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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 柳宗元 蛇を捕うる者の説(二の一)

2014-10-30 09:56:25 | 唐宋八家文
捕蛇者説
永州之野産異蛇。質而白章。色觸草木盡死、以齧人無禦之者。然得而腊之、以爲餌、可以已大風攣踠瘻癘、去死肌、殺三蟲。其始太醫以王命聚之、歳賦其二。募有能捕之者、當其租入。永之人爭奔走焉。
有蔣氏者、專其利三世矣。問之、則曰、吾祖死於是、吾父死於是。今吾嗣爲之十二年、幾死者數矣。言之、貌若甚慼者。余悲之、且曰、若毒之乎。余將告于蒞事者、更若役、復若賦、則何如。蔣氏大戚、汪然出涕曰、君將哀而生之乎。則吾斯役之不幸、未若復吾賦不幸之甚也。嚮吾不爲斯役、則久已病矣。
自吾氏三世居是郷、積於今六十歳矣。而郷鄰之生日蹙、殫其地之出、竭其廬之入。號呼而轉徙、飢渇而頓踣。觸風雨、犯寒暑、呼嘘毒癘、往往而死者相藉也。

蛇を捕うる者の説(二の一)
永州の野に異蛇を産す。黒質にして白章なり。草木に触るれば尽く死し、以って人を齧(か)めばこれを禦(ふせ)ぐもの無し。然れども得てこれを腊(せき)にし、以って餌(じ)と為さば、以って大風(だいふう)・攣踠(れんえん)・瘻癘(ろうらい)を已(や)め、死肌を去り、三蟲を殺すべし。その始め太医王命を以ってこれを聚(あつ)め、歳ごとにその二を賦(ふ)す。募りて能くこれを捕うる者有れば、その租に当(あ)つ。永の人争って奔走す。
蔣氏なる者有りて、その利を専(もっぱ)らにすること三世なり。これに問えば則ち曰く「吾が祖是に死し、吾が父も是に死す。今吾嗣(つ)ぎてこれを為すこと十二年、幾(ほとんど)死せんとせしことしばしばなり」と。 これを言うに貌(かお)甚だ慼(いた)める者の若(ごと)し。余これを悲しみ、且つ曰く「若(なんじ)これを毒とするか。余将(まさ)に事に蒞(のぞ)む者に告げて若の役(えき)を更(あらた)め、若の賦を復せん。則ち如何」と。蔣氏大いに戚(いた)み、汪然(おうぜん)として涕を出して曰く「君将に哀しんでこれを生かさんとするか。則ち吾が斯(こ)の役の不幸は、未だ吾が賦を復するの不幸の甚だしきに若(し)かざるなり。嚮(も)し吾斯の役を為さざれば、則ち久しく已に病みしならん。
吾が氏三世是の郷に居りしより、今に積みて六十歳なり。而るに郷隣の生は日に蹙(せま)り、その地の出(しゅつ)を殫(つく)し、その廬(ろ)の入(にゅう)を竭(つく)す。号呼して転徙(てんし)し、飢渇して頓踣(とんぼく)す。風雨に触れ、寒暑を犯し、毒癘(どくれい)を呼嘘(こきょ)し、往々にして死する者相藉(し)けり。


腊 干し肉。 餌 薬。 大風 らい病。 攣踠 手足がかがまる。 瘻癘 はれもの。 死肌 血行不良。 三蟲 三尸虫、人の腹中に棲み庚申の夜中にその人の悪事を上帝に告げ口するという。 太医 宮中の医者。 慼 うれう。 蒞 たずさわる。 嚮 かりに。 殫 竭 ともに尽き果てる意。 転徙 逃げ出すこと。 頓踣 倒れる。 毒癘 毒気。 呼嘘 呼吸する。

 永州の野には珍しい蛇がいる。黒地に白いまだらがある。草木に触れると草木は尽く枯れ、人を噛めば助かる手立ては無い。しかしこれを捕えて乾し、薬とすれば、らい病、手足の萎え、はれものを治し、血行の止まった皮膚をよみがえらせ、尸虫まで殺すという。始めは宮中の侍医が天子の命令でこの蛇を集め、一年に二匹を割り当て、税金に充当した。永州の人はこの蛇を捕るために奔走した。
 ここに蔣さん一家が居て、この蛇捕りをして三代になる。話してみるとこう言った「わしのお爺さんは蛇に噛まれて死んだ。おやじも噛まれて死んだ。今は私が後を継いで十二年になるが、何度も死にかけたよ」そう言いながら大変悲しそうな表情だったので、わたしも可哀そうになって「そんなにつらいなら、私が上の者に掛け合ってお前の仕事を変えて、普通に税を納めるようにしたらどうか」と言うと、蔣さんはひどく悲しみ、涙を流しながら訴えた「だんなさんは私を哀れんで死なないように思ってくださるのでしょうが、私のこの仕事はなるほど不幸といえば不幸ですが、私に課税されることを思うとまだましです。もしこの仕事をしなければ、永いこと苦労し通しですよ。
 私ら三世代この村に居着いて六十年になりますが、村人の暮らしは日に日に差し迫って土地の作物は根こそぎ、家の収入も残らず持っていかれてしまいます。泣き叫んで逃げ出し、飢えて行き倒れになり、風にさらされ雨に打たれ、暑さ寒さに苦しみ、毒気を吸って病気になって、遂には死体が重なっている有り様ですよ。」

唐宋八家文 柳宗元 段太尉の逸事状 (四の四)

2014-10-25 10:00:00 | 唐宋八家文
段太尉の逸事状 (四の四)
 及太尉自州以司農徴、戒其族過岐、朱幸致貨幣、愼勿納。及過、固致大綾三百匹。太尉壻韋晤、堅拒不得命、至都。太尉怒曰、果不用吾言。晤謝曰、處賤無以拒也。太尉曰、然。終不以在吾第、以如司農治事堂、棲之梁木上。反、太尉終。吏以告。取視、其故封識具存。 太尉逸事如右。
 元和九年月日、永州司馬員外置同正員柳宗元、謹上吏館。今之稱太尉大節者、出入以爲、武人一時奮不慮死、以取名天下。不知太尉之所立如是。宗元嘗出入岐周邠斄、過眞定北上馬嶺、歷亭鄣堡戍、竊好問老校退卒、能言其事。太尉爲人姁姁常低首、拱手行歩。言氣卑弱、未嘗以色待物。人視之儒者也。遇不可、必達其志。決非偶然者。會州刺史崔公來。言信行直。備得太尉遺事。覆校無疑。或恐尚逸墜未集太史氏、敢以狀私於執事。謹狀。

太尉州より司農を以って徴(め)さるるに及んで、その族岐(き)を過(よぎ)るに、朱(しゅせい)幸いに貨幣を致さば、慎んで納るる勿れと戒む。過(よぎ)るに及んで、固く大綾三百匹を致す。太尉の婿の韋晤(いご)、堅く拒めども命を得ず、都に至る。太尉怒って曰く「果たして吾が言を用いず」と。晤謝して曰く「賎に処(お)れば以って拒む無きなり」と。太尉曰く「然り」と。終(つい)に以って吾が第(てい)に在らしめず、以って司農の治事堂に如(ゆ)き、これを梁木の上に棲(お)く。
反して、太尉終わる。吏以ってに告ぐ。取って視るにその故(もと)の封識具(つぶさ)に存せり。太尉の逸事は右の如し。   
元和九年月日、永州司馬員外置・同正員柳宗元、謹んで吏館に上(たてまつ)る。
今の太尉の大節を称する者、出入(しゅつにゅう)して以為(おも)えらく、武人一時に奮って死を慮(おもんばか)らず、以って名を天下に取ると。太尉の立つ所是の如きを知らず。
 宗元嘗て岐周・邠(ひん)・斄(たい)の間に出入し、真定を過ぎて北のかた馬嶺に上り、亭鄣(ていしょう)・堡戍(ほじゅ)を歴(へ)て、窃(ひそ)かに好んで老校退卒に問うに、能くその事を言う。太尉の人となり姁姁(くく)として常に首(こうべ)を低(た)れ、手を拱(こまぬ)いて行歩す。言気卑弱にして、未だ嘗て色を以って物に待たず。人これを視るに儒者なり。不可なるに遇えば、必ずその志を達す。決して偶々(たまたま)然るものに非ず。
 州の刺史崔公来るに会す。言は信に行いは直なり。備(つぶさ)に太尉の遺事を得たり。覆校するに疑い無し。或いは尚逸失(いっしつ)して未だ太史氏に集まらざらんことを恐れ、敢て状を以って執事に私(し)す。謹んで状す。


司農 農務大臣。 岐 岐陽。 朱 岐陽の藩鎮、後に反乱を起こす。 幸い 万一。 大綾 太い綾布。 賎 低い身分。 司馬員外置正員 定員外にあって正官と同じ待遇の刺史の補佐官。 出入 おしなべて。 岐周・邠・斄 共に陜西省西部の地名。 亭鄣 宿駅の守備隊。 堡戍 砦の陣営。 姁姁 やわらぐさま。 拱 指を組んで礼をする。 色 顔色。 不可 許せないこと。 

太尉が州の刺史から司農卿として朝廷に召されることになったとき、一族が岐陽を通り過ぎる際に朱が万一贈り物を届けても決して受け取ってはいけないと戒めた。通りかかると朱はしつこく太い綾布三百匹を贈りつけて来た。太尉の婿の韋晤は堅く拒んだが抗しきれず受け取って都に来た。太尉は怒って「やっぱりわしの言いつけをまもらなかったな」と言ったが韋晤は謝った末に「私は低い身分なので断りきれませんでした」と言った。太尉は「わかった」というとその贈り物を屋敷に置かせず、司農の執務室の梁の上に置いた。
朱が反乱を起こし、太尉は殺された。下役人が朱に贈り物の話をしたので朱が取り出してみると封印は切られることなく完全に残っていた。 段太尉の逸事は以上の通りである。
元和九年月日、永州の司馬員外置・同正員柳宗元、謹んで吏館にたてまつる。近頃太尉の大いなる節義を称揚する者、たいていの人が、太尉は武人としてその時奮闘して死を賭した。それで天下に名を残したと思っている。それは太尉の平生を知らずただ一事のみを見て判断しているだけである。
私は嘗て岐周・邠・斄のあたりに往き来し、真定を通って北の馬嶺に登り、宿駅の守備隊や砦の陣営をたずねて、ひそかに老いた将校や退役した兵士に尋ねると、太尉について話してくれた。それによると太尉の人となりは優しく常に頭を垂れ、手を拱組んで歩いていた。言葉もやさしく、未だ嘗て顔色を変えて物事に接したことがなかった。人から見るとまるで儒者のようであった。しかし見過ごす事ができない事態になると、必ず自分の意志を貫き通した。であるから太尉が死んだのは決して偶々そうなったものではないのである。
 永州刺史の崔公が来られたのに会った。公は言うことと行いが正しい人で、その崔公から詳しく太尉の知られていない事を聞くことができた。繰り返して調べてみたが間違い無かった。あるいはまだ見落とされて吏官のところに集められていないかもしれぬと思い敢えて書状を以って私的に担当者にお届けする。 謹んで書状で申し上げた。


唐宋八家文 柳宗元 段太尉の逸事状 (四の三)

2014-10-21 15:13:03 | 唐宋八家文
 先是太尉在州、爲營田官。大將焦令、取人田自占數十頃、給與農曰、且熟歸我半。是歳大旱、野無草。農以告。曰、我知入數而已、不知旱也。督責急。且餓死、無以償。即告太尉。太尉判狀辭甚巽。使人求諭。盛怒、召農者曰、我畏段某耶。何敢言我。取判鋪背上、以大杖撃二十、垂死。輿來庭中。太尉大泣曰、乃我困汝。即自取水、洗去血。裂裳衣瘡、手注善藥、旦夕自哺農者、然後食。取騎馬賣、市穀代償、使勿知。淮西寓軍帥尹少榮、剛直士也。入見大罵曰、汝誠人耶。州野如赭。人且餓死。而必得穀、又用大杖撃無罪者。段公仁信大人也。而汝不知敬。今段公唯一馬、賤賣市穀入汝。汝又取不恥。凡爲人傲天災、犯大人、撃無罪者又取仁者穀、使主人出無馬。汝將何以對天地。尚不愧奴隷耶。雖暴抗然聞言則大愧、流汗不能食。曰、吾終不可以見段公。一夕自恨死。

是より先、太尉州に在りて、営田の官たり。の大将焦令(しょうれいしん)、人の田を取りて自ら占むること数十頃(けい)、農に給与して曰く「且(まさ)に熟せば我に半ばを帰(おく)れ」と。是の歳大いに旱(ひでり)し、野に草無し。農以ってに告ぐ。曰く「我入数を知るのみ、旱を知らざるなり」と。督責(とくせき)益々急なり。且に餓死せんとして、以って償う無し。即ち太尉に告ぐ。太尉の判状、辞甚だ巽(そん)なり。人をして求めてに諭さしむ。盛怒し、農者を召して曰く「我段某を畏(おそ)れんや。何ぞ敢て我を言う」と。判を取りて背上に鋪(し)き、大杖を以って撃つこと二十、死に垂(なんな)んとす。輿(よ)して庭中に来る。太尉大いに泣いて曰く「乃ち我汝を困(くる)しましむ」と。即ち自ら水を取り、血を洗い去る。裳(しょう)を裂いて瘡(きず)に衣(き)せ、手ずから善薬を注(つ)け、旦夕自ら農者に哺(ほ)し、然る後に食す。騎馬を取って売り、穀を市(か)いて代償し、知ること無からしむ。
淮西寓軍(わいせいぐうぐん)の帥(すい)尹少栄、剛直の士なり。入りてを見、大いに罵(ののし)って曰く「汝誠に人か。州の野(や)、赭(しゃ)の如し。人且に飢死せんとす。而して必ず穀を得んとし、又大杖を用(も)って罪無き者を撃つ。段公は仁信の大人(たいじん)なり。而るに汝敬することを知らず。今段公唯だ一馬のみなるに、賤売(せんばい)して穀を市い汝に入る。汝また取って恥じず。凡そ人と為って天災に傲(おご)り、大人を犯し、罪無き者を撃ち、また仁者の穀を取り、主人をして出ずるに馬無からしむ。汝将(は)た何を以って天地に対(こた)えん。尚奴隷に愧(は)じずや」と。
暴抗と雖も、然れども言を聞きて則ち大いに愧じ、汗を流して食する能わず。曰く「吾終に以って段公を見るべからず」と。一夕自ら恨んで死す。


営田 屯田の管理。 頃 百畝。 給与 小作をさせること。 帰れ 納めろ。 判状 判決文。 巽 おだやか。 哺し 食べさせる。 市 買う。 寓軍の帥 駐留軍の大将。 赭 あかつち。 暴抗 乱暴で逆らう。 

是より前に太尉は州の屯田の管理をしていた。の大将の焦令は、他人の田数千畝を自分の物にし、農夫に貸し与えていた。そして「収穫したらわしに半分納めろ」と命じた。この年はひどい旱魃で、一面草も生えていない状況であった。農夫は焦令に訴えたが「わしは小作の収量を知ればよいのだ、旱魃のことなど知る必要もない」ととりあわず督促をますます厳しくした。農夫は飢え死に寸前にまでなったが、納める手立てが無い。そこで太尉に訴え出た。それに対する太尉の判決文は穏やかな文面で人に持たせて焦令の間違いを諭した。焦令はひどく腹を立て、農夫を呼び出してこう言った「わしが段なにがしを畏れるものか。どうしてわしを訴え出たのだ」と判決文を農夫の背中に置き、太い杖で二十回も打ち据えたので、農夫は死にそうになった。その農夫を戸板に乗せ太尉の役所の庭に運んできた。太尉は泣いて「かえって私がお前を苦しませてしまった。すまない」と言って、自ら水で血を流し、下着を裂いて傷を包み、薬をつけて朝夕食事を口に運び、その後で自分の食事をとった。馬を売って穀物を買い、農夫は言わずに代わって焦令に納めた。
淮西駐留軍の大将尹少栄は剛直な人物で、焦令に会うと、罵り言った「お前はそれでも人間か。いま州はひどい旱魃で野に草も生えない赤土ではないか。人々が飢え死にしそうなのに、無理に穀物を得ようとして罪無き人を打ち据えた。段どのは情け深くまことの心を持った立派な人物であるのにお前は敬うことを知らない。段どのは馬を売ってまでして穀物を買い、お前に納めた。それを受け取って恥じない。およそ人にありながら天災を侮り、立派な人物に無礼をし、罪の無い者を打ち据え、そのうえ情け深い人の穀物を取り上げ、主人が外出をするのに馬も無い状態にさせた。お前は天地の神にどう申し開きをするつもりだ。使用人にさえ恥ずかしいではないか」
焦令は乱暴で人に逆らう性格であったが、さすがにこの言葉を聞いて大いに恥じ入り、冷や汗を流して食も喉を通らなくなった。「私は段どのに会わせる顔がない」と言ってある晩自分を恨みながら死んだ。


唐宋八家文 柳宗元 段太尉の逸事状(四の二)

2014-10-16 11:08:55 | 唐宋八家文
孝震恐、召太尉曰、將奈何。太尉曰無傷也。請辭於軍。孝使數十人從太尉。太尉盡辭去、解佩刀、選老躄者一人持馬、至晞門下。甲者出。太尉笑且入曰、殺一老卒何甲也。吾載吾頭來矣。甲者愕。因諭曰、尚書固負若屬耶。副元帥固負若屬耶。奈何欲以亂敗郭氏。爲白尚書、出聽我言。
晞出見太尉。太尉曰、副元帥勲塞天地、當務始終。今尚書恣卒爲暴、暴且亂。亂天子邊、欲誰歸罪。罪且及副元帥。今邠人惡子弟、以貨竄名軍籍中、殺害人。如是不止、幾日不大亂。大亂由尚書出、人皆曰、尚書倚副元帥不戢士。然則郭氏功名、其與存者幾何。言未畢、晞再拜曰、公幸教晞以道。恩甚大。願奉軍以從。顧叱左右曰、皆解甲散還火伍中。敢譁者死。太尉曰、吾未哺食。請假設草具。既食曰、吾疾作。願留宿門下。命持馬者去旦日來、遂臥軍中。晞不解衣、戒候卒、撃柝衞太尉。旦倶至孝所、謝不能、請改過。邠州由是無禍。

孝徳震恐(しんきょう)す。太尉を召して曰く「将に奈何(いかん)せんとす」と。太尉曰く「傷(いた)むこと無きなり。請う軍に辞せん」と。孝徳数十人をして太尉に従わしむ。太尉尽く辞し去り、佩刀を解き、老躄(ろうへき)なる者一人を選んで馬を持せしめ、晞の門下に至る。甲者出ず。太尉笑い且つ入りて曰く「一老卒を殺すに何ぞ甲するや。吾、吾が頭を戴いて来たれり」と。甲者驚く。因りて諭して曰く「尚書固(まこと)に若(なんじ)が属に負(そむ)くか。奈何(いかん)ぞ以って郭氏を乱敗せんと欲する。為に尚書に白(もう)せ、出でて我が言を聴け」と。
晞出でて太尉を見る。太尉曰く「副元帥の勲は天地を塞ぐ。当(まさ)に始終を務むべし。今尚書卒を恣(ほしいまま)にして暴を為し、暴にして且つ乱れんとす。天子の辺を乱さば、誰にか罪を帰せんと欲する。罪且(まさ)に副元帥に及ばんとす。今邠人の悪子弟、貨を以って名を軍籍の中に竄(かく)して、人を殺害す。是の如くにして止まずんば、幾日か大いに乱れざらん。大乱尚書より出ずれば、人皆曰わん「尚書は副元帥を倚(たの)みて士を戢(おさ)めず」と。然らば則ち郭氏の功名、その与(ため)に存するもの幾何(いくばく)ぞ」と。言未だ畢(おわ)らざるに、晞再拝して曰く「公幸いに晞に教うるに道を以ってす。恩甚だ大なり。願わくは軍を奉じて以って従わん」と。顧みて左右を叱(しっ)して曰く「皆甲を解いて散じて火伍(かご)の中に還れ。敢えて譁(さわ)ぐ者は死せん」と。太尉曰く「吾未だ哺食(ほしょく)せず。請う仮に草具を設けんことを」と。
既に食して曰く「吾疾(やまい)作(おこ)れり。願わくは門下に留宿せん」と。馬を持する者に、去って旦日(たんじつ)に来れと命じ、遂に軍中に臥す。晞、衣を解かず、候卒を戒め、柝(たく)を撃ちて太尉を衛(まも)る。旦(あした)に倶(とも)に孝徳の所に至り、不能を謝し、過ちを改めんと請う。邠州是に由って禍い無し。


辞 説明すること。 老躄 老いて足の悪い兵。 甲者 武装した兵士。 属 仲間。 倚 たのむ。 戢 おさめる。   火伍 火は十人伍は五人 小部隊。  哺食 哺は含む。 草具 粗末な食事。 候卒 候は見張り。 柝 拍子木。 

白孝徳は震え上がって太尉を呼びつけ「どうするつもりだ」と言った。太尉は「心配いりません。どうか私に軍に出向き説明させてください」と言った。白孝徳は数十人を選び太尉に付けた。太尉はこれを断り、刀をはずして足の悪い老卒一人に馬を引かせ郭晞の城門の下にやって来た。武装した兵が出てくると、笑いながら門をくぐって言った「老兵一人を殺すに何でものものしく武装する。わたしは自分の頭をこうして載せてきた」と。兵卒は驚いた。それで太尉は言い聞かせた「郭尚書は本当にそなた達の仲間にそむく事をしたのか。父の副元帥は本当にそなた達の仲間にそむく事をしたのか。どうして郭家を混乱させ不名誉なことをしようとするのか。尚書に取り次いでくれ、私の言うことに耳を傾けてくれと」
郭晞は出てきて太尉を見た。太尉は言った「副元帥の勲功は天地を覆うほど大きい。名誉は全うされなければなりません。今尚書は兵卒を放縦にし、乱暴狼藉を働き、反乱にまで発展しようとしています。天子の治める周辺に異変が起こった場合一体誰が責任をとるのでしょうか、遂には副元帥に及ぶことでしょう。今や邠人の悪党どもは、お金を遣って軍中に隠れ、遂に人まで殺害した。このまま放っておけば遂には大乱になることでしょう。この大乱が尚書閣下より起こるとすれば皆はなんと言うでしょう。尚書は副元帥の威光のもとに兵士を治められなかったと。そうとすれば郭氏の功名、すぐにも危ういものになりましょう」と。
太尉の言葉が終らぬうちに郭晞は拝礼して言った「貴公は幸い私に道義を以って教示してくれた。この恩は甚だ大きい。全軍貴公の言を奉じて以って従いましょう」左右の者を叱って言った「皆武装を解いて小隊に還れ。それでも騒ぐ者は命が無いと思え」と。太尉は「私は未だ食事をしていません。できれば簡単な食事を用意していただけたら有り難い」と言った。既に食事を終って「どうも体調がよろしくない、できれば門の下にでも寝かせて欲しい」と言い、馬を引く者に、明朝また来るように命じ、遂に軍中に臥す。郭晞は、衣を解かず、見張りの兵卒を戒め、拍子木を打って太尉の護衛を厳重にした。朝になり共に孝徳の所に出向き、不始末を謝し、過ちを改めることを請約した。邠州は太尉の働きによって事なきを得た。

唐宋八家文 柳宗元 段太尉の逸事状

2014-10-11 14:45:24 | 唐宋八家文
段太尉の逸事状
 太尉始爲州刺史時、汾陽王以副元帥居蒲。王子晞爲尚書、領行營節度使。寓軍邠州、縱士卒無頼。邠人偸嗜暴惡者、率以貨竄名軍伍中、則肆志。吏不得問。日羣行丐取於市、不嗛輒奮撃折人手足、椎釜鬲甕盎盈道上、袒臂除去。至撞殺孕婦人。
 邠寧節度使白孝、以王故、戚不敢言。太尉自州以狀白府、願計事。至則曰、天子以生人付公理。公見人被暴害、因恬然。且大亂。若何。孝曰、願奉教。太尉曰、某爲州甚適少事。今不忍人無寇暴死、以亂天子邊事。公誠以都虞侯命某者、能爲公已亂、使公之人不得害。孝曰、幸甚。如太尉請。既署一月、晞軍士十七人、入市取酒。又以刃刺酒翁、壞釀器。酒流溝中。太尉列卒取十七人、皆斷頭注槊上、植市門外。晞一營大譟盡甲。

 太尉始めて州(けいしゅう)刺史たりし時、汾陽王(ふんようおう)副元帥を以って蒲(ほ)に居る。王の子晞(き)は尚書と為り、行営節度使を領す。軍を邠州(ひんしゅう)に寓(とど)め、士卒を従(ほしいまま)にして無頼なり。邠人の偸嗜暴悪(とうしぼうあく)なる者、率(おおむ)ね貨を以って名を軍伍の中に竄(かく)し、則ち志を肆(ほしいまま)にす。吏問うことを得ず。日々に群行して市(いち)に丐取(かいしゅ)し、嗛(あきた)らずんば輒(すなわ)ち奮撃して人の手足を折り、釜鬲甕盎(ふれきおうおう)を椎(つい)して道上に盈(み)たし、臂(ひじ)を袒(はだぬ)いて徐(おもむろ)に去る。孕婦人(ようふじん)を撞殺(どうさつ)するに至る。
 邠寧(ひんねい)の節度使白孝徳、王を以っての故に戚(うれ)うれども敢えて言わず。太尉、州より状を以って府に白(もう)し、事を計らんことを願う。至れば則ち曰く「天子生人を以って公に付して理(おさ)めしむ。公、人の暴害せらるるを見て、因(よ)って恬然たり。且(まさ)に大いに乱れんとす。若何(いかん)せん」と。孝徳曰く「願わくは教えを奉ぜん」と。太尉曰く「某(それがし) 州(けいしゅう)と為り甚だ適して事少なし。今人の寇(こう)無くして暴死し、以って天子の辺事を乱すに忍びず。公誠に都虞侯(とぐこう)を以って某に命ずれば、能く公が為に乱を已(や)め、公の人をして害するを得ざらしめん」と。 孝徳曰く「幸甚なり」と。太尉の請うが如くす。
 既に署すること一月、晞の軍士十七人、市に入りて酒を取る。また刃(やいば)を以って酒翁を刺し、醸器を壊す。酒溝中に流る。太尉卒を列ねて十七人を取(とら)え、皆頭を断ちて槊上(さくじょう)に注(か)け、市門の外に植(た)つ。晞の一営大いに譟(さわ)いで尽(ことごと)く甲(こう)す。


太尉 段秀実のこと。死後最高の官位である太尉を贈られた。 逸事状 史館の記録に漏れて世に知られていない事柄を述べた行状文。 州刺史 甘粛省川県の長官。 汾陽王 郭子儀のこと。安史の乱を平定した。 行営節度使 任地を定めず暫時兵を駐留させる軍。 邠州 陜西省邠県。 無頼 頼りにできないこと。 偸嗜暴悪 偸は盗み取る、嗜はむさぼる。 竄 もぐりこむ。 丐取 ねだり取る。 嗛 満足する。 釜鬲甕盎 釜鬲はかまど甕盎はかめと鉢。 撞殺 突き殺す。 邠寧 邠県から甘粛省寧県にかけての地域。 恬然 平気なさま。 寇 外敵。 辺事 国境の治安。 都虞侯 軍の訓練や名簿をつかさどる官。 署 職に就く。 槊上 ほこの先。 甲す 武装する。

 段太尉が州の刺史になった時、汾陽王の郭子儀は副元帥として蒲州におり、王の子郭晞は尚書となって、行営節度使を授けられていた。邠州に駐留させ、士卒を放任していて頼りにできなかった。邠州の者で物を盗んだり乱暴したりした者が金で軍隊にもぐりこみ、好き勝手な振る舞いをしていた。役人も咎めることができなかった。毎日群れをなして市場でゆすりたかりを繰り返し、満足できないと暴れ出し手足を折ったり、鍋や甕を打ち砕いて路上に散らかしてから腕まくりして悠々と引き揚げるのであった。遂には妊婦を突き殺すまでになってしまった。
 邠寧節度使白孝徳は、郭子儀に気兼ねしてこの事態を憂慮しながらも敢て言い出せなかった。段太尉は州から書状をもって節度府に申し出て対処を願った。府に到着するとすぐに「天子は人民を閣下に預けて治めさせています。閣下は民が乱暴されて殺されても平然としておられる。今にも大乱となりそうな事態をどうなさるおつもりでしょうか」と言上した。孝徳は「どうか教えをいただきたい」というと「私は州の長官となって程よく治まり事件も少ない状態です。今この地では敵の侵入もないのに乱暴され殺されていて、天子の国境の治安を乱されることに耐えられないのです。閣下が私を都虞侯に任命してくださるなら、乱を治め閣下の民を害することのないようにいたしましょう」と言った。孝徳は「それはありがたい」と言って太尉の請うとおりにした。
 太尉が職に就いてひと月経ったとき、郭晞の兵十七人が酒を奪い、酒屋の主を刃で刺殺し、器を壊して酒を溝に流してしまった。太尉は部下を引き連れて十七人を捕え皆の首を斬って矛先に吊るし市場の門にたてた。郭晞の兵営が大騒ぎとなり、一斉に武装した。