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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 井底の蛙

2011-05-24 09:23:59 | 十八史略

建武九年、隗囂死。囂自更始初年起兵、至建武初、據天水、自稱西州上將軍。後嘗遣馬援往成都、觀公孫述。援與述舊。謂當握手歡如平生。時述已稱帝四年矣。援既至。盛陳陛衞以延援。援謂其屬曰、天下雌雄未定。公孫不吐哺迎國士。反修飾邊幅、如偶人形。此何足久稽天下士乎。因辭歸。謂囂曰、子陽井底蛙耳。而妄自尊大。不如專意東方。

建武九年、隗囂(かいごう)死す。囂は更始初年より兵を起こし、建武の初めに至るまで、天水に拠(よ)り、自ら西州の上将軍と称す。後嘗て馬援を遣わし成都に往き、公孫述を観(み)しむ。援、述と旧あり。謂(おも)えらく当(まさ)に手を握って歓ぶこと平生の如くなるべしと。時に述已に帝と称すること四年なり。援既に至る。盛んに陛衛(へいえい)を陳(ちん)し以って援を延(ひ)く。援其の属に謂って曰く、天下雌雄未だ定まらず。公孫、哺(ほ)を吐いて国士を迎えず、反って辺幅を修飾すること、偶人(ぐうじん)の形の如し。此れ何ぞ久しく天下の士を稽(とど)むるに足らんやと。因(よ)って辞して帰る。囂に謂って曰く、子陽は井底(せいてい)の蛙(あ)のみ。而(しか)して妄(みだ)りに自ら尊大にす。意を東方に専(もっぱ)らにするに如(し)かず、と。

建武九年に隗囂が死んだ。隗囂は更始帝の初年から挙兵し、建武の初めに至るまで、天水(甘粛省)に割拠して自ら西州の上将軍と称していた。その後馬援を蜀の成都に遣わして、公孫述の人物を観察させた。馬援は公孫述とは旧知であったので、会ったら互いに手を握り歓んでくれると思っていた。ところがこの時公孫述は、帝と称してすでに四年経っていた。馬援が行っても、これ見よがしに衛兵を整列させて馬援を引き入れた。援は随行した属官にもらした。「天下未だ定まらず、多くの人材が欲しい今、食事を中断して、口中のものを吐き出してでも引見すべき時だというに、身の周りばかり飾り立て、ただの人形のようだ。これでは天下の国士を抱えることなど出来はしまい」と。
早々に辞去して帰り、隗囂に告げた「子陽(公孫述のあざな)は井の中の蛙にすぎません。やたらと尊大に振舞っているだけの木偶(でく)の坊です。専ら東の光武帝に向けるのがよろしいでしょう」と。

陛衛 陛はきざはし、宮殿の階段にいる儀衛兵。 延 引き入れる。 哺(ほ)を吐いて 周公旦が来客があると、食べかけた物を吐き、洗いかけた髪を握って出迎えた故事「吐哺握髪」による。 辺幅 うわべ、布の縁から。

十八史略 願わくは寇君を借ること一年せん

2011-05-21 09:28:31 | 十八史略
馮異自長安入朝。上謂公卿曰、是我起兵時主簿也。爲吾披荊棘、定關中。詔勞異曰、倉卒蕪蔞亭豆粥、滹沱河麥飯。厚意久不報。
建武八年、上自將征隗囂。潁川盗起。上還、謂執金吾寇恂曰、潁川迫近京師。獨卿能平之耳。從九卿復出可也。恂勸上親征。賊悉降。恂竟不拝郡。百姓遮道曰、願借寇君一年。乃留恂鎭撫。大軍不戰而還。

馮異(ふうい)長安より入朝す。上、公卿(こうけい)に謂って曰く、是、我が兵を起こしし時の主簿なり。吾が為に荊棘(けいきょく)を披(ひら)き、関中を定む、と。詔(みことのり)して異を労して曰く、倉卒(そうそつ)蕪蔞亭(ぶろうてい)の豆粥(とうじゅく)、滹沱河(こだか)の麥飯(ばくはん)、厚意久しく報ぜず、と。
建武八年、上、自ら将として隗囂(かいごう)を征す。潁川(えいせん)、盗起こる。上還って執金吾寇恂(しっきんご、こうじゅん)に謂って曰く、潁川は京師(けいし)に迫近す。独り卿(けい)能く之を平らげんのみ。九卿より復(また)出でて可ならんか、と。恂、上に勧めて親征せしむ。賊悉(ことごと)く降る。恂竟(つい)に郡を拝せず。百姓(ひゃくせい)、道を遮って曰く、願わくは寇君を借ること一年せん、と。乃ち恂を留めて鎮撫(ちんぶ)せしむ。大軍戦わずして還る。


馮異が長安から朝廷に参内した。帝は大臣たちに「馮異は自分が始めて兵を挙げた時の秘書官で、私のためにいばらを切り開いて、関中を平定してくれたのだ」さらにねぎらいの詔を下したが「あわただしい逃避行の最中に蕪蔞亭で工面してくれた豆粥や滹沱河での麦飯、あの折の厚意に未だ礼を言っていなかった。」と謝した。
建武八年(32年)、光武帝は自ら軍を率いて隗囂の討伐に向った。だが潁川郡に賊が起こった。帝は洛陽に引き返して、執金吾の寇恂に「潁川は洛陽に隣接した重要な地である。そなたでなければ平定できない。九卿の執金吾からひとつ潁川郡の長官に出向してくれまいか」しかし寇恂は親征を勧めたので、帝自ら討伐することになった。すると賊はすべて降伏した。結局寇恂は長官を拝命せず帝に随って還ろうとしたところ、沿道の人びとが道を遮って、「どうか寇恂さまを一年だけ私どもにお貸し与えください」と嘆願した。そこで寇恂をこの地に留めて治めさせることにした。かくて討伐の大軍は戦わずして還った。

主簿 庶務を統括する官。 荊棘を披き 争乱を鎮めることに譬えた。倉卒 あわてるさま。 執金吾 皇室警護の官。

十八史略 志ある者は事竟(つい)に成る

2011-05-19 10:26:53 | 十八史略

劉永所立齊王張歩降。上初以歩爲東萊太守。已而受永命王齊。將軍耿弇、屢戰大破之、抜祝阿・齊南・臨菑勞軍。謂弇曰、將軍前在南陽建大策。嘗以爲落落難合。有志者事竟成也。歩敗、齊地悉平。
將軍呉漢等、撃斬劉永所立海西王董憲、及叛將寵萌等。江淮山東悉平。時惟隗囂・公孫述未平。上積苦兵間。謂諸將曰、且當置此兩子於度外耳。

劉永の立つ所の齊王張歩(ちょうほ)降る。上、初め歩を以って東萊(とうらい)の太守と為す。已にして永の命を受けて齊に王たり。将軍耿弇(こうかん)、屡しば戦って大いに之を破り、祝阿・斉南・臨菑を抜く。車駕、臨菑に至って軍を労す。弇に謂って曰く、将軍前(さき)に南陽に在って大策を建つ。嘗て以為(おも)えらく、落落として合い難しと。志ある者は事竟(つい)に成る、と。歩敗れ、斉の地悉(ことごと)く平(たいら)ぐ。
将軍呉漢等、撃って劉永が立つる所の海西王董憲(とうけん)及び叛将寵萌(ほうほう)等を斬る。江淮(こうわい)山東悉く平ぐ。時にただ隗囂(かいごう)・公孫述(こうそんじゅつ)未だ平らがず。上、苦を兵間に積む。諸将に謂って曰く、且(しばら)く当(まさ)に此の両子を度外に置くべきのみ、と。


劉永が立てた斉王の張歩という者が投降した。光武帝は初め張歩を東萊郡の太守にした。ところがその後、劉永に封ぜらて斉の王になったのである。漢の将軍の耿弇が度たび張歩と戦って大いにこれを破り、祝阿・斉南・臨菑を攻め取った。光武帝は臨菑に行って、漢軍を労い、弇に向かって「将軍は以前南陽にいて、斉攻略の策を建ててくれたがあまりに壮大で、現実に合わないと思っていたが、なんと志さえ堅ければ何事も、成し得るものであるな」と称賛した。張歩は敗れ、斉の地はことごとく平定した。
将軍呉漢たちが、おなじく劉永が立てた海西王の董憲と、光武帝に叛いた寵萌らを討伐して斬った。これによって江淮、山東の地もすべて平定した。このとき、ただ隗囂と公孫述だけがまだ服さないでいた。帝は数しば、戦場で苦杯を舐めさせられていたので将軍たちに「あの二人は、しばらく度外に置くことにしよう」と言った。

落落 志の広く大きいさま、おおまかなさま。 度外 考慮に入れない、度外視。

十八史略 遼東の豕(いのこ)

2011-05-17 09:17:42 | 十八史略

赤眉餘衆、東向宜陽。上勒軍待之。樊崇以劉盆子・丞相徐宣等、肉袒降。上陳軍馬、令盆子君臣觀之。謂曰、得無悔降乎。宣叩頭曰、去虎口歸慈母。誠歡誠喜無限。上曰、卿所謂鐵中錚錚、庸中佼佼者也。各賜田宅。
雎陽人斬劉永降。劉永在更始時、立爲梁王。更始亡、永稱帝。至是敗。
漁陽太守彭寵奴、斬寵以降。初上討王郎、寵發突騎、轉糧不絶。自負其功、意望甚高、不能滿。幽州牧朱浮、與書曰、遼東有豕。生子。白頭。將獻之。道遇羣意豕。皆白。以子之功、論於朝廷、遼東豕也。
上徴寵。寵自疑遂反。至是敗。


赤眉の余衆、東の方宜陽(ぎよう)に向かう。上、軍を勒(ろく)して之を待つ。樊崇は劉盆子や丞相の徐宣等を以(ひき)いて、肉袒して降る。上、軍馬を陳(ちん)し、盆子の君臣をして之を観しむ。謂って曰く、「降を悔ゆること無きを得んや」と。宣、叩頭して曰く、「虎口を去って慈母に帰す。誠歓誠喜限り無し」と。上、曰く、「卿は所謂(いわゆる)鉄中の錚錚(そうそう)、庸中(ようちゅう)の佼佼(こうこう)たる者なり」と。各々田宅を賜う。
雎陽(すいよう)の人劉永を斬って降る。劉永は更始の時に在って、立って梁王となる。更始亡ぶや、永、帝と称す。是(ここ)に至って敗る。
漁陽の太守彭寵(ほうちょう)の奴(ど)、寵を斬って以って降る。初め上、王郎を討つや寵、突騎を発し、糧を転じて絶えざらしむ。自らその功を負(たの)み、意望(いぼう)甚だ高く、満つること能わず。幽州の牧朱浮、書を与えて曰く、「遼東に豕(いのこ)有り、子を生む。白頭なり。将(まさ)に之を献ぜんとす。道に群豕(ぐんし)に遇う。皆白し。子の功を以って、朝廷に論ぜば、遼東の豕也」と。上、寵を徴(め)す。寵、自ら疑いて遂に反す。是に至って敗る。


赤眉の残党が東に帰ろうと宜陽まで来た。光武帝は陣容を整えて、待ち構えていた。樊崇は劉盆子や丞相の徐宣(じょせん)等を引き連れ、片肌を脱いで降伏してきた。光武帝は軍馬を整列させて、劉盆子の君臣に見せつけて、こう言った。「降伏したことを後悔することは無いかな」徐宣が頭を地につけて「虎口から脱して慈母のふところに帰った心地にて、誠にこの上なき喜びでございます」と。光武帝は、「そなたは、いわば鉄の中でもまあ良い響きのする部類、凡人の中でも少しはましな方である」と言って、各々田宅を与えた。
雎陽の人が劉永を斬って降伏した。劉永は更始が帝であった頃、自ら立って梁王となり、更始が亡ぶと、皇帝と称していたが、ここに至って滅びたのである。
漁陽の太守彭寵の召使いが主人の彭寵を斬って降った。嘗て光武帝が王郎戦ったとき、彭寵が精鋭の騎兵を出し、食糧を運んで絶やさないようにした。その功績を自ら多とし、恩賞の望みが高すぎて、常に不満をくすぶらせていた。幽州の長官の朱浮という者が書を送り諌めて言った。「遼東に豕がいて、子を生んだら頭が白いので、これは珍しいと喜び早速献上して恩賞に預かろうと出かけたところ、途中で豚の群れに出会ったらどれもまっ白だったという。君の功績も、朝廷で論じたならば遼東の豕と同じだよ」と。その後、帝が彭寵を召し出したところ、寵は誅されるかと疑って、遂に謀反を起こしたが、ここで敗れたのであった。

肉袒 謝罪の意をあらわすため肌脱ぎして鞭うたれる覚悟を示した。
錚錚 よく鍛えた金属の響き。衆にすぐれたもの。 庸中の佼佼 庸は凡庸、佼佼は人格や才能のすぐれたさま。 突騎 敵軍に突き入る騎兵。
遼東の豕 世間ではありふれたことを知らずに自分一人で得意になること。ひとりよがり。

十八史略 光武帝、洛陽に都す。

2011-05-14 20:40:35 | 十八史略
赤眉樊崇等、立宗室劉盆子爲帝。年十五。時在軍中主牧羊。被髪徒跣、敝衣赭汗、見衆拝、恐畏欲啼。
賊入長安。更始走。帝下詔、封爲淮陽王。
宛人卓茂、嘗爲密令。教化大行。道不拾遺。上即位、先訪求茂、以爲太傅、封褒侯。
車駕入洛陽。遂都之。
關中未定。禹引衆而西。號百萬。所至停車駐節、勞來百姓。垂髫戴白滿車下。名震關西。至□邑。久不進兵。赤眉大掠而出。禹乃入長安。赤眉復入。禹戰不利走。徴還京師。遣馮異入關。禹慚無功、要異共攻赤眉。大戰於囘溪、敗績。収散卒堅壁。已而大破赤眉於崤底。璽書勞異曰、始雖垂翅囘溪、終能奮翼澠池。可謂失之東隅、収之桑楡。

赤眉の樊崇(はんすう)等、宗室劉盆子を立てて帝と為す。年十五なり。時に軍中に在って、牧羊を主(つかさど)る。被髪徒跣(ひはつとせん)し、敝衣赭汗(へいいしゃかん)、衆の拝するを見れば、恐畏(きょうい)して啼かんと欲す。
賊、長安に入る。更始走る。帝、詔を下して、封じて淮陽(わいよう)王と為す。
宛人(えんひと)卓茂(たくも)、嘗て蜜の令と為る。教化大いに行わる。道遺ちたるを拾わず。上、位に即くや、先ず茂を訪求し、以って太傅(たいふ)と為して、褒侯に封ず。
車駕(しゃが)洛陽に入る。遂に之を都(みやこ)す。
関中未だ定まらず。禹、衆を引いて西す。百万と号す。至る所車を停め節を駐(とど)めて、百姓(ひゃくせい)を労来(ろうらい)す。垂髫戴白(すいちょうたいはく)車下に満つ。名、関西(かんせい)に震う。じゅん邑(木偏に旬)に至る。久しく兵を進めず。赤眉大いに掠(かす)めて出づ。禹乃(すなわ)ち長安に入る。赤眉も復た入る。禹、戦い利あらずして走る。徴(め)されて京師に還る。馮異を遣わして関に入らしむ。禹、功無きを慚(は)ぢ、異を要して共に赤眉を攻む。大いに回渓に戦い、敗績す。散卒(さんそつ)を収めて壁を堅うす。已にして大いに赤眉を崤底(こうてい)に破る。璽書(じしょ)して異を労して曰く、始め翅(つばさ)を回渓に垂ると雖も、終りに能く翼を澠池(べんち)に奮う。之を東隅に失い、之を桑楡(そうゆ)に収むと謂う可し、と。

赤眉の樊崇らも、漢室の血を引く劉盆子を皇帝に立てた。年は十五歳、当時軍中で羊の世話をしていた。ざんばら髪で裸足、破れた衣服をまとい、日焼け顔に汗を滴らせて、群臣が自分を拝するのを見ると、恐れてほとんど泣き出さんばかりであった。
赤眉の賊軍が長安に攻め入り、更始は逃げた。光武帝(劉秀)は詔を下して、更始を淮陽王に封じた。
宛の人卓茂は以前密県の令であったが、教化が行きとどいて、道に落ちている物を誰も拾おうとしないほどであった。光武帝は即位するや、まず卓茂を探し出し、太傅に迎え褒侯に封じた。
光武帝の車駕が洛陽に入りここを都と定めた。
一方、赤眉が長安にいるので関中はまだ平定していなかった。禹が大軍を率いて西にむかった。その数百万と称していた。行く先々で車を停め、旗印を立てて人々を労わった。垂れ髪の子供から白髪の老人まで、車の周りに群がり迎えた。禹の名は関西中にひびきわたった。じゅん邑県に至ったとき、進軍を止め、赤眉の動静をうかがった。やがて赤眉は掠奪をしながら、長安を出た隙に禹は長安に入城した。すると今度は赤眉がとって返した。禹は戦いに敗れて逃げた。光武帝は禹を洛陽に呼び戻し、代わりに馮異を遣わした。禹は敗戦を恥じ入り、馮異を待って共に力を合わせて赤眉を攻めた。回渓で激戦となり、再び大敗した。そこで散り散りになった兵卒を集めて、今度は堅く守った。やがて好機がめぐり、崤山の麓で大いに破った。光武帝は勅書をおくって馮異をねぎらい、「始め回渓で翅を垂れてしまったが、澠池で羽ばたくことができた、日の出る朝に失い、日の沈む夕べに取り返したというべきか」といった。

太傅 天子の指南役。 節を駐め 将軍の旗印を立て。 要 出迎える、まちぶせる。 東隅 日の出る処、朝。 桑楡 西方の日歿するところ、夕暮れ、六朝の王融の詩序にも見える。