即位之初、欲陰察羣情、頗爲微行。或諌毋輕出。上曰、帝王之興、自有天命。周世宗見諸將方面大耳者、皆殺之。我終日侍側。不能害也。微行愈數。曰、有天命者、任自爲之、不汝禁也。中外讋服。
昭義節度使李筠、故周宿將。反於澤州。上命石守信討之。尋親征。筠自焚死。澤・潞平。淮南節度使李重進、周祖之甥也。亦反。上命石守信討之。尋親征。重進自焚死。淮南平。荊南高寶融卒。弟寶勗代之。南唐泉州留從効稱藩。
建隆二年、南唐主李景、遷都于南昌、以其子從嘉守建康。景殂。從嘉立。更名。
即位の初め、陰(ひそ)かに群情を察せんと欲して、頗(すこぶ)る微行(びこう)を為す。或るひと軽々しく出ずる毋(な)かれ、と諌む。上(しょう)曰く「帝王の興るや、自ら天命有り。周の世宗、諸将の方面大耳(ほうめんだいじ)なる者を見て、皆之を殺す。我終日、側に侍す。害する能わざるなり」と。微行愈々(いよいよ)しばしばす。曰く「天命ある者は、自ら之を為すに任す、汝を禁ぜざるなり」と。中外讋服(せいふく)す。
昭義の節度使李筠(りいん)は故(もと)の周の宿将なり。澤州に反す。上、石守信に命じて之を討たしむ。尋(つ)いで親(みずか)ら征す。筠、自焚(じふん)して死す。澤・潞(ろ)平らぐ。
淮南(わいなん)の節度使李重進、周祖之甥也。亦た反す。上、石守信に命じて之を討たしむ。尋いで親征す。重進自焚して死す。淮南平ぐ。
荊南の高寶融卒す。弟寶勗(ほうきょく)之に代わる。南唐泉州の留従効、藩と称す。
建隆二年、南唐主李景、都を南昌に遷(うつ)し、其の子従嘉を以って建康を守らしむ。景殂(そ)す。従嘉立つ。名を(いく)と更(あらた)む。
方面大耳 四角の顔と大きい耳。 讋服 畏れ服すること。
宋の太祖は即位の初め、密かに民情を知ろうとたびたび忍び歩いた。すると臣下が「軽々しく外出されませんように」と諌めた。太祖は「帝王が出現するのは天命である。例えば周の世宗は諸将の中で四角い顔と大きな耳の者を見ると後の災いを畏れて皆殺しにした。ところがこのわしは終日側に居ながら危害に遭わなかったではないか」と言って微行は益々足繁くなった。そしてまた「天命を授かっている者は誰でも天子になるがよい、そなたも決して止めはしないぞ」と言った。朝廷の内外はこれを聞いて畏れ敬服してしまった。
昭義の節度使李筠は周の老将であったが、沢州で反乱を起した。太祖は石守信に命じてこれを討伐させ、引き続いて自ら征伐に向かった。李筠は火中に身を投じて死んだ。それで沢・潞の二州は平定した。
淮南の節度使李重進は、周の太祖の甥で、これも亦た謀叛を起した。太祖は石守信に命じてこれを討伐させ、続いて自ら征伐に向かった。重進は自ら火中に身を投じて死に淮南が平定した。
荊南の高寶融が死んで弟の寶勗がこれに代わった。南唐泉州の留従効が帰服して、藩臣と称した。
建隆二年(961年)、南唐の主李景が都を南昌に遷し、其の子の從嘉に建康を守らせた。李景が死に、從嘉が立って、名をと改めた。
昭義節度使李筠、故周宿將。反於澤州。上命石守信討之。尋親征。筠自焚死。澤・潞平。淮南節度使李重進、周祖之甥也。亦反。上命石守信討之。尋親征。重進自焚死。淮南平。荊南高寶融卒。弟寶勗代之。南唐泉州留從効稱藩。
建隆二年、南唐主李景、遷都于南昌、以其子從嘉守建康。景殂。從嘉立。更名。
即位の初め、陰(ひそ)かに群情を察せんと欲して、頗(すこぶ)る微行(びこう)を為す。或るひと軽々しく出ずる毋(な)かれ、と諌む。上(しょう)曰く「帝王の興るや、自ら天命有り。周の世宗、諸将の方面大耳(ほうめんだいじ)なる者を見て、皆之を殺す。我終日、側に侍す。害する能わざるなり」と。微行愈々(いよいよ)しばしばす。曰く「天命ある者は、自ら之を為すに任す、汝を禁ぜざるなり」と。中外讋服(せいふく)す。
昭義の節度使李筠(りいん)は故(もと)の周の宿将なり。澤州に反す。上、石守信に命じて之を討たしむ。尋(つ)いで親(みずか)ら征す。筠、自焚(じふん)して死す。澤・潞(ろ)平らぐ。
淮南(わいなん)の節度使李重進、周祖之甥也。亦た反す。上、石守信に命じて之を討たしむ。尋いで親征す。重進自焚して死す。淮南平ぐ。
荊南の高寶融卒す。弟寶勗(ほうきょく)之に代わる。南唐泉州の留従効、藩と称す。
建隆二年、南唐主李景、都を南昌に遷(うつ)し、其の子従嘉を以って建康を守らしむ。景殂(そ)す。従嘉立つ。名を(いく)と更(あらた)む。
方面大耳 四角の顔と大きい耳。 讋服 畏れ服すること。
宋の太祖は即位の初め、密かに民情を知ろうとたびたび忍び歩いた。すると臣下が「軽々しく外出されませんように」と諌めた。太祖は「帝王が出現するのは天命である。例えば周の世宗は諸将の中で四角い顔と大きな耳の者を見ると後の災いを畏れて皆殺しにした。ところがこのわしは終日側に居ながら危害に遭わなかったではないか」と言って微行は益々足繁くなった。そしてまた「天命を授かっている者は誰でも天子になるがよい、そなたも決して止めはしないぞ」と言った。朝廷の内外はこれを聞いて畏れ敬服してしまった。
昭義の節度使李筠は周の老将であったが、沢州で反乱を起した。太祖は石守信に命じてこれを討伐させ、引き続いて自ら征伐に向かった。李筠は火中に身を投じて死んだ。それで沢・潞の二州は平定した。
淮南の節度使李重進は、周の太祖の甥で、これも亦た謀叛を起した。太祖は石守信に命じてこれを討伐させ、続いて自ら征伐に向かった。重進は自ら火中に身を投じて死に淮南が平定した。
荊南の高寶融が死んで弟の寶勗がこれに代わった。南唐泉州の留従効が帰服して、藩臣と称した。
建隆二年(961年)、南唐の主李景が都を南昌に遷し、其の子の從嘉に建康を守らせた。李景が死に、從嘉が立って、名をと改めた。
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