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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

端午の節句

2010-05-05 11:50:27 | Weblog
連休も最後になりました。五月五日端午の節句で立夏にあたります。ところで端午とは何ぞや。広辞苑によると端はその月の初め、午は干支のうまの日、つまり本来は月初めの午の日ということになりますが、午と五の音が通じますから、五日に定着したようです。それでは節句とは、年に五度の節日、一月七日(人日)三月三日(上巳じょうし)五月五日(端午)七月七日(七夕)九月九日(重陽)の五節句。人日には粥を、上巳には草もちを、端午には粽(ちまき)を七夕には索餅(綱のようにねじって揚げた菓子)を供えた(節供とも)から。
古来邪気を払うため菖蒲を軒に挿したことから尚武に通じ、武を重んずることで男児の祝いの意味合いが強くなったということです。
なおおなじみの鍾馗さまですが、中国は唐の玄宗皇帝の夢に出てきて魔を祓い病を癒したと伝えられる架空の人物。

十八史略 

2010-04-17 11:28:49 | Weblog
今朝杉山公園の脇を通ったときうっすらと雪が残っていました。41年振りに記録を改新したとのこと、道理で寒い訳です。先週末にひいた風邪がまだ治りきっていません。それで、木曜日はお休みしてしまいました、ご免なさい。次の20日はしっかり書きます。
ところで黥布がついに滅ぼされたのですが、昨年12月19日に黥布と劉邦の初対面のとき、劉邦の無礼な態度に黥布が『布悔怒、欲自殺』を自殺せんと欲す。といいました。この記事の元にしているテキストに倣ったのですが、どうもすっきりしません。侮辱されて怒った人が果たして自殺しようとするでしょうか?むしろ「布悔やみ怒ってみずから殺さんと欲す」ではないでしょうか。なお一考の余地があります。

十八史略 韓信、呂后に殺される

2010-04-01 18:15:04 | Weblog
十年、代相國陳豨反。帝自將撃之。淮陰侯韓信舎人弟上変、告信陰與豨謀。呂后與蕭何謀、詐称豨已敗死、紿信入賀、使武士縛信、斬之。信曰、吾悔不用蒯徹之謀、乃爲兒女子所詐。遂夷信三族。

十年、代の相国陳豨(ちんき)、反す。帝自ら将として之を撃つ。淮陰侯(わいいんこう)韓信の舎人(しゃじん)の弟、変を上(たてまつ)り、信が陰(ひそか)に豨と謀(はか)ると告ぐ。呂后(りょこう) 蕭何(しょうか)と謀り、詐(いつわ)って豨已(すで)に敗死すと称し、信を紿(あざむ)いて入って賀せしめ、武士をして信を縛(ばく)せしめ、之を斬る。信曰く、吾蒯徹(かいてつ)の謀(はかりごと)を用いず、乃ち児女子の詐る所と為りしを悔ゆ、と。遂に信の三族を夷(たい)らぐ。

漢の十年に、代(河北省の地名)の宰相陳豨が謀反を起こした。高祖は自ら兵を率いて討伐に向った。留守中、淮陰侯韓信の家人(けにん)の弟が上書して韓信が密かに陳豨と呼応して謀反を企てていますと訴え出た。呂后と蕭何は計略を立てて、陳豨がすでに敗死したと言いふらし、韓信をあざむいて、祝賀の挨拶に参内するようしむけた。そして韓信が出向くと、武装した兵士に命じて縛り上げた。まさに斬られようとした時、韓信は言った。「わしがかつて蒯徹の策をしりぞけた為に、かえって女子供にしてやられた、それが悔やまれる」と。こうして韓信の父・母・妻の血族すべてが皆殺しにされた。

杉山公園リニューアル

2010-03-27 13:54:14 | Weblog
明日28日いよいよ杉山公園の改修が終わり、お披露目となります。地下に駐輪場を設け、トイレの位置や植栽も変えて一変しました。
当日はもちつき大会もあるそうです。小さいお子さんも若いお父さんも、もちつきが体験できます。搗き立ての餅も食べられますよ。
ところで余計なことですが数年前に公園の由来の石碑を変えたのですが、写しまちがえたと思われる文字を見つけました。ついでに捜してみてください。

十八史略 狡兎死して走狗烹らる 

2010-03-06 09:09:57 | Weblog
六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。

通釈文
漢の六年、高祖に書を奉(たてまつ)って楚王韓信が謀反を企てていると告げた者が居た。諸将は口々に、兵を出して若僧を穴埋めにするだけのことですと言った。高祖は陳平の意見を聞いた。陳平は皆の意見を危ぶんで言った「古には天子が巡視して諸侯を会合させることがありました。陛下はただの遊山の風に雲夢におでかけなさい。その折諸侯を陳に招集するのです。その機会に韓信を生捕にすればよいのです。そうすれば力士一人で事が足りましょう」と。高祖はうなずき、諸侯に「陳に会合せよ、予は雲夢に遊ぼうと思う」と通告した。高祖が陳に着くと、韓信が拝謁に来た。高祖は武士に命じて韓信を縛り副車に押しこめた。韓信は「なるほど誰かが言っていた通りだ、兎が捕り尽くされると、猟犬は用ずみになって烹られ、飛ぶ鳥が尽きれば、弓はお蔵入りになる。また敵国が亡びると、謀臣は殺されてしまうと。全くその通りだ。天下が定まった今、自分が烹殺される訳だ」
とうとう枷(かせ)をつけ縛られて洛陽につれてこられたが、後に赦されて淮陰侯に封じられた。