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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

一技術者の死

2010-02-25 10:45:17 | Weblog
昨日通夜に参列して来ました。家内の従姉妹のご主人で、まだ59歳の無念の死でした。
今年早々、電話で近々会いたいと言ったところ「早くしないと会えなくなるよ」と軽く言うのです。私も体調を崩していたので、すぐに行くことができませんでした。2月4日に再入院したとは後で知りました。前日まで通勤していて入院後もタクシーで秋葉原まで往復したと聞き、技術者としての責任感の強さを知らされました。
彼は山口県で生まれた。日本海の水のきれいな海辺、その海のように清らかで、やさしく、誠実に生きてきたと会葬者の方々から伺った。
白木の位牌には 釋誠心 故の名は三輪勝二。彼の業績の一端はネットで窺い知ることができる。

十八史略 三人は人傑なり、吾能く之を用う

2010-02-06 10:19:41 | Weblog
上曰、公知其一、未知其二。夫運籌帷幄之中、決勝千里之外、吾不如子房、填國家、撫百姓、給餽餉、不絶粮道、吾不如蕭何。連百萬之衆、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。此三人者、皆人傑也。吾能用之。此吾所以取天下。項羽有一苒范、而不能用。此其所以爲我禽也。羣臣悦服。


上曰く、公其の一を知って、未だ其の二を知らず。夫(そ)れ籌(はかりごと)を帷幄(いあく)の中(うち)に運(めぐ)らし、勝つことを千里の外(ほか)に決するは、吾、子房に如(し)かず。国家を填(しづ)め、百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、餽餉(きしょう)を給し、粮道を絶たざるは、吾、蕭何に如かず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。此の三人は、皆人傑なり。吾、能(よ)く之を用う。此れ吾が天下を取りし所以なり。項羽は一(いつ)の范有れども、用うること能(あた)わず。此れ其の我が禽(とりこ)と為れる所以なり、と。群臣悦服す。



十八史略 四面楚歌

2010-01-21 15:39:41 | Weblog
四面皆楚歌
五年、王追羽至固陵。韓信・彭越期不至。張良勸王、以楚地・梁地許兩人。王從之。皆引兵來。黥布亦會。羽至垓下。兵少食盡。信等乘之。羽敗入壁。圍之數重。羽夜聞漢軍四面皆楚歌、大驚曰、漢皆已得楚乎。何楚人多也。

五年、王、羽を追うて固陵(こりょう)に至る。韓信・彭越(ほうえつ)期して至らず。張良、王に勧めて、楚の地・梁の地を両人に許さしむ。王之に従う。皆兵を引いて来る。黥布も亦会(かい)す。羽垓下(がいか)に至る。兵少なく食尽く。信等之に乗ず。羽敗れて壁に入る。之を囲むこと数重。羽、夜、漢の軍四面皆楚歌するを聞き、大いに驚いて曰く、漢皆すでに楚を得たるか。何ぞ楚人(そひと)の多きや。

漢の五年(紀元前202年)漢王は項羽を追撃して固陵(河南省)まで来た。ところが韓信と彭越は約束を違えて参陣しない。張良は漢王に、楚の地・梁の地を二人に分け与えるよう勧めたところ、兵を率いて来た。黥布もまた参集した。項羽は垓下(安徽省)まで退いた。兵は少なく食糧も底を尽いた。韓信たちはそれに乗じて攻め立てた。項羽は敗れて城壁内にたてこもり、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、四方から楚の歌が流れてくるのを聞き、驚いて言った「漢はもう楚の国をすっかり手にいれてしまったのか、なんと楚の兵の多く混じっていることよ」と。

十八史略 韓信節を枉げず

2010-01-16 13:06:04 | Weblog
項羽聞龍且死聽大懼、使武渉説信、欲與連和三分天下。信曰、漢王授我上將軍印、解衣衣我、推食食我。言聽計用。我倍之不祥。雖死不易。蒯徹亦説信。信不聽。
漢立黥布、爲淮南王。

項羽、龍且死すと聞いて大いに懼(おそ)れ、武渉をして信に説かしめ、與に連和(れんわ)して天下を三分せんと欲す。信曰く、漢王、我に上将軍の印を授け、衣を解いて我に衣(き)せ、食を推(お)して我に食(は)ましむ。言聴かれ、計(はかりごと)用いらる。我之に倍(そむ)くは不祥(ふしょう)なり。死すと雖も易(か)えじ、と。蒯徹(かいてつ)も亦信に説く。信聴かず。
漢、黥布を立てて淮南王(わいなんおう)と為す。

項羽は、龍且が死んだと聞いて大いに恐れ、武渉をさしむけて韓信を説き、共に連帯和睦して、項羽と、漢王劉邦、韓信で三分しようと持ちかけた。韓信は言った「漢王は私に上将軍の印綬を授けてくだされ、自身の着物を私に着せ、自分の食物を推してよこして私に食べさせてくれた、私の言は聴き入れられ、私の計略は何でも用いられます。これに叛くのは天に叛くも同じ、死んでも考えは変えません」と。蒯徹も同じく説得を試みたが、韓信は聴かなかった。
漢王はこの年、黥布を立てて淮南王にした。

十八史略 背水の陣(二)

2009-12-15 12:04:59 | Weblog
背水の陣(一)
未至井陘口止、夜半傳發輕騎二千人、人持赤幟、從道望趙軍。戒曰、趙見我走、必空壁遂我。若疾入趙壁、抜趙幟、立漢軍赤幟。乃使萬人先背水陣。平旦建大將旗鼓、鼓行出井陘口。趙開壁撃之。戰良久。信・耳佯棄鼓旗、走水上軍。趙果空壁遂之。水上軍皆殊死戰。

未だ井陘口に至らずして止まり、夜半に軽騎二千人を伝発(でんぱつ)し、人ごとに赤幟(し)を持ち、間道より趙の軍を望ましむ。戒(いまし)めて曰く、趙、我が走るを見ば、必ず壁(へき)を空しうして我を遂(お)わん。若(なんじ)、疾(と)く趙の壁に入り、趙の幟を抜いて、漢の赤幟を立てよ、と。乃(すなわ)ち万人をして先ず水を背にして陣せしむ。平旦、大将の旗鼓を建て、鼓行(ここう)して井陘口を出づ。趙壁を開いて之を撃つ。戦うこと良ゝ(やや)久し。信・耳佯(いつわ)って鼓旗を棄てて、水上の軍に走る。趙、果して壁を空(むな)しうして之を遂う。水上の軍、皆殊死して戦う。

韓信はまだ井陘口に着く前に軍を止めて、夜中に軽装の騎兵二千人をつぎつぎに出発させ、めいめいに漢の赤い旗印をもたせて、間道より趙の軍を見張らせた。そのとき特に「趙はわが軍が退却するのを見たら、きっと城壁を空にして追撃するに違いない、その時がきたらお前たちは素早く趙の城内に入り、趙の旗を抜いて、漢の赤旗を並べ立てよ」と策を授けた。そしてまず、一万人の兵を出して川を背にして陣を張った。その余の兵は夜明けを期に大将の旗を押し立て、太鼓の音とともに井陘口を出発した。趙は城門を開いて迎え撃った。ややしばし戦った後、韓信と張耳は偽って鼓や旗を捨てて川の辺の自陣に向かって敗走した。趙は案に違わず城壁を空にして追撃に移る。川べりの軍は川を背にして皆決死の覚悟で戦った。

平旦 夜明け  殊死 決死  鼓行 攻め太鼓を鳴らして進軍すること
佯 見せかける、ふりをする