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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 明、万里の外を見る

2011-06-04 09:33:20 | 十八史略
涼州牧竇融、率河西武威・張掖・酒泉・燉煌・金城五郡太守入朝。融自建武初據河西。後遣使奉書。上以爲牧。賜璽書曰、議者必有任囂教尉佗、制七郡之計。書至。河西皆驚、以爲天子、明見萬里之外。上征隗囂。融率五郡兵、與大軍會。蜀平。奉詔歸朝。拝冀州牧。

涼州の牧、竇融(とうゆう)、河西(かせい)の武威・張掖(ちょうえき)・酒泉・燉煌(とんこう)・金城五郡の太守を率いて入朝す。融、建武の初めより、河西に拠る。後、使を遣わして書を奉ぜしむ。上、以って牧と為す。璽書(じしょ)を賜いて曰く、議者、必ず任囂(にんごう)が尉佗(いた)を教えて、七郡を制するの計有らん、と。書至る。河西皆驚き、以為(おも)えらく、天子、明、万里の外を見る、と。上、隗囂を征す。融、五郡の兵を率いて、大軍と会す。蜀平らぐ。詔を奉じて朝(ちょう)に帰る。冀州の牧に拝せらる。

涼州の長官の竇融が河西の武威・張掖・酒泉・燉煌・金城の五郡の太守を率いて入朝してきた。竇融は建武の初めから河西を本拠にしていた。後に使いを派遣して光武帝に書簡を奉った。帝は融を涼州の長官に任命し、御璽をおした書を賜った。その文面に「かつて任囂が南越王の尉佗に、南海七郡を制圧するようにそそのかしたことがあったが、同様の計をそなたに勧める者があろう」とあった。かねてより隗囂から計略を持ちかけられていたので、帝の書が届くと河西の人々は驚き、天子は万里の外までお見通しだと思いおそれた。それで光武帝が隗囂を討伐すると、融は五郡の兵を率いて、漢軍に合流して戦った。
蜀が平定されると、詔に応じて朝廷に帰順し、冀州の長官に任命された。


牧 地方長官。 河西 黄河上流の西にあるから、甘粛省に属す。 冀州 河南、河北、山西地方。

十八史略 隴を得て復た蜀を望む

2011-06-02 09:07:36 | 十八史略
十二年、公孫述亡。述茂陵人、自更始時、據蜀稱帝、國號成。上既平隴右曰、人苦不自足。既得隴復望蜀。遣大司馬呉漢等將兵、會征南大將軍岑彭伐蜀。彭在荊門裝戰船。漢欲罷之。彭不可。上報彭曰、大司馬習用歩騎、不暁水戰。荊門之事、一惟征南公爲重而已。彭戰船竝進。所向無前。述使盜刺殺彭。呉漢繼進。至成都撃殺述蜀地悉平。

十二年、公孫述亡ぶ。述は茂陵(もりょう)の人、更始の時より、蜀に拠って帝と称し、国を成と号す。上、既に隴右を平らげて曰く、人自ら足れりとせざるを苦しむ。既に隴を得て復た蜀を望む、と。大司馬呉漢等を遣わし、兵に将として、征南大将軍岑彭(しんほう)に会して蜀を伐たしむ。彭、荊門に在って戦船を装(よそお)う。漢之を罷(や)めしめんと欲す。彭可(き)かず。上、彭に報じて曰く、大司馬歩騎を用うるに習って、水戦を暁(さと)らず。荊門の事は、一(いつ)に惟(ただ) 征南公を重しと為すのみ、と。彭の戦船並び進む。向う所前無し。述、盗をして彭を刺し殺さしむ。呉漢継いで進む。成都に至って撃って述を殺す。蜀の地悉く平らぐ。

建武十二年(36年)に公孫述が亡んだ。述は茂陵の人で、更始帝の時より、蜀を拠点としてみずから帝と称して、国を成と号していた。光武帝は既に隴右を平定すると、「人というものは、満ち足りることができず、自らこうして苦しむ。隴を手に入れた今、次は蜀も欲しくなった」と言って、大司馬の呉漢らを派遣し、兵を率いて征南大将軍岑彭と合流して、蜀を伐たせた。当時岑彭は荊門にあって軍船を準備中であった。呉漢はそれを止めさせようとしたが、岑彭は頑なに拒んだ。呉漢は帝に上書して裁定を仰いだ。帝は岑彭に、「大司馬は歩兵や騎兵の戦は得意だが、水戦には慣れておらぬ、荊門での作戦は征南公岑彭が主導するがよい」と書き送った。岑彭は軍船を連ねて戦い進んだが、向うところ敵なしであった。尋常では勝てないとみて公孫述は刺客を送って、彭を刺し殺してしまった。しかし呉漢が陸路から続々進軍し、蜀の成都に攻入り、公孫述を討ち殺した。こうして蜀の地もすべて平定された。

茂陵 陜西省興平県の地。 荊門 湖北省にある。 盗 刺客。 
隴を得て・・・望みを遂げて、さらにその上を望むこと、望蜀。


十八史略 隗囂、病餓恚憤して卒す

2011-05-31 10:07:25 | 十八史略

未幾反。復嘗問班彪以戰國從横之事。彪作王命論諷之。囂不聽。馬援詣行在。上復使游説。仍自賜囂書。囂竟臣於公孫述。述立囂爲朔寧王。上征囂。馬援在上前、聚米爲山谷、指畫形勢、開示軍所從徑道。上曰、虜在吾目中矣。遂進軍。囂奔西城、病餓恚憤而卒。子純降。隴右悉平。

未だ幾(いくばく)ならずして反す。復(また)嘗て班彪(はんぴょう)に問うに戦国縦横の事を以ってす。彪、王命論を作って之を諷(ふう)す。囂聴かず。馬援行在(あんざい)に詣(いた)る。上、復遊説せしむ。仍(よ)って自ら囂に書を賜う。囂竟に公孫述に臣たり。述、囂を立てて朔寧王と為す。上、囂を征す。馬援、上の前に在り、米を聚(あつ)めて山谷(さんこく)を為(つく)り、形勢を指画(しかく)し、軍の従(よ)る所の、径道を開示す。上曰く、虜(りょ)は吾が目中に在り、と。遂に軍を進む。囂、西城に奔(はし)り、病餓恚憤(びょうがいふん)して卒(しゅっ)す。子純降(くだ)る。隴右(ろうゆう)悉く平らぐ。

それから幾ばくもなく隗囂が叛いた。ある時、班彪という学者に戦国時代の合従連衡の策について尋ねたことがあった。班彪は「王命論」を著して、利の無いことを暗にほのめかしたが、囂は耳を貸さなかった。馬援は囂が叛くと、光武帝の宿舎に馳せ参じた。そこで帝は、囂への親書を書いて帰順を説いたが、それでも囂は聴かず、蜀の公孫述の臣となった。述は隗囂を立てて朔寧王にした。光武帝は隗囂征伐を決意した。そのとき馬援は帝の前に居て、米で山や谷をつくり、天水の地形を指で画いて説明し、軍隊が進むべき道を示した。帝は「慮はすべてわが眼中に入った」と喜び、軍を進めた。隗囂は西域に逃れ、病と餓えに苛まれたのちに憤死した。囂の子純も降服して、隴右(甘粛省の東)の地はすべて平定された。

班彪 漢書の著者班固の父。 虜 隗囂のこと。 西城 パミール以西の地域。 恚憤 いかり、いきどおる

十八史略 

2011-05-28 11:42:07 | 十八史略
高帝無可無不可
援歸。囂問東方事。援曰、上才明勇略、敵也。且開心見誠、無所隱伏、闊達多大節、略與高祖同。經學博覧政治文辯、前世無比。囂曰、卿謂何如高帝。援曰、不如也。高帝無可無不可。今上好吏事、動如法度。又不喜飮酒。囂不懌曰、如卿言反復勝乎。遣子入侍。

援帰る。囂、東方の事を問う。援曰く、上、才明勇略、人の敵に非ざるなり。且つ心を開き誠を見(あら)わし、隠伏する所無く、闊達にして大節多きこと、略(ほぼ)高祖と同じ、経学博覧、政治文弁、前世比無し。囂曰く、卿、高帝に何如と謂(おも)う、と。援曰く、如(し)かざるなり。高帝は可もなく不可も無し。今、上、吏事を好み、動くこと法度(ほうど)の如くす。又飲酒を喜(この)まず、と。囂懌(よろこ)ばずして曰く、卿の言の如くんば反(かえ)って復(また)勝れるか、と。子をして入(い)って侍(じ)せしむ。

馬援が帰ると、隗囂が洛陽での様子を尋ねた。援は答えて「光武帝は、才明らかに、勇にして機略に富む。敵う人はありますまい。その上、心をさらけ出して誠意をあらわにし、少しも隠すところがありません。度量が広く、信念を堅く守って道義をはずさないことは、かの高祖に似ており、経学にひろく通じ、政治に詳しく、文章、弁舌さわやかです。今までに比べられる人はおりません」と。囂は「高祖とはどちらか」と聞くと、「それは及びません。高帝は可も不可も無い、是非善悪の埒(らち)外におられます。光武帝は役人の実務にも目を向け、行動も礼に外れることなく、酒も好まれません」と答えた。隗囂は不機嫌になって言った「貴公の話だとむしろ光武帝が勝っているようにきこえるぞ」と。そして子の恂を人質に遣って光武帝に仕えさせた。

可も無く不可も無い 孔子が自らを評した言葉、 恂 隗囂には恂と純の子がいたが、どちらが兄か不明。

十八史略 ただ君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ

2011-05-26 10:22:19 | 十八史略

囂乃使援奉書雒陽。初到、良久即引入。上自殿廡下、岸幘迎、笑曰、卿遨遊二帝間。今見卿、使人大慚。援頓首曰、當今非但君擇臣、臣亦擇君。臣與公孫述同縣。少相善。臣前至蜀。述陛戟而後進臣。臣今遠來。陛下何知非刺客姦人、而簡易若是。帝笑曰、卿非刺客。顧説客耳。援曰、天下反覆、盜名字者不可勝數。今見陛下、恢廓大度、同符高祖。乃知、帝王自有眞也。

囂乃ち援をして書を雒陽(らくよう)に奉ぜしむ。初め至るや、良(やや)久しうして即ち引き入れる。上、殿廡(でんぶ)の下より、岸幘(がんさく)して迎え、笑って曰く、卿(けい)、二帝の間に遨遊(ごうゆう)す。今卿を見るに、人をして大いに慚(は)じしむ、と。援、頓首して曰く、当今は但(ただ)君の臣を択ぶのみに非ず、臣も亦君を択ぶ。臣と公孫述とは同県なり。少(わか)くして相善し。臣前(さき)に蜀に至る。述、陛戟(へいげき)して後に臣を進む。臣今遠く来る。陛下何ぞ刺客(せきかく)姦人に非ざるを知って、簡易なること是(かく)の如きか、と。帝、笑って曰く、卿は刺客に非ず。顧(おも)うに説客(ぜいかく)のみ、と。援曰く、天下反覆(はんぷく)、名字(めいじ)を盗む者数うるに勝(た)う可からず。今陛下を見るに恢廓大度(かいかくたいど)、符を高祖に同じうす。乃ち知る、帝王自ら真有ることを、と。

隗囂はそこでまた馬援に光武帝への親書を託した。到着すると大分待たされてから宮廷に呼び入れられた。光武帝は宮殿の回廊の下から、頭巾も着けないで迎えて入れて笑いかけた。「卿は二人の皇帝の間を気ままに行き来する身のわけだが、なるほど私も恥じ入るほどの器量を備えておられる」。馬援は頭を地につけて言った「当今は君主が臣下を択ぶだけでなく、臣下も君主を択ぶ時勢です。私と公孫述とは同県で、若い頃から親しい間柄でした。ところが先ごろ蜀にまいりますと、述は階下に戟を持った衛兵をつらねて私を迎え入れました。ところが今、陛下とは一面識もない遠来の訪問者でありますのに、どうして刺客でも姦人でもないと見抜かれて、このように気さくにお会い下さるのですか」と。帝はさらに笑って、「卿は刺客などではない、強いて言えば説客(ぜいかく)というところかな」と。援はさらに、「今、天下は変転極まりなく、皇帝の名を騙る者も数え切れぬほどおります。今、陛下を拝しますに、心広く度量が大きく、かの高祖皇帝と符節を合わせたようにお見受けいたしました。帝王となるお方は真の徳を備えておられることをつくずく知らされてございます」と。

雒陽 洛陽に同じ。 殿廡 回廊。 岸幘 岸は額を現わすこと、幘は頭巾、親しみ慣れた様子。 遨遊 遨も遊ぶの意、 反覆 くつがえす。
名字 帝王の称号。 恢廓大度 恢も廓も大きいこと。度量が大きいこと。