goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 虎穴に入らずんば虎子を得ず。

2011-07-14 09:58:51 | 十八史略

十七年、復置西域都護・戊己校尉。初耿秉請伐匈奴。謂、宜如武帝通西域、斷匈奴右臂。上從之、以秉與竇固爲都尉、屯涼州。固使假司馬班超使西域。超至鄯善。其王禮之甚備。匈奴使來。頓疎懈。超會吏士三十六人、曰、不入虎穴、不得虎子。奔虜榮斬其使及從士三十餘級。鄯善一國震怖。超告以威、使勿復與虜通。超復使于。其王亦斬虜使以降。於是諸國皆遣子入侍。西域復通。至是竇固等撃車師而還、以陳睦爲都護、及以耿恭爲戊校尉、關龕爲己校尉、分屯西域。

十七年、復(また)西域都護・戊己校尉(ぼきこうい)を置く。初め、耿秉(こうへい)、匈奴を伐たんと請う。謂(おも)えらく、宜しく武帝の西域に通じて、匈奴の右臂(ゆうひ)を断ちしが如くなるべし、と。上、之に従い、秉(へい)と竇固(とうこ)とを以って都尉と為し、涼州に屯(とん)せしむ。固、仮司馬(かしば)班超をして西域に使いせしむ。超、鄯善(ぜんぜん)に至る。其の王之を礼すること甚だ備わる。匈奴の使い来る。頓(とみ)に疎懈(そかい)なり。超、吏士三十六人を会(かい)して曰く、虎穴に入らずんば、虎子を得ず、と。虜営(りょえい)に奔(はし)って其の使い及び従士三十余級を斬る。鄯善の一国震怖(しんふ)す。超、告ぐるに威徳を以ってし、復(また)虜(りょ)と通ずる勿(な)からしむ。超、復于(うてん)に使いす。其の王も亦虜使を斬って以って降る。是(ここ)に於いて諸国皆子を遣わして入り侍(じ)せしむ。西域復通ず。是に至って竇固等、車師を撃って還り、珍睦(ちんぼく)を以って都護と為し、及び耿恭(こうきょう)を以って戊校尉(ぼこうい)と為し、関龕(かんがん)を己校尉(きこうい)と為し、分(わか)って西域に屯せしむ。

永平十七年(74年)、再び西域都護と戊己校尉を置くことになった。発端は耿秉が匈奴討伐を願い出て、「昔武帝がなされたように、西域諸国とよしみを通じて、匈奴の右ひじを断ち切ったようにするのが宜しいでしょう」と言った。帝はこれに従って耿秉と竇固を都尉に任命して涼州に駐屯させた。竇固は仮司馬班超を使いとして西域に派遣した。超はまず鄯善国に赴いた。鄯善の王は丁重にもてなした。そこに匈奴から使者が来ると、急に扱いが粗略になった。超は同行して来た部下三十六人を集めて言った。諺に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という、危険を冒してこそ得るものが大きい、今が好機ぞ、と匈奴の宿営を襲って、使者と随員三十余人の首を斬った。鄯善国は恐れおののいた。班超は漢の威徳を鄯善王に語り聞かせ、匈奴との交わりを断たせた。次いで于国に赴くと、国王はみずから匈奴の使者を斬って、漢に帰服した。こうして西域諸国はみな王子を朝廷に遣わして仕えさせたので、西域との交わりが復活した。
この年、竇固たちは車師を討って還り、陳睦を都護とし、耿恭を戊校尉とし、関龕を己校尉に任じて、西域に分屯させた。


西域都護 西域諸民族の支配のために置かれた官庁の長。 戊己校尉 戊己は五行(木、火、土、金、水)に兄(え)弟(と)を配して甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干とした、つちのえ、つちのと。木は方位東、色は青、季節は春。火は南、赤、夏。土は中央、黄色。金は西、白、秋。水は北、黒、冬をあらわした。つまり西域の中央に置いた鎮西武官。 仮司馬 司馬の副官。 鄯善、于、車師 ともに西域の国名。

十八史略 雲台二十八将

2011-07-12 09:15:40 | 十八史略

永平二年臨辟雍、行養老禮。以李躬爲三老、桓榮爲五更。三老東面、五更南面。上親袒割牲、執醤而饋、執爵而酳。禮畢、引榮及弟子升堂。諸儒執經問難。冠帶搢紳之人、圜橋門、而觀聽者億萬計。
三年、圖畫中興功臣、二十八將於南宮雲臺、應二十八宿。禹爲首、次馬成・呉漢・王梁・賈復・陳俊・耿弇・杜茂・寇恂・傅俊・岑彭・堅鐔・馮異・王覇・朱祐・任光・祭遵・李忠・景丹・萬脩・蓋延・邳彤・銚期・劉植・耿純・臧宮・馬武・劉隆。惟馬援以皇后之父不與焉。
十一年、東平王蒼來朝。蒼自上即位初、爲驃騎將軍、五年而歸國。至是入朝。上問、處家何以爲樂。蒼曰、爲善最樂。

永平二年辟雍(へきよう)に臨み、養老の礼を行う。李躬(りきゅう)を以って三老と為し、桓榮を五更と為す。三老は東面し、五更は南面す。上(しょう)親(みずか)ら袒(たん)して牲(せい)を割き、醤を執って饋(き)し、爵を執って酳(いん)す。礼畢(おわ)って、榮及び弟子(ていし)を引いて堂に升(のぼ)らしむ。諸儒、経を執って問難す。冠帯搢紳(かんたいしんしん)の人、橋門を圜(めぐ)って、観聴する者、億萬を計(かぞ)う。
三年、中興の功臣、二十八将を南宮の雲台に図画(ずが)し、二十八宿に応ず。禹(とうう)を首(はじめ)と為し、次は馬成(ばせい)呉漢(ごかん)王梁(おうりょう)賈復(かふく)陳俊(ちんしゅん)耿弇(こうかん)杜茂(とも)寇恂(こうじゅん)傅俊(ふしゅん)岑彭(しんほう)堅鐔(けんじん)馮異(ふうい)王覇(おうは)朱祐(しゅゆう)任光(じんこう)祭遵(さいじゅん)李忠(りちゅう)景丹(けいたん)萬脩(ばんしゅう)蓋延(こうえん)邳彤(ひゆう)銚期(ちょうき)劉植(りゅうしょく)耿純(こうじゅん)臧宮(ぞうきゅう)馬武(ばぶ)劉隆(りゅうりゅう)なり。惟(ただ)馬援のみは、皇后の父なるを以って与(あずか)らず。
十一年、東平王蒼、来朝す。蒼、上の即位の初めより、驃騎将軍となり、五年にして国に帰る。是(ここ)に至って入朝す。上問う、家に処(お)って何を以ってか楽しみと為す、と。蒼曰く、善を為す、最も楽し、と。


永平二年(59年)、辟雍に臨幸して養老の礼を行った。李躬を三老とし、桓栄を五更とした。三老は東面し、五更は南面して座についた。明帝はみずから片肌を脱いで、生け贄を割き、醤(ひしお)をとって二人に勧め、盃をとって酒で口をすすがせた。饗応の礼がおわると、桓栄とその弟子たちを堂に登らせ、儒者たちが経書の難解な点を問いただした。衣冠を正した人々で、辟雍の橋門を取り囲んで養老の儀式を見聴きする者が数えきれないほどであった。
永平三年、光武帝の漢室中興を援けた功臣二十八将の肖像を南宮の雲台に画いて、天の二十八宿に対応させた。それは禹をはじめとして、次に馬成・呉漢・王梁・賈復・陳俊・耿弇・杜茂・寇恂・傅俊・岑彭・堅鐔・馮異・王覇・朱祐・任光・祭遵・李忠・景丹・萬脩・蓋延・邳彤・銚期・劉植・耿純・臧宮・馬武・劉隆の順である。ただ馬援だけは、皇后の父であるという理由で、この中に加えられなかった。
十一年、東平王の蒼が来朝した。蒼は明帝の即位した初めより、驃騎将軍となって、五年後に帰り、この年になって上京してきたのである。帝が「故郷では何を楽しみにしているのか」と尋ねると、蒼は「善いことをするのが一番の楽しみです」と答えた。


三老 三公中の最高齢者。 五更 九卿中の最高齢者。 袒 片脱ぎする。 饋 長老にすすめること。 爵 盃。 酳す 酒で口をすすぐこと。 搢紳 搢は笏を帯に挟むことから、紳士。 東平王蒼 明帝の弟。 ※三十二将 二十八将に李通(りつう)、竇融(とうゆう)、王常(おうじょう)、卓茂(たくも)を加えて雲台三十二将とする。

十八史略 明帝

2011-07-09 12:41:19 | 十八史略
幼にして穎悟

孝明皇帝初名陽、母陰氏。光武微時、嘗曰、仕宦當作執金吾。娶妻當得陰麗華。後竟得之。生陽。幼穎悟。光武詔州郡、檢覈墾田戸口。諸郡各遣人奏事。見陳留吏牘、上有書。視之云、潁川・弘農可問。河南・南陽不可問。光武詰吏由。祇言、於街上得之。光武怒。陽年十二、在幄後。曰、吏受郡敕。欲以懇田相方耳。河南帝城、多近臣。南陽帝郷、多近親。田宅踰制。不可爲準。以詰吏。首服。光武大奇之。郭皇后廢、陰貴人立爲后。陽爲皇太子、改名莊。至是即位。

孝明皇帝、初めの名は陽、母は陰氏。光武微(び)なりし時、嘗て曰く、仕宦(しかん)せば当(まさ)に執金吾と作(な)るべし。妻を娶らば当に陰麗華を得べし、と。後、竟(つい)に之を得たり。陽を生む。幼にして穎悟(えいご)。光武、州郡に詔(みことのり)して、墾田戸口(こんでんここう)を検覈(けんかく)せしむ。諸郡、各々人を遣わして事を奏す。陳留の吏の牘(とく)を見るに、上に書有り。之を視るに云わく、潁川(えいせん)・弘農(こうのう)は問う可し、河南・南陽は問う可からず、と。光武、吏に由(よし)を詰(なじ)る。祇(ただ)言う、街上に於いて之を得たり、と。光武怒る。陽年十二、幄後(あくご)に在り。曰く、吏、郡敕(ぐんちょく)を受け、懇田を以って相い方(くら)べんと欲するのみ。河南は帝城、近臣多し。南陽は帝郷、近親多し。田宅、制に踰(こ)ゆ。準と為す可からず、と。以って吏を詰る。首服(しゅふく)す。光武大いに之を奇とす。郭皇后廃せられ、陰貴人立って后と為る。陽、皇太子と為り、名を荘と改む。是(ここ)に至って位に即く。

孝明皇帝、初めの名は陽で、母は陰氏である。
光武帝がまだ身分が低かった頃、人に言うには「仕官するなら執金吾、妻を娶るなら陰麗華」と。後年望みどおりに手にいれて、陽を生んだ。陽は幼い頃からすぐれて聡明であった。光武帝が州郡に詔を下して、開墾した田地や戸数、人口を調べさせたとき、諸郡は役人を派遣して、結果を奏上させた。陳留郡の役人の報告書を見ると、その上書きになにか書いたものがあった。よく視ると「潁川・弘農は調べられる、河南・南陽は調べられない」とあった。光武帝は役人にその理由を詰問しても「街なかで耳にしたことを書きとめただけです」と答えるばかりであった。陽はそのとき十二歳であったが、とばりの後ろにいて、「この役人は郡守の命令を受けてきただけで、他の郡の開墾地と較べて著しい不公平の無いようにしたいだけです。河南郡は帝城の地で近臣の領地も多く、南陽郡は帝の郷里で、近親者の領地が沢山あります。田宅が規制をこえて広大で、他郡と同じ基準にはならないという意味でしょう」と言った。帝はその役人を問い詰めると、「まったくそのとおりでございます」と白状し、その罪に服した。光武帝は陽の才能に感じ入った。やがて郭皇后が廃せられて陰貴人が皇后となり、陽は皇太子となって、名を荘とあらためた。そしてここに至って帝位に即いたのであった。
仕宦 仕官に同じ。 執金吾 執はとる金は武器吾は禦(ふせぐ)。 穎悟 穀物の穂先が鋭いことから、聡いこと。 検覈 覈も調べ明らかにする。 牘 木札。 郡敕 太守の命令。 首服 首は自首と同じ、白状して罪に服すること。

十八史略 郭伋・杜詩・張堪・劉昆

2011-07-05 16:38:32 | 十八史略
 お詫び「糟糠の妻は堂より下さず」の次にこの文を挿入してください。
當時州牧・郡守・縣令、皆良吏。郭伋守潁川。近帝城。上勞之曰、河潤九里京師蒙福。杜詩守南陽。郡人爲之語曰、前有召父、後有杜母。張堪守漁陽。人爲之語曰、桑無附枝、麥穂兩岐。張堪爲政。樂不可支。劉昆爲令江陵。有火。叩頭向之、反風滅火。後守弘農。虎北渡河。上問、行何政而至是。昆曰、偶然耳。上曰、長者之言也。命書之策。

当時の州牧・郡守・県令、皆良吏なり。郭伋(かくきゅう)潁川(えいせん)に守たり。帝城に近し。上、之を労して曰く、河九里を潤し、京師福を蒙(こうむ)る、と。杜詩、南陽に守たり。郡人之が為に語して曰く、前に召父(しょうふ)有り、後に杜母有り、と。張堪(ちょうかん)、漁陽に守たり。人之が為に語して曰く、桑(そう)に附枝(ふし)無く、麦穂(ばくすい)両岐(りょうき)あり。張堪政(まつりごと)を為す。楽しみ支(はか)る可からず、と。劉昆、江陵に令たり。火有り。頭を叩いて之に向かえば、風を反し火を滅す。後に弘農に守たり。虎、北して河を渡る。上問う、何の徳政を行うて是(ここ)に至れる、と。昆曰く、偶然のみ、と。上曰く、長者の言なり、と。命じて之を策に書せしむ。

当時の州の長官や郡の太守、県の令は皆すぐれた役人であった。
郭伋は潁川の太守になった。潁川は洛陽に近かったので、帝は「黄河が九里を潤すように、そなたがよく治めてくれているので、都の人々も恩恵を受けている」と労った。
杜詩は南陽郡の太守になった。人々は、「昔召太守という慈父が居られたというが、今は杜詩さまが慈母のようにしてくださる」と喜んだ。
張堪は漁陽郡の太守となった。人びとはその善政をたたえて「桑には宿り木が付かないし、麦の穂は両つに分かれて実をつけている、これも張堪さまが治めてくださるおかげ、計り知れない楽しみよ」と。
劉昆が江陵県の令になった。ある日、領内に火事が起きた。昆がおのが不徳を謝して火に向って、ぬかづくと風向きが変わって火が消えた。其の後、昆が弘農郡の太守となった。すると領内の虎が黄河を渡って北へ去った。帝がそれを聞いて訳を尋ねると、昆は「たまたまでございます」と答えるばかりであった。帝は「これこそ徳有る者の言である」と、朝廷の簡策に書き留めさせた。


召父 召信臣、前漢宣帝の時代に、南陽郡の太守となり徳政をおこなった。

十八史略 禹湯の明有れど、黄老養性の道を失う

2011-07-05 16:29:00 | 十八史略

漢世多清節士自此始。方天下未平、上已有志文治。首起太學、稽式古典、修明禮樂。晩歳起明堂・靈臺・辟雍。粲然文物可述。毎旦視朝、日昃乃罷。引公卿郎將、講論經理、夜分乃寐。皇太子乘諌曰、陛下有禹湯之明、而失黄老養性之道。上曰、我自樂此。不爲疲也。在位三十三年、身致太平。改元者二、曰建武・中元。壽六十二。太子立。是爲顯宗明皇帝。

漢の世清節の士多きこと、此れより始まる。天下未だ平かならざるに方(あた)って、上、すでに文治に志あり。首として太学を起こし、古典を稽式(けいしき)し、礼楽を修明す。晩歳に明堂・霊台・辟雍(へきよう)を起こす。粲然(さんぜん)たる文物述(の)ぶ可し。毎旦(まいたん)朝(ちょう)を視、日昃(かたむ)いて乃(すなわ)ち罷(や)む。公卿(こうけい)郎将を引いて、経理を講論し、夜分に乃ち寐(い)ぬ。皇太子、(かん)に乗じて諌めて曰く、陛下、禹湯の明(めい)有れども、黄老(こうろう)養性(ようせい)の道を失う、と。上曰く、我自ら此れを楽しむ。疲(つか)ると為さざるなり、と。在位三十三年、身太平を致す。改元する者(こと)二、建武・中元と曰う。寿六十二なり。太子立つ。是を顕宗明皇帝と為す。

漢の時代に節操を守って枉(ま)げない士が多いというのも、これらの人々に始まるのである。天下がまだ平定されないうちから、光武帝は学問によって世を治めようと考えていた。まず最初に太学を設けて、古の典礼や儀式を研究し、それを手本に礼や楽を整え明らかにした。晩年には帝が政治、祭祀を執り行う明堂・天文を観る霊台・学問どころの辟雍を建てた。それらの輝かしい文化の所産は、後世に述べ伝えるに値いするものであった。帝は毎日早くから朝廷に臨み、日が沈んでから止めた。また三公・九卿・五中郎将などを呼び、経書(けいしょ)の理を解き明かして述べ、夜半になってから寝んだ。皇太子が折をみて「陛下はいにしえの禹王や湯王のような聡明さはお持ちですが、黄帝、老子のように身を養い保つ道に欠けておられます」と諌めたが、「自分で楽しんでいるのだ、疲れることはないのだよ」と答えるばかりであった。
光武帝の在位は三十三年、自身で太平の世を招来した。改元すること二回、建武・中元がそれである。年は六十二歳であった。皇太子が即位した。これが顕宗明皇帝である。


太学 大学、官吏養成の学舎。 経書 四書五経の類。 稽式 稽は考える、式は手本。