涼州牧竇融、率河西武威・張掖・酒泉・燉煌・金城五郡太守入朝。融自建武初據河西。後遣使奉書。上以爲牧。賜璽書曰、議者必有任囂教尉佗、制七郡之計。書至。河西皆驚、以爲天子、明見萬里之外。上征隗囂。融率五郡兵、與大軍會。蜀平。奉詔歸朝。拝冀州牧。
涼州の牧、竇融(とうゆう)、河西(かせい)の武威・張掖(ちょうえき)・酒泉・燉煌(とんこう)・金城五郡の太守を率いて入朝す。融、建武の初めより、河西に拠る。後、使を遣わして書を奉ぜしむ。上、以って牧と為す。璽書(じしょ)を賜いて曰く、議者、必ず任囂(にんごう)が尉佗(いた)を教えて、七郡を制するの計有らん、と。書至る。河西皆驚き、以為(おも)えらく、天子、明、万里の外を見る、と。上、隗囂を征す。融、五郡の兵を率いて、大軍と会す。蜀平らぐ。詔を奉じて朝(ちょう)に帰る。冀州の牧に拝せらる。
涼州の長官の竇融が河西の武威・張掖・酒泉・燉煌・金城の五郡の太守を率いて入朝してきた。竇融は建武の初めから河西を本拠にしていた。後に使いを派遣して光武帝に書簡を奉った。帝は融を涼州の長官に任命し、御璽をおした書を賜った。その文面に「かつて任囂が南越王の尉佗に、南海七郡を制圧するようにそそのかしたことがあったが、同様の計をそなたに勧める者があろう」とあった。かねてより隗囂から計略を持ちかけられていたので、帝の書が届くと河西の人々は驚き、天子は万里の外までお見通しだと思いおそれた。それで光武帝が隗囂を討伐すると、融は五郡の兵を率いて、漢軍に合流して戦った。
蜀が平定されると、詔に応じて朝廷に帰順し、冀州の長官に任命された。
牧 地方長官。 河西 黄河上流の西にあるから、甘粛省に属す。 冀州 河南、河北、山西地方。
涼州の牧、竇融(とうゆう)、河西(かせい)の武威・張掖(ちょうえき)・酒泉・燉煌(とんこう)・金城五郡の太守を率いて入朝す。融、建武の初めより、河西に拠る。後、使を遣わして書を奉ぜしむ。上、以って牧と為す。璽書(じしょ)を賜いて曰く、議者、必ず任囂(にんごう)が尉佗(いた)を教えて、七郡を制するの計有らん、と。書至る。河西皆驚き、以為(おも)えらく、天子、明、万里の外を見る、と。上、隗囂を征す。融、五郡の兵を率いて、大軍と会す。蜀平らぐ。詔を奉じて朝(ちょう)に帰る。冀州の牧に拝せらる。
涼州の長官の竇融が河西の武威・張掖・酒泉・燉煌・金城の五郡の太守を率いて入朝してきた。竇融は建武の初めから河西を本拠にしていた。後に使いを派遣して光武帝に書簡を奉った。帝は融を涼州の長官に任命し、御璽をおした書を賜った。その文面に「かつて任囂が南越王の尉佗に、南海七郡を制圧するようにそそのかしたことがあったが、同様の計をそなたに勧める者があろう」とあった。かねてより隗囂から計略を持ちかけられていたので、帝の書が届くと河西の人々は驚き、天子は万里の外までお見通しだと思いおそれた。それで光武帝が隗囂を討伐すると、融は五郡の兵を率いて、漢軍に合流して戦った。
蜀が平定されると、詔に応じて朝廷に帰順し、冀州の長官に任命された。
牧 地方長官。 河西 黄河上流の西にあるから、甘粛省に属す。 冀州 河南、河北、山西地方。