徴班超還京師。卒。超起自書生、投筆有封侯萬里外之志。有相者。謂曰、生燕頷虎頭、飛而食肉、萬里侯相也。自假司馬入西域、章帝時、爲西域將兵長史。至上、以超爲西域都護騎都尉、平定諸國。在西域三十年、以功封定遠侯。至是以年老乞歸。願生入玉門關。上許之。任尚代爲都護、請教。超曰、君性嚴急。水清無大魚。宜蕩佚簡易。尚私謂人曰、我以、班君當有奇策。今所言平平耳。尚後果失邊和。如超言。
上在位十八年崩。改元者二、曰永元・元興。太子立。是爲孝殤皇帝。
孝殤皇帝名隆、生百餘日即位。改元延平。在位八閲月而崩。時皇太后氏臨朝、與騭定策立嗣。是爲孝安皇帝。
班超を徴(め)して京師に還らしむ。卒す。超、書生より起こり、筆を投じて万里の外に封侯たるの志有り。相者有り。謂いて曰く、生は燕頷虎頭(えんがんことう)、遠くまで飛んで肉を食(くら)う。万里侯の相なり、と。仮司馬より西域に入り、章帝の時、西域の将兵の長史と為る。上(しょう)に至って、超を以って西域の都護騎都尉と為し、諸国を平定せしむ。西域に在ること三十年、功を以って定遠侯に封ぜらる。是(ここ)に至って年老いたるを以って帰らんことを乞う。願わくは生きて玉門関に入らん、と。上、之を許す。任尚(じんしょう)代って都護と為り、教えを請う。超曰く、君が性厳急なり。水清ければ大魚無し。宜しく蕩佚(とうてつ)簡易なるべし、と。尚私(ひそか)に謂って曰く、我以(おも)えらく、班君当(まさ)に奇策有るべしと。今言う所は平平たるのみ、と。尚、後果たして辺和を失す。超の言の如し。
上、位に在ること十八年にして崩ず。改元する者(こと)二、永元・元興と曰う。太子立つ。是を孝殤皇帝と為す。
孝殤皇帝(こうしょうこうてい)名は隆、生まれて百余日にして位に即く。元を延平と改む。位に在ること八閲月(えつげつ)にして崩ず。時に皇太后氏朝に臨み、騭(とうしつ)と策を定めて嗣(し)を立つ。是を孝安皇帝と為す。
班超を召し出して、洛陽に帰らせたが、間もなく死んだ。班超ははじめ学問で身を立てようとしたが、紙筆をなげうち武人となって万里の辺境で武功を立て、封侯になろうと志を立てた。ある人相見に「あなたは燕のような顎と虎の頭を持っている。飛んで肉のくらう、万里侯の相です」と言われた。後に仮司馬となって西域に入り、章帝の時に西域の将兵のとなったが、和帝の時になって、班超を西域の都護騎都尉に任じ西域諸国を平定させた。辺境に在ること三十年、功によって定遠侯に封ぜられた。そこで高齢を理由に「できれば生きて玉門関に入りとうございます」と願い出て、帝は超の希望を受け入れた。任尚が代って都護となり、超に教えを請うた。超は「君は厳格で性急すぎる。水がきれいすぎると大魚は棲めない。だからのんびりと大まかにするがよろしい」と答えた。任尚はひそかに人に語って「私は班君には何か奇策があると思って聞いてみたが実にありきたりの話だったよ」ともらした。ところがその後任尚は辺境の平和を保つことができず、班超の言葉どおりになってしまった。
和帝は位に在ること十八年で崩じた。改元すること二回、永元・元興がそれである。皇太子が位に即いた。これが孝殤皇帝である。
孝殤皇帝の名は隆である。生まれて百余日で帝位に即き、年号を延平と変えた。在位わずか八か月で崩じた。時に皇太后の氏が朝廷に臨んで政治を執っていたが、兄の騭と図って後嗣を立てた。これが孝安皇帝である。
相者 人相見。 燕頷虎頭 燕のおとがいと虎の頭。 長史 州の監察官刺史の補佐官。 蕩佚 寛大でゆるやか。(とういつ)と読むとしまりがないさま。 八閲月 閲は経過する、八ヶ月。
上在位十八年崩。改元者二、曰永元・元興。太子立。是爲孝殤皇帝。
孝殤皇帝名隆、生百餘日即位。改元延平。在位八閲月而崩。時皇太后氏臨朝、與騭定策立嗣。是爲孝安皇帝。
班超を徴(め)して京師に還らしむ。卒す。超、書生より起こり、筆を投じて万里の外に封侯たるの志有り。相者有り。謂いて曰く、生は燕頷虎頭(えんがんことう)、遠くまで飛んで肉を食(くら)う。万里侯の相なり、と。仮司馬より西域に入り、章帝の時、西域の将兵の長史と為る。上(しょう)に至って、超を以って西域の都護騎都尉と為し、諸国を平定せしむ。西域に在ること三十年、功を以って定遠侯に封ぜらる。是(ここ)に至って年老いたるを以って帰らんことを乞う。願わくは生きて玉門関に入らん、と。上、之を許す。任尚(じんしょう)代って都護と為り、教えを請う。超曰く、君が性厳急なり。水清ければ大魚無し。宜しく蕩佚(とうてつ)簡易なるべし、と。尚私(ひそか)に謂って曰く、我以(おも)えらく、班君当(まさ)に奇策有るべしと。今言う所は平平たるのみ、と。尚、後果たして辺和を失す。超の言の如し。
上、位に在ること十八年にして崩ず。改元する者(こと)二、永元・元興と曰う。太子立つ。是を孝殤皇帝と為す。
孝殤皇帝(こうしょうこうてい)名は隆、生まれて百余日にして位に即く。元を延平と改む。位に在ること八閲月(えつげつ)にして崩ず。時に皇太后氏朝に臨み、騭(とうしつ)と策を定めて嗣(し)を立つ。是を孝安皇帝と為す。
班超を召し出して、洛陽に帰らせたが、間もなく死んだ。班超ははじめ学問で身を立てようとしたが、紙筆をなげうち武人となって万里の辺境で武功を立て、封侯になろうと志を立てた。ある人相見に「あなたは燕のような顎と虎の頭を持っている。飛んで肉のくらう、万里侯の相です」と言われた。後に仮司馬となって西域に入り、章帝の時に西域の将兵のとなったが、和帝の時になって、班超を西域の都護騎都尉に任じ西域諸国を平定させた。辺境に在ること三十年、功によって定遠侯に封ぜられた。そこで高齢を理由に「できれば生きて玉門関に入りとうございます」と願い出て、帝は超の希望を受け入れた。任尚が代って都護となり、超に教えを請うた。超は「君は厳格で性急すぎる。水がきれいすぎると大魚は棲めない。だからのんびりと大まかにするがよろしい」と答えた。任尚はひそかに人に語って「私は班君には何か奇策があると思って聞いてみたが実にありきたりの話だったよ」ともらした。ところがその後任尚は辺境の平和を保つことができず、班超の言葉どおりになってしまった。
和帝は位に在ること十八年で崩じた。改元すること二回、永元・元興がそれである。皇太子が位に即いた。これが孝殤皇帝である。
孝殤皇帝の名は隆である。生まれて百余日で帝位に即き、年号を延平と変えた。在位わずか八か月で崩じた。時に皇太后の氏が朝廷に臨んで政治を執っていたが、兄の騭と図って後嗣を立てた。これが孝安皇帝である。
相者 人相見。 燕頷虎頭 燕のおとがいと虎の頭。 長史 州の監察官刺史の補佐官。 蕩佚 寛大でゆるやか。(とういつ)と読むとしまりがないさま。 八閲月 閲は経過する、八ヶ月。
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