後周の柴栄殂す
周主在位六年殂。改元者一、曰顯。周主在藩韜晦。及即位、首破高平之冦。人始服其英武。號令嚴明。人莫敢犯。攻城對敵、矢石落左右、略不動容。應機決策、出入意表。又勤於政事、發姦摘伏、聰察如神。暇則召儒者讀史、商□大義。性不好絲竹珍玩之物、常言、朕必不因喜賞人、因怒刑人。文武參用、各盡其能。人畏其明、而懐其惠。故能破敵廣地、所向無前。登遐之日、遠近哀慕。子梁王立。是爲恭帝。 □は手偏に寉。
周主在位六年にして殂す。改元する者(こと)一、顕徳と曰う。周主、藩に在って韜晦(とうかい)す。位に即くに及んで、首として高平の冦(あだ)を破る。人始めて其の英武に服す。号令厳明なり。人敢て犯すこと莫(な)し。城を攻め敵に対し、矢石左右に落つれども略(ほぼ)容(かたち)を動かさず。機に応じ策を決して、人の意表に出ず。又政事に勤め、姦を発(あば)き伏を摘み、聡察、神の如し。間暇(かんか)あれば則ち儒者を召して史を読ましめ、大義を商□(しょうかく)す。性、糸竹珍玩の物を好まず。常に言う「朕は必ず喜びに因って人を賞し、怒りに因って人を刑せず」と。文武参(まじ)え用いて、各々其の能を尽さしむ。人其の明を畏れて、其の恵に懐(なつ)く。故に能く敵を破り地を広め、向かうところ前無し。登遐(とうか)の日、遠近哀慕(あいぼ)す。子の梁王立つ。是を恭帝と為す。
藩 藩鎮。 韜晦 自分の才知を隠すこと。 高平の冦 北漢と契丹が高平郡に侵入したこと。 姦 悪事。 商かく 商は計り知る、「かく」は比べる。 登遐 崩御。
後周の柴栄は在位六年にして亡くなった。改元すること一度、顕徳といった。柴栄は節度使として藩鎮にあったときは、自分の才能を包みかくしていたが、即位するや、初めに高平郡に侵入した北漢と契丹の軍を撃破したので人々は英知と武勇に敬服した。号令は厳しく明らかで、一人として規律を犯す者はいなかった。攻城戦闘の折には飛び来る矢玉をものともせず、泰然として動じず、臨機応変に策を出し、人の意表をついた。また政事に勤め、悪事をあばき秘事を摘発してその聡明で観察の鋭いことは神業であった。暇があれば儒者を呼んで史書を読ませて根本道理をはかり比べた。生来音楽や珍品玩弄物に。は興味がなかった。常に「朕は喜怒哀楽によって人を賞したり、罰したりはしない」と言っていた。文官、武官を一方に偏ることなく任用し、各々の才能を発揮させた。人々はその聡明なことに畏敬し、その恩恵に懐き従った。それゆえ大敵を破り、領土を広げ、向こう所敵なしの功績を遺したのである。崩御の日、遠い者も近い者も哀しみ慕った。
子の梁王が即位した。これを恭帝という。
周主在位六年殂。改元者一、曰顯。周主在藩韜晦。及即位、首破高平之冦。人始服其英武。號令嚴明。人莫敢犯。攻城對敵、矢石落左右、略不動容。應機決策、出入意表。又勤於政事、發姦摘伏、聰察如神。暇則召儒者讀史、商□大義。性不好絲竹珍玩之物、常言、朕必不因喜賞人、因怒刑人。文武參用、各盡其能。人畏其明、而懐其惠。故能破敵廣地、所向無前。登遐之日、遠近哀慕。子梁王立。是爲恭帝。 □は手偏に寉。
周主在位六年にして殂す。改元する者(こと)一、顕徳と曰う。周主、藩に在って韜晦(とうかい)す。位に即くに及んで、首として高平の冦(あだ)を破る。人始めて其の英武に服す。号令厳明なり。人敢て犯すこと莫(な)し。城を攻め敵に対し、矢石左右に落つれども略(ほぼ)容(かたち)を動かさず。機に応じ策を決して、人の意表に出ず。又政事に勤め、姦を発(あば)き伏を摘み、聡察、神の如し。間暇(かんか)あれば則ち儒者を召して史を読ましめ、大義を商□(しょうかく)す。性、糸竹珍玩の物を好まず。常に言う「朕は必ず喜びに因って人を賞し、怒りに因って人を刑せず」と。文武参(まじ)え用いて、各々其の能を尽さしむ。人其の明を畏れて、其の恵に懐(なつ)く。故に能く敵を破り地を広め、向かうところ前無し。登遐(とうか)の日、遠近哀慕(あいぼ)す。子の梁王立つ。是を恭帝と為す。
藩 藩鎮。 韜晦 自分の才知を隠すこと。 高平の冦 北漢と契丹が高平郡に侵入したこと。 姦 悪事。 商かく 商は計り知る、「かく」は比べる。 登遐 崩御。
後周の柴栄は在位六年にして亡くなった。改元すること一度、顕徳といった。柴栄は節度使として藩鎮にあったときは、自分の才能を包みかくしていたが、即位するや、初めに高平郡に侵入した北漢と契丹の軍を撃破したので人々は英知と武勇に敬服した。号令は厳しく明らかで、一人として規律を犯す者はいなかった。攻城戦闘の折には飛び来る矢玉をものともせず、泰然として動じず、臨機応変に策を出し、人の意表をついた。また政事に勤め、悪事をあばき秘事を摘発してその聡明で観察の鋭いことは神業であった。暇があれば儒者を呼んで史書を読ませて根本道理をはかり比べた。生来音楽や珍品玩弄物に。は興味がなかった。常に「朕は喜怒哀楽によって人を賞したり、罰したりはしない」と言っていた。文官、武官を一方に偏ることなく任用し、各々の才能を発揮させた。人々はその聡明なことに畏敬し、その恩恵に懐き従った。それゆえ大敵を破り、領土を広げ、向こう所敵なしの功績を遺したのである。崩御の日、遠い者も近い者も哀しみ慕った。
子の梁王が即位した。これを恭帝という。
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