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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 周黨・嚴光処士

2011-07-02 08:44:16 | 十八史略

尤重高節。徴處士周黨。至不屈、伏而不謁。或奏詆之。上曰、自古明王聖主、必有不賓之士。賜帛罷之。處士嚴光、與上嘗同游學。物色得之齊國。披羊裘釣澤中。徴至。亦不屈。上與光同臥。以足加帝腹。明日太史奏、客星犯御座甚急。上曰、朕與故人嚴子陵共臥耳。拝諫議大夫、不肯受。去畊釣、隱富春山中終。

尤も高節を重んず。処士周党を徴(め)す。至るも屈せず、伏するも謁せず。或るひと奏して之を詆(そし)る。上曰く、古(いにしえ)自(よ)り明王聖主は、必ず不賓(ふひん)の士有り、と。帛(はく)を賜いて之を罷(や)む。
処士厳光、上と嘗て同じく游学す。物色して之を斉国に得たり。羊裘(ようきゅう)を披(き)て沢中に釣る。徴して至る。亦屈せず。上、光と同臥(どうが)す。足を以って帝の腹に加う。明日(めいじつ) 太史奏す、客星、御座を犯すこと甚だ急なり、と。上曰く、朕、故人厳子陵と共に臥するのみ、と。諫議大夫(かんぎたいふ)を拝するも、肯(あ)えて受けず。去って畊釣(こうちょう)し、富春山中に隠れて終る。


光武帝はとりわけ節操の高い士を重んじた。無官の士周党を登用しようと呼び出したところ、参内はしたものの、士官には応ぜず、平伏したものの、謁見の礼はしなかった。或るひとがそれを非難したが、「昔から明王聖主のもとには必ず従わない者が出てくるものだ」と言って絹を賜って、登用を取り止めた。
同じく厳光は嘗て光武帝と共に学んだ者であった。さまざまに手を尽くして各地を探していたが斉国で見つけ出した。羊の毛皮を着て釣りをしていたところを召したが、厳光も士官を承諾しなかった。その夜、帝が寝所を共にすると、厳光の足が帝の腹の上に乗った。翌朝、天文官が奏上した「昨夜、彗星が北極星をたびたび横切りました、ただ事ではございません」と。帝は「いや、わしが旧友の厳子陵と一緒に寝ただけだよ」といった。厳光に諫議大夫を拝命させようとしたが、同意せず、帰って耕作と釣りで世を送り、富春山中に隠れて死んだ。


処士 官途につかず民間にいる人。 不賓 従わないこと。 太史 天文、暦算と国の歴史をつかさどった。 客星 流星。 主座 天子の星座、北極星。 諫議大夫 天子の過失を諌める官。

十八史略 糟糠の妻は堂より下さず

2011-06-28 10:06:04 | 十八史略
所用羣臣、如宋弘等、皆重厚正直。上姉湖陽公主嘗寡居。意在弘。弘入見。主坐屏後。上曰、諺言、富易交、貴易妻。人情乎。弘曰、貧賤之交不可忘。糟糠之妻不下堂。上顧主曰、事不諧。
主有蒼頭。殺人匿主家。吏不能得。洛陽令董宣、候主出行、奴驂乘、叱下車、挌殺之。主入訴。上大怒、召宣欲捶殺之。宣曰、縱奴殺人、何以治天下。臣不須捶、請自殺。即以頭叩楹、流血被面。上令小黄門持之、使叩頭謝主。宣兩手據地、終不肯。上敕、強項令出。賜錢三十萬。

用いる所の群臣、宋弘等が如き、皆重厚正直(せいちょく)なり。
上の姉湖陽公主、嘗て寡居(かきょ)す。意、弘に在り。弘入って見(まみ)ゆ。主、屏後(へいご)に坐す。上曰く、諺に言う、富んでは交わりを易(か)え、貴(たっと)くしては妻を易うと。人情か、と。弘曰く、貧賤の交わりは忘る可からず。糟糠(そうこう)の妻は堂より下さず、と。上、主を顧みて曰く、事諧(ととの)わず、と。
主に蒼頭有り。人を殺して主の家に匿(かく)る。吏得る能(あた)わず。洛陽の令董宣(とうせん)、主の出行し、奴、驂乗するを候(うかが)い、叱(しっ)して車より下(くだ)し、之を挌殺(かくさつ)す。主入って訴う。上大いに怒り、宣を召して之を捶殺(すいさつ)せんと欲す。宣曰く、奴の人を殺すを縦(ゆる)さば、何を以って天下を治めん。臣捶を須(ま)たず、請う自殺せん、と。即ち頭を以って楹(えい)を叩き、流血面に被(こうむ)る。上、小黄門をして之を持せしめ、叩頭して主に謝せしむ。宣、両手地に拠り、終に肯(がえ)んぜず。上、敕(ちょく)す、強項令出でよ、と。銭三十万を賜う。


帝が重用した臣、宋弘をはじめ皆重厚で剛直な者ばかりであった。光武帝の姉の湖陽公主がひとり身になっていて、宋弘に好意をもった。ある日、弘が謁見すると、帝は公主を屏風の後ろにかくしてこう言った「諺に金持ちになったら、貧時の友をかえ、偉くなったら妻をかえると言うが、これは人情というものであろうか」すると宋弘は「貧賎のときの友は忘れてはなりませんし、糟(かす)や糠(ぬか)を食べ合った妻は追い出すわけにはまいりませぬ」と言い放った。帝は公主を振り返り、「うまくいかなかったようです」と言った。
その公主に下僕がいて人を殺して公主の庇護のもとにいたが、役人たちは手をこまねくばかりであった。洛陽の長官の董宣が、公主が外出し、下僕が同乗するその時に叱咤して車から降ろし、打ち殺した。公主は直ちに宮中に駆けつけて、帝に訴えた。帝は大いに怒って董宣を召し出し、鞭で打ち殺そうとした。宣は昂然として「下僕が人を殺すのをみ過ごしていて、いったい天下を治めることができるでしょうか。陛下の鞭を待つまでもありません。今ここで命を絶ってみせましょう」と言いもおわらず、傍らの柱におのが頭を打ち付けた。吹き出す血で顔面を朱に染めた宣を帝は小黄門に命じて押さえつけさせ、叩頭して公主に謝罪させようとしたが、宣は両手を突っ張って謝らなかった。帝は「この強情張りの長官め下がれ」と命じて銭三十万を下賜したのであった。


蒼頭 召使い。 驂乗 そえ乗り。 挌殺 殴り殺す。 捶 むち。楹 太い柱。 小黄門 侍従。 強項令 項(うなじ)の強張った(強情な)長官。

十八史略 贓罪(ぞうざい)に於いて貸(ゆる)す所無し

2011-06-23 10:30:58 | 十八史略

季良者杜保。保仇人上書告保、以援書爲證。保坐免官。松坐與保游幾得罪。愈恨援。至是援軍至壺頭。不利、卒軍中。松構陷之。収新息侯印綬。援前在交阯。常餌薏苡、以輕身勝瘴氣。軍還載之一車。後有追譖之者。以爲明珠文犀。上怒。得朱勃上書訟其冤、乃稍解。上於贓罪無所貸。大司徒歐陽歙嘗犯贓、歙所授尚書弟子千餘人、守闕求哀。竟不免、死於獄。

季良は杜保(とほ)なり保の仇人(きゅうじん)上書して保を告ぐるに、援の書を以って證と為す。保、坐して官を免ぜらる。松、保と游(あそ)ぶに坐して、幾(ほと)んど罪を得んとす。愈々援を恨む。是(ここ)に至って、援の軍,壺頭に至る。利あらずして、軍中に卒す。松、之を構陷(こうかん)す。新息侯の印綬を収む。援、前(さき)に交阯に在り。常に薏苡(よくい)を餌(じ)し、以って身を軽うし、瘴気(しょうき)に勝つ。軍還るとき之を一車に載す。後之を追譖(ついしん)する者有り。以って明珠文犀と為す。上、益々怒る。朱勃、書を上(たてまつ)り、其の冤(えん)を訟(うった)うるを得て、すなわち稍(やや)解く。上、贓罪(ぞうざい)に於いて貸(ゆる)す所無し。大司徒歐陽歙(おうようきゅう)嘗て贓を犯す。歙が授くる所の尚書の弟子(ていし)千余人、哀(あい)を求む。竟(つい)に免(まぬか)れずして、獄に死す。

この杜季良とは杜保のことである。杜保に恨みを持つ者が書をたてまつって保を訴え、馬援の甥への手紙を証拠とした。保は罪に問われて官職を追われた。梁松は杜保と交遊があったので、危うく連坐するところであった。そのため松はいよいよ援を恨んだ。こうしたとき、馬援の軍が壺頭山に来たが、戦いに利あらずして援は軍中に死んだ。梁松はこれに乗じて無実の罪をきせたので、帝は新息侯の印綬を取り上げてしまったのである。また援は交阯にいたとき、いつも薏苡の実を煎じて薬として飲み、身体を軽快にして南方の風土病を防いでいた。馬援は交阯から、薏苡を車一杯積んで帰ったが、死後讒言するものがいて、持ち帰ったのは透明な珠や、美しい模様の犀角であったと訴え出た。帝はますます怒った。朱勃が上書して、冤罪であると訴えたので次第に和らいだ。
光武帝は賄賂で私腹を肥やす者に対しては容赦しなかった。大司徒の歐陽歙が収賄の罪を犯したときは、嘗て歐陽歙に尚書を学んだ者たち千人余りが宮門につめかけて嘆願したが、許されず刑死したのであった。


構陷 讒言して人を罪に陥れること。 薏苡 薬草、数珠玉。 瘴気 中国南方の熱病。 追譖 死後に罪をきせる。 贓罪 不正な手段で金品を得た罪、贈収賄。 闕 宮門。


十八史略 虎を画いて狗に類する。

2011-06-21 13:37:12 | 十八史略

援在交阯。嘗遣書戒其兄子曰、吾欲汝曹聞人過、如聞父母名。耳可聞、口不可言。好議論人長短、是非政法、不願子孫有此行也。龍伯高敦厚周愼、謙約節儉。吾愛之重之。願汝曹效之。杜季良豪俠好義、憂人之憂、樂人之樂。父喪致客、數郡畢至。吾愛之重之。不願汝曹效之也。效伯高不得、猶爲謹敕之士。所謂刻鵠不成、尚類鶩也。效季良不得、陥爲天下輕薄子。所謂畫虎不成、反類狗也。

援、交阯に在り。嘗て書を遣わし其の兄の子を戒めて曰く、吾、汝が曹(そう)の人の過を聞くこと、父母の名を聞くが如くせんことを欲す。耳には聞く可きも、口には言う可からず。好んで人の長短を議論し、政法を是非するは、子孫に此の行い有るを願わざるなり。龍伯高は敦厚周慎(とんこうしゅうしん)にして、謙約節倹(けんやくせっけん)なり。吾、之を愛し、之を重んず。汝が曹の之に效(なら)わんことを願う。杜季良(ときりょう)は豪侠(ごうきょう)にして義を好み、人の憂いを憂え、人の楽しみを楽しむ。父の喪に客を致し、数郡畢(ことごと)く至る。吾、之を愛し之を重んず。汝が曹の之に效うを願わざるなり。伯高に效うて得ざるも、猶謹敕(きんちょく)の士と為らん。所謂鵠(こく)を刻んで成らざるも、尚鶩(ぼく)に類するなり。季良に效うて得ずんば、陥(おちい)って天下の軽薄子と為らん。所謂虎を画いて成らずんば、反って狗(いぬ)に類するなり、と。

馬援が交阯に出征していた時、書簡を送って兄の子を戒めて言うことには「そなたたちには、人の過失を聞くには、父母の本名を聞くときのようにして欲しい。聞くことはあっても決して口に出してはならない。好んで他人の長短をあげつらい政治の良し悪しを批判することは我が馬家の子孫にはやって欲しくない。龍伯高どのは人情が厚く、慎みふかく、控えめで質素な方である。私は彼を敬愛している。そなたたちは彼を見習って欲しい。また杜季良どのは、豪快で義を好み、人の憂いをわが憂いとし、人の楽しみをわが楽しみとする。彼の父の葬儀には招いたあちこちの郡から残らず参列した。私は彼を好きであり、重んじてもいる。だがそなた達が見習って欲しくない。伯高どのを見習って失敗しても、謹直な人物にはなる。いわゆる白鳥を彫りそこなっても家鴨には見える。という訳だ。ところが季良どのを見習って失敗したら、天下の笑いものになってしまう。いわゆる虎を画いて失敗すれば、犬に見られてしまう。という訳だ」と。

曹 なかま、ともがら。 敦厚 人情に厚いこと。 周慎 こまやかで慎みふかいこと。 謹敕 言行をつつしみ戒める。 鵠 白鳥。 鶩 あひる。 父母の名 両親や天子を特に死後は本名で呼ぶことは避けたまたその文字を使わせなかった。忌み名(諱)である。ついでに姓名字の関係を掲げた。姓、一族の家名。 名、個人の本名。 字 男子が成人後につける呼び名。 諡 死後にその人の徳を称えて贈る名、諱とも。
姓 名  字  号   諡(おくりな)
劉 秀  文叔     光武帝
項 籍  羽
白 居易 楽天 香山居士
韓 愈  退之 昌黎  文公
蘇 軾  子瞻 東坡  文忠公

十八史略 大丈夫まさに馬革を以って屍を裹(つつ)むべし

2011-06-18 08:28:14 | 十八史略
惟馬援死之日、恩意頗不終焉。援嘗曰、大丈夫當以馬革裹屍。安能死兒女手。交阯反。援以伏波將軍、討平之。武陵蠻反。援又請行。帝愍其老。援被甲上馬、據鞍顧眄、以示可用。上笑曰、矍鑠哉是翁。乃遣之。先是、上壻梁松、嘗候援拝牀下。援自以父友不答。松不平。

惟だ馬援死するの日、恩意頗る終(お)えず。援嘗て曰く、「大丈夫当(まさ)に馬革(ばかく)を以って屍を裹(つつ)むべし。安(いづく)んぞ能(よ)く児女の手に死せんや」と。交阯(こうち、こうし)反す。援、伏波将軍を以って、討って之を平らぐ。武陵の蠻(ばん)反す。援又行かんと請う。帝其の老いたるを愍(あわれ)む。援、甲(こう)を被(こうむ)り、馬に上り、鞍に拠(よ)って顧眄(こべん)し、以って用う可きを示す。上笑って曰く、矍鑠(かくしゃく)たるかな是(こ)の翁や、と。乃ち之を遣わす。是より先、上の婿梁松、嘗て援を候(こう)して牀下に拝す。援自ら父の友なるを以って答えず。松、平かならず。

ただ馬援が死んだ時だけは、恩遇の意が十分ではなかった。援は嘗て「大丈夫たる者、屍を馬革に包まれて凱旋することこそ本望、女子供に看取られて死ぬのは御免こうむりたい」と言っていた。
交阯が反(そむ)いた。援は伏波将軍としてこれを討伐して平定した。武陵の蛮族が反いた時、援は討伐に名乗りを上げたが帝は援の老齢を憐れんで許さなかった。すると馬援は甲冑を身にまとい、馬に乗り鞍に身をあずけて四方をねめつけて、まだまだお役に立ちますぞと訴えた。帝は笑いながら「いやはや元気なものだこのご老人は」と言って許した。
これより以前、帝の女婿の梁松が援を訪れて寝台の下で拝礼をしたが、梁松の父と援が友人同士であったことから、答礼をしなかった。それで梁松は援に含むところがあった。

頗る終えず やや十分ではなかった。 裹 つつむこと、裹屍(かし) 戦死者の死体を馬の革につつんで故郷に還ること。 交阯 ベトナム北部。 武陵 湖南省。 顧眄 ふりかえって見る、周りを見る。矍鑠 老いて元気なこと。 候 きげんを問う。