化・延安等の郡を取り、自ら梁帝と称した。
金城の校尉薛擧、隴西に挙兵し、自ら西秦の覇王と称した。
武威の司馬李軌、兵を河西に起し、自ら涼王と称した。
薛擧自ら秦帝と称し、本拠を天水に徙した。
蕭銑起兵を巴陵に起し、自ら梁王と称す。
唐公の李淵が、太原で挙兵し、次つぎと各地を攻め、すべてに勝ってついに長安に入った。時に隋の大業十二年(616年)である。この時煬帝は遠く江都に逃れており、李淵はここぞとばかり煬帝を太上皇に祭り上げて、代りの王を立てた。是が恭皇帝である。

十八史略 楊氏衰退李氏興隆

2012-09-15 08:32:50 | 十八史略

蒲山公李密兵起。蜜少有才略。志氣雄遠、輕財好士。嘗乘黄牛、以漢書掛牛角讀之。楚公楊素遇而奇之。由是與素子玄感游。初從玄感起兵、玄感敗、蜜變姓名亡匿。時人皆云、楊氏將滅。李氏將興。又有民謡。歌曰、桃李子、皇后走楊州、宛轉花園裏。勿浪語、誰道許。謂桃李子者、逃亡李氏子也。莫浪語、誰道許者、蜜也。蜜遂與群盗翟譲等起、攻滎陽下之、建牙統所部西行、説下諸城大獲。

蒲山公(ほざんこう)李密の兵起る。蜜少(わかき)より才略有り。志気雄遠、財を軽んじ士を好む。嘗て黄牛(こうぎゅう)に乗じ、漢書を以って牛の角に掛けて之を読む。楚公楊素、遇(あ)うて之を奇とす。是に由って素の子玄感と遊ぶ。初め玄感に従って兵を起ししが、玄感敗れしかば、蜜、姓名を変じて亡(に)げ匿(かく)る。時の人皆云う、「楊氏将(まさ)に滅びんとす。李氏将に興らんとす」と。又民謡有り。歌って曰く「桃李子あり、皇后楊州に走り、花園の裏(うち)に宛転(えんてん)す。浪(みだり)に語る勿れ、誰か許(か)く道(い)う」と。桃李子ありと謂うは、逃亡の李氏が子なり。浪りに語る莫(な)かれ、誰か許く道うとは蜜にするなり。密遂に群盗翟譲(てきじょう)等と起って滎陽(けいよう)を攻めて之を下し、牙(が)を建て所部を統(す)べて西行(せいこう)し、説いて諸城を下し大いに獲(え)たり。

黄牛 毛色の黄褐色の農耕牛。 皇后 皇帝と后と。 宛転 ゆるやかにめぐるさま。 牙 大将軍旗。 

蒲山公李密が謀叛の兵を挙げた。李蜜は若いころから才智機略に富み、気宇壮大で、金銭を軽んじ、士と交わることを好んだ。ある時黄牛に跨り角に漢書を引っかけて読んでいた。楚公の楊素にたまたま出会って、人物を見込まれ、楊素の子玄感と交遊が始まった。玄感が挙兵したときに従ったが、玄感が敗れたので、李密は姓名を変えて逃げ隠れた。時に人々がこう噂した。
「楊氏はこれで終わりだろう。李氏が興るに違いない」と。
またこんな歌がはやった。「桃李の子よ、皇后(きみ)は楊州へ行ったまま、花園を逍遥して戻ろうとしない。しっ、めったなことを言うもんじゃないよ、誰だいそんなこと言うのは」と。桃李の子とは桃は逃に通じ、李子は李氏の子である、つまり李密は逃げたままなのに、皇帝は遊び呆けて、という暗喩であった。やがて李密は盗賊の翟譲等と再起の兵を挙げ、滎陽を攻め下し、大将軍の旗を立てて、配下を統括して西に向かい、説いて諸城を降して、軍資金と糧食を獲た。

十八史略 楊玄感叛す

2012-09-13 09:12:07 | 十八史略

帝所徴四方兵、皆集涿郡。一百一十三萬。餽運者倍之。首尾亙千餘里。帝至遼東、攻城不克、諸軍大敗而還。明年再徴兵、自將撃之。
楚公楊玄感、見朝政日紊、潛謀作亂。至是督運黎陽遂反。帝引軍還、遣將撃之。玄感自洛陽引兵趨潼關、兵敗走死。帝又如涿郡、伐高麗。高麗遣使請降。帝還長安。已而如洛陽、如汾陽、如江都、巡遊仍無虡歳。

帝徴(め)す所の四方の兵、皆涿郡(たくぐん)に集まる。百十三万なり。餽運(きうん)する者之に倍す。首尾千余里に亙(わた)る。帝、遼東に至り、城を攻めて克たず、諸軍大いに敗れて還る。明年再び兵を徴し、自ら将として之を撃つ。
楚公楊玄感(ようげんかん)朝政の日に紊(みだ)るるを見て、潜(ひそか)に乱を作(な)さんことを謀る。是(ここ)に至って黎陽(れいよう)に督運(とくうん)して遂に反す。帝、軍を引いて還り、将を遣わして之を撃たしむ。玄感、洛陽より兵を引いて潼関(どうかん)に趨(はし)り、兵敗れて走り死す。帝又涿郡に如(ゆ)き、高麗を伐つ。高麗使いを遣わして降を請う。帝、長安に還る。已にして洛陽に如き、汾陽(ふんよう)に如き、江都に如き、巡遊仍(な)お虚歳(きょさい)無し。

餽運 糧食輸送。 首尾 先頭から最後尾まで。 督運 輸送の監督。 

帝が徴発した四方の兵がすべて涿郡に集まった。その数百十三万人に及んだ。兵糧運搬はその倍もあり、先頭から最後尾まで千里以上にも達した。帝は遼東に至り、城を攻めたが勝てなかった。多くの部隊が痛手を受けて撤退した。煬帝は明年再び兵を徴発して、自ら率いて高句麗を攻めた。
楚公の楊玄感は朝廷の政治が日々に乱れるのをみて、密かに謀叛の心を抱いた。たまたま黎陽県で食糧運搬の監督にあたることになったのを機会に、遂に叛いた。煬帝は軍を引いて帰り、将を遣わしてこれを撃たせた。玄感は洛陽から撤退して潼関まで逃げたが、軍勢が敗れ逃れて死んだ。帝は再び涿郡に行き、高句麗を伐った。高句麗は使者を遣わして降服を請い帝は長安に還った。
しばらくすると帝は洛陽に、汾陽に、また江都にと巡遊に明け暮れ、何も無い年はなかった。

十八史略 天下騒動す

2012-09-11 09:05:12 | 十八史略

徴高麗王入朝。不至。大業七年、帝自將撃高麗、徴天下兵會涿郡。勅河南・淮南・江南、造戎車五萬乘。供載衣甲等、發河南・河北民夫供軍須。江淮以南民夫船運黎陽及洛口諸倉米。舳艫千里、往還常數十萬人。晝夜不絶。死者相枕。天下騒動、百姓窮困、始相聚爲盗。
漳南竇建兵起。

高麗王を徴(め)して入朝せしむ。至らず。大業七年、帝自ら将として高麗を撃ち、天下の兵を徴して涿郡に会せしむ。河南・淮南・江南に勅(ちょく)して、戎車五万乗を造らしめて、衣甲等を供載(きょうさい)し、河南・河北の民夫を発して軍須(ぐんしゅ)に供す。江淮以南の民夫は、船をもて黎陽及び洛口諸倉の米を運ばしむ。舳艫(じくろ)千里、往還するもの常に数十万人。昼夜絶えず。死する者相(あい)枕す。天下騒動し、百姓(ひゃくせい)窮困し、始めて相聚(あつ)まって盗をなす。
漳南(しょうなん)の竇建(とうけんとく)の兵起る。


煬帝は高麗王に朝貢を求めたが、応じなかった。そこで大業七年(611年)、帝自ら軍を率いて高句麗を伐つこととし、天下の兵を徴発して涿郡に集結させた。河南・淮南・江南に勅令を下し兵車五万輌を造らせて、軍衣や甲冑を運搬する用に供し、河南・河北の民を徴して雑務にあたらせ、揚子江、淮河以南の民には船で黎陽倉及び洛口倉の米を運ばせた。船隊は舳先と艫とが接して千里にも及び、往き来する船を曳くもの常に数十万人、それが昼夜にわたったので、力尽きて斃れ、死屍累々目を覆うばかりであった。ここに天下の安寧は失われ、民は生きてゆけぬほどに追い詰められて、徒党を組んで盗賊となる者まであらわれた。
漳南の竇建徳がまず反乱を起こした。


十八史略 営造巡遊、虚歳無し

2012-09-08 08:23:33 | 十八史略
鷹師、散楽を徴す
置洛口倉於鞏東南原上。城周二十餘里。穿三千窖。置興洛倉於洛陽北。城周十里。穿三百窖。窖皆容八千石。帝或如洛陽、或如江都、或北巡至楡林・金河、或如五原、巡長城、或巡河右。營造巡遊無虚歳。徴天下鷹師。至者萬餘人。徴天下散樂。諸蕃來朝、陳百戲於端門。執絲竹者萬八千人。終月而罷。費巨萬。歳以爲常。

洛口倉を鞏(きょう)の東南の原上に置く。城の周二十余里。三千窖(こう)を穿(うが)つ。興洛倉を洛陽の北に置く。城の周十里。三百窖を穿つ。窖皆八千石を容(い)る。帝或いは洛陽に如(ゆ)き、或いは江都に如き、或いは北巡して楡林(ゆりん)・金河に至り、或いは五原に如き、長城を巡り、或いは河右(かゆう)を巡る。営造巡遊、虚歳(きょさい)無し。天下の鷹師(ようし)を徴(ちょう)す。至る者万余人。天下の散楽(さんがく)を徴す。諸蕃(しょはん)来朝すれば、百戲(ひゃくぎ)を端門(たんもん)に陳(ちん)す。糸竹を執(と)る者万八千人。月を終(お)えて罷む。費巨万。歳々以って常となす。

鞏 今の河南省内の県。 窖 穴倉。 楡林・金河 ともに陜西省。 五原 山西省内。 河右 黄河北部。 虚歳 何もしない年。 散楽 民間の舞楽、わが国に入って猿楽や田楽になった。 端門 正門。 糸竹 楽器。

煬帝は洛口倉という穀倉を鞏県の東南に設けた。周囲二十里余りの城郭を築いて、その中に三千の穴倉を掘った。また興洛倉を洛陽の北に設けた。これは周囲十里で穴倉は三百、いずれも一つの穴に八千石の穀物を容れることができた。煬帝は或いは洛陽に、或いは江都に、また北方を巡って楡林・金河に、或いは五原に足をのばし、黄河の北岸に沿って巡り、ただの一年も造営か巡幸の無い年はなかった。また狩猟や遊芸を好み、国中から鷹匠を徴発したところ一万余人に及んだ。また散楽をよくする者を徴して、来朝する蕃夷を宮城の正門前で迎えたが、楽人だけで一万八千人に及び、一ヶ月にわたって続けられた。その費用は幾万とも知れず。毎年繰り返された。