宣宗皇帝、不慧を装う
宣宗皇帝名怡、憲宗皇帝子也。幼號不慧。太和後自韜匿。文宗好誘其言以爲笑。武宗豪邁、尤不禮之。名爲光叔。武宗疾篤。子幼。宦官定策禁中。詔立怡爲皇太叔。更名忱。權匂當軍國事。裁決咸當理。人始知其隠焉。尋即位。
李裕罷。僧孺・宗閔等北僊。裕三貶、至崖州司戸以死。
令狐綯同平章事。先是綯爲學士。上嘗以太宗所選金鏡録、授綯使讀之。又書貞觀政要於觀屏風、毎正色拱手而讀。嘗與學士畢諴論邊事。諴具陳方略。上悦曰、不意頗牧在吾禁中。即用爲邊帥。果稱其任。
宣宗皇帝、名は怡(い)憲宗の子也。幼きとき不慧(ふけい)と号す。太和の後益々自ら韜匿(とうとく)す。文宗好んで其の言を誘(いざの)うて以って笑いと為す。武宗豪邁(ごうまい)にして尤も之を礼せず。名付けて光叔と為す。武宗、疾篤し。子幼なり。宦官、策を禁中に定む。詔して怡を立てて、皇太叔と為す。更(あらた)めて忱(しん)と名づく。権(かり)に軍国の事を匂当(こうとう)す。裁決咸(ことごと)く理に当たる。人始めて其の隠徳を知る。尋(つ)いで位に即く。
李徳裕罷(や)む。僧孺・宗閔等、北に僊(うつ)る。徳裕三たび貶(へん)せられ、崖州の司戸(しこ)に至って以って死す。
令狐綯(れいことう)、同平章事たり。是より先綯、学士と為る。上嘗て太宗の選する所の金鏡録を以って、綯に授けて之を読ましむ。又貞観政要を屏風に書して、毎(つね)に色を正し手を拱(きょう)して読む。嘗て学士畢諴(ひっかん)と辺事を論ず。諴具(つぶさ)に方略を陳(の)ぶ。上悦んで曰く「意(おも)わざりき、頗牧(はぼく)、吾が禁中に在らんとは」と。即ち用いて辺帥と為す。果たして其の任に称(かの)う。
不慧 慧は賢い。 韜匿 才能を隠す。 豪邁 気性が強い。 光叔 光王というべきを軽んじて光叔父と呼んだ。 策を定む 臣下が天子を定めること。 権 仮。 匂当 事務を執る。 崖州 広東省の地。 司戸 戸籍や田地を管理する。 金鏡録 唐の太宗が自撰の書。 貞観政要 太宗と家臣の政治問答。拱す 手を組んで拝礼すること。 頗牧 廉頗と李牧共に趙の名将。 辺帥 国境防備の将軍。
宣宗皇帝、名は怡で憲宗の子で武宗の叔父にあたる。幼いとき愚か者と言われ、太和の後には益々才能を隠して愚を装っていた。文宗はこの怡に何か言わせて笑いの種にした。武宗は気性が強く叔父を礼せず光叔と呼びすてにしていた。
武宗の病気が重く、子はまだ幼なかった。宦官たちは太子を立てるにあたって自分達の傀儡として怡を皇太叔に立て、名を忱とあらためるとの詔が発せられた。試みに軍政と国政に当たらせてみた。すると裁決がすべて的を射ていた。人は始めて才能を隠していたことを知ったのであった。やがて武宗の崩御にともなって即位した。
同平章事李徳裕が罷免され、牛僧孺・李宗閔らは北に任地を移された。李徳裕は三度左遷され崖州の司戸にまで落とされてそこで死んだ。
令狐綯が同平章事となった。それより以前令狐綯は翰林学士となって宣宗の側近くに仕えていた。宣宗は太宗の撰した金鏡録を授けて講じさせたことがあった。また貞観政要を屏風に書いて拱手して読んだ。
嘗て翰林学士の畢諴に辺境防備について意見を求めると畢諴はつぶさに方略を言上した。宣宗は驚き且つ悦んで「廉頗と李牧に匹敵する者が禁中に居るとは思いもよらなかった」と言って、即座に抜擢して辺將としたところ見事に任にふさわしい働きをした。
宣宗皇帝名怡、憲宗皇帝子也。幼號不慧。太和後自韜匿。文宗好誘其言以爲笑。武宗豪邁、尤不禮之。名爲光叔。武宗疾篤。子幼。宦官定策禁中。詔立怡爲皇太叔。更名忱。權匂當軍國事。裁決咸當理。人始知其隠焉。尋即位。
李裕罷。僧孺・宗閔等北僊。裕三貶、至崖州司戸以死。
令狐綯同平章事。先是綯爲學士。上嘗以太宗所選金鏡録、授綯使讀之。又書貞觀政要於觀屏風、毎正色拱手而讀。嘗與學士畢諴論邊事。諴具陳方略。上悦曰、不意頗牧在吾禁中。即用爲邊帥。果稱其任。
宣宗皇帝、名は怡(い)憲宗の子也。幼きとき不慧(ふけい)と号す。太和の後益々自ら韜匿(とうとく)す。文宗好んで其の言を誘(いざの)うて以って笑いと為す。武宗豪邁(ごうまい)にして尤も之を礼せず。名付けて光叔と為す。武宗、疾篤し。子幼なり。宦官、策を禁中に定む。詔して怡を立てて、皇太叔と為す。更(あらた)めて忱(しん)と名づく。権(かり)に軍国の事を匂当(こうとう)す。裁決咸(ことごと)く理に当たる。人始めて其の隠徳を知る。尋(つ)いで位に即く。
李徳裕罷(や)む。僧孺・宗閔等、北に僊(うつ)る。徳裕三たび貶(へん)せられ、崖州の司戸(しこ)に至って以って死す。
令狐綯(れいことう)、同平章事たり。是より先綯、学士と為る。上嘗て太宗の選する所の金鏡録を以って、綯に授けて之を読ましむ。又貞観政要を屏風に書して、毎(つね)に色を正し手を拱(きょう)して読む。嘗て学士畢諴(ひっかん)と辺事を論ず。諴具(つぶさ)に方略を陳(の)ぶ。上悦んで曰く「意(おも)わざりき、頗牧(はぼく)、吾が禁中に在らんとは」と。即ち用いて辺帥と為す。果たして其の任に称(かの)う。
不慧 慧は賢い。 韜匿 才能を隠す。 豪邁 気性が強い。 光叔 光王というべきを軽んじて光叔父と呼んだ。 策を定む 臣下が天子を定めること。 権 仮。 匂当 事務を執る。 崖州 広東省の地。 司戸 戸籍や田地を管理する。 金鏡録 唐の太宗が自撰の書。 貞観政要 太宗と家臣の政治問答。拱す 手を組んで拝礼すること。 頗牧 廉頗と李牧共に趙の名将。 辺帥 国境防備の将軍。
宣宗皇帝、名は怡で憲宗の子で武宗の叔父にあたる。幼いとき愚か者と言われ、太和の後には益々才能を隠して愚を装っていた。文宗はこの怡に何か言わせて笑いの種にした。武宗は気性が強く叔父を礼せず光叔と呼びすてにしていた。
武宗の病気が重く、子はまだ幼なかった。宦官たちは太子を立てるにあたって自分達の傀儡として怡を皇太叔に立て、名を忱とあらためるとの詔が発せられた。試みに軍政と国政に当たらせてみた。すると裁決がすべて的を射ていた。人は始めて才能を隠していたことを知ったのであった。やがて武宗の崩御にともなって即位した。
同平章事李徳裕が罷免され、牛僧孺・李宗閔らは北に任地を移された。李徳裕は三度左遷され崖州の司戸にまで落とされてそこで死んだ。
令狐綯が同平章事となった。それより以前令狐綯は翰林学士となって宣宗の側近くに仕えていた。宣宗は太宗の撰した金鏡録を授けて講じさせたことがあった。また貞観政要を屏風に書いて拱手して読んだ。
嘗て翰林学士の畢諴に辺境防備について意見を求めると畢諴はつぶさに方略を言上した。宣宗は驚き且つ悦んで「廉頗と李牧に匹敵する者が禁中に居るとは思いもよらなかった」と言って、即座に抜擢して辺將としたところ見事に任にふさわしい働きをした。
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