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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 群臣を撫(ぶ)すること毎(つね)に此の如し

2011-06-16 09:11:46 | 十八史略
祭遵先死。上念之不已。來歙・岑彭、死鋒鏑。卹之甚厚。呉漢・賈復終於帝世。漢在軍、或戰不利、意氣自若。上歎曰、呉公差強人意。隱若一敵國矣。毎出師、朝受詔夕就道。及卒、上臨問所欲言。漢曰、臣愚願陛下愼無赦而已。復自起兵時爲督。上曰、賈督有折衝千里之威。嘗戰被傷。上驚曰、吾嘗戒其輕敵。果然。失吾名將。聞其婦有孕。生子邪、我女嫁之。生女邪、我子娶之。其撫羣臣毎如此。

祭遵(さいじゅん)先に死す。上、之を念(おも)うて已(や)まず。來歙(らいきゅう)・岑彭(しんほう)、鋒鏑(ほうてき)に死す。之を卹(あわれ)むこと甚だ厚し。呉漢・賈復(かふく)、帝の世に終う。漢軍に在るや、或いは戦い利あらざるも、意気自若たり。上歎じて曰く、呉公、差(やや)人意を強うす。隠として一敵国の若(ごと)し、と。師を出だす毎に、朝(あした)に詔を受けて夕(ゆうべ)に道に就く。卒(しゅつ)するに及び、上臨んで言わんと欲する所を問う。漢曰く、臣愚願わくは陛下慎んで赦(ゆる)すこと無きのみ、と。復、兵を起こしし時より督たり。上曰く、賈督、衝(しょう)を千里に折(くじ)くの威有り、と。嘗て戦って傷を被る。上驚いて曰く、吾嘗て其の敵を軽んずるを戒む。果たして然り。吾が名将を失う。其の婦孕む有りと聞く。子(し)を生まんか、我が女(じょ)を之に嫁(か)せしめん、女を生まんか、我が子(し)に之を娶らん、と。其の群臣を撫(ぶ)すること毎(つね)に此の如し。

功臣の中で祭遵が先ず死んだ。光武帝は追悼してやまなかった。來歙・岑彭はいくさの中で命を落とした。帝はこの二人を手厚く弔った。呉漢・賈復は帝の治世の間に世を去った。呉漢は戦場にあって、時に味方が不利でも、平然としていた。帝は感嘆して言った「呉公はよく人の意気を引き立ててくれる。泰然として敵の一国ほどの重みがある」と。出陣するときはいつも朝に命令を受けると、夕べには出発するという風であった。死に臨んで帝が言い残すことは無いかと尋ねると、呉漢は「臣愚願わくは、どうか陛下にはむやみに人を赦さぬよう、ただそれだけでございます」と言い残した。
賈復は、帝が挙兵した時から、軍を統率監督する官であった。帝は「賈督軍は敵の矛先を挫いて千里の外まで追い払うほどの威をそなえている」とほめていた。彼が戦場で傷を負ったとき、帝は驚いて「敵を甘く見ないよう言っておいたのに、心配どおりのことが起こってしまった。名将一人を失うとは無念だ。聞けば彼の妻は身ごもっているそうだが、もし男子を生んだら、私の娘を嫁がせよう。女の児だったら、息子に娶(めと)らせよう」と。帝が群臣を慈しむことはいつもこのようであった。


鋒鏑 矛先と鏃。 卹(じゅつ)=恤、あわれむ。 隠 おもおもしい。 臣愚 自分をへりくだった言い方。 督 督軍、監督官  衝 突き破る、折衝は敵の攻撃をくじき防ぐこと。

十八史略 柔能く剛に勝ち、弱能く強に勝つ。

2011-06-14 09:42:19 | 十八史略

上在兵間久厭武事。蜀平後、非警急未嘗言軍旅。北匈奴衰困。臧宮・馬武、上書請攻滅之。鳴劍抵掌、馳志於伊吾之北矣。上報書、告以黄石公包桑記。曰、柔能勝剛、弱能勝強。自是諸將莫敢言兵。閉玉門關、謝絶西域。保全功臣、不復任以兵事。皆以列侯就第。以吏事責三公、亦不以功臣任吏事。諸將皆以功名自終。

上、兵間に在ること久しくして武事を厭(いと)う。蜀平(たいら)いで後は警急(けいきゅう)に非ざれば未だ嘗て軍旅を言わず。北匈奴衰困す。臧宮(ぞうきゅう)・馬武、上書して攻めて之を滅ぼさんことを請う。剣を鳴らし掌を抵(う)ち、志を伊吾(いご)の北に馳す。上、書を報じて、告ぐるに黄石公の包桑記を以ってす。曰く、柔能く剛に勝ち、弱能く強に勝つ、と。是より諸将敢えて兵を言うもの莫(な)し。玉門関を閉じ、西域を謝絶す。功臣を保全し、復任ずるに兵事を以ってせず。皆列侯を以って第(てい)に就かしむ。吏事を以って三公を責め、亦功臣を以って吏事に任ぜず。諸将皆功名を以って自ら終う。

帝は久しく戦場に在ったので、戦いを嫌うようになった。蜀を平定してからは、危急の事変でない限り、戦争のことは言わなかった。北匈奴が衰えたとき、臧宮と馬武が上書して攻め滅ぼしたいと願い出た。剣を鳴らし手を打って、勢い込み、気持ちは早くも匈奴の伊吾城の北にまで飛んでいた。しかし光武帝の返書には、黄石公の包桑記(ほうそうき)を引用して、「柔よく剛に勝ち、弱よく強に勝つ」と諭した。これより後は諸侯で戦いの事を言う者は居なくなった。帝は玉門関を閉じて、西域との交わりを断った。創業の功臣を守り、軍事に従わせず、列侯に取り立てて邸宅に住まわせた。官吏の仕事は三公の職責とし、功臣には官吏の仕事には就かせなかったので、将軍たちは功臣の誉れを全うして一生を終えたのであった。

黄石公 漢の張良に兵書を与えた老人。包桑記 その兵法書。 第 邸。 三公 大尉・司徒・司空。

十八史略 天下を理むるに柔道をもってす。

2011-06-11 13:14:31 | 十八史略

中元二年、上崩。上起兵時、年二十八、即位年三十一。第五倫毎讀詔書嘆曰、此聖主也。一見決矣。手書賜方國。一札十行、細書成文。明愼政體、總攬權綱。量時度力、擧無過事。嘗幸南陽、置酒會宗室。諸母相與語曰、文叔平日與人不款曲、惟直柔耳。乃能如此。上聞之笑曰、吾理天下、亦欲以柔道行之。

中元二年、上崩ず。上、兵を起こしし時、年二十八、位に即くの年三十一なり。第五倫(ていごりん)、詔書を読む毎に嘆じて曰く、此れ聖主なり。一たび見(まみ)えば決せん、と。
手書(しゅしょ)して方国に賜う。一札十行、細書、文を成す。政体を明慎(めいしん)し、権綱(けんこう)を総攬(そうらん)す。時を量(はか)り、力を度(はか)り、挙(きょ)として過事(かじ)無し。嘗て南陽に幸(みゆき)し、置酒(ちしゅ)して宗室を会す。諸母相与(とも)に語って曰く、文叔、平日人と款曲(かんきょく)せず、惟(ただ)直柔なるのみ。乃(すなわ)ち能く此(かく)の如し、と。上之を聞いて笑って曰く、吾天下を理(おさむ)るに、亦柔道を以って之を行わんと欲す、と。


中元二年(57年)、光武帝は崩じた。帝が挙兵したのは二十八歳、位に即いたのが三十一歳であった。第五倫という者が、帝の詔書を読むごとに感嘆して「このお方は聖明の天子であられる。お目見えすることさえできれば、きっとお取立てくださるだろうに」といった。
帝は四方の国に手ずから書をしたためて賜った。竹簡一札に十行ほど細かく書いて、きちんとした文章になっていた。政治のしくみを明らかにしてあやまちを無くし、大権を一手におさめて、時の趨勢と力量を見極めたので、何事によらず過ちが無かった。ある時、故郷南陽に行幸して酒宴を開いて一族のものを集めたことがあった。席上おばたちが口々に
「文叔さんは、普段は人と打ちとける風でもなく、ただ素直でおとなしい人だったけど、今じゃ天子様だものねえ」と言った。帝はこれを聞いて笑って「私は天下を治めるにも、おとなしいやり方でいこうと思う」と言った。


明慎 慎は間違いをおかさないこと。 権綱 政権のおおもと。 総攬 政権を一手におさめること。 置酒 酒宴を開くこと。 諸母 伯母、叔母。 款曲 うちとけて交わる。 柔道 柔らかな態度を重んじる主義。

十八史略 匈奴分裂す

2011-06-09 08:52:26 | 十八史略
西域請都護。不許。遂附匈奴。先是莎車王賢・鄯善王安、皆遣使奉獻。賢使再至。上賜賢都護印綬。邊郡守上言。不可假以大權。詔収還、更賜大將軍印。賢恨。猶詐稱大都護。諸國悉服屬賢。賢驕横、欲兼并西域。諸國懼。凡十八國、遣子入侍、願得漢都護。上厚賜遣還其侍子。至是復請。上復卻之。
二十四年、匈奴南邊八部、立日逐王比、爲南單于、欵漢塞内附。於是分爲南北匈奴。
二十五年、貊人・鮮卑・烏桓竝入朝。
二十六年、立南單于庭、置使匈奴中郎將、以領之、徙南單于、居西河美稷。
二十七年、北匈奴亦遣使求和親。明年又請。許之。

西域、都護を請う。許さず。遂に匈奴に附す。
是より先、莎車王(さしゃおう)賢・鄯善王(ぜんぜんおう)安、皆使いを遣わして奉献す。賢の使再び至る。上、賢に都護の印綬を賜う。辺郡の守上言(じょうげん)す。仮(か)すに大権を以ってす可からず、と。詔(みことのり)して収め還(かえ)し、更に大将軍の印を賜う。賢恨む。猶詐(いつわ)って大都護と称す。諸国悉く賢に服属す。賢驕横(きょうおう)にして、西域を兼并(けんぺい)せんと欲す。諸国懼(おそ)る。凡て十八国、子を遣(つか)わして入り侍(じ)せしめ、漢の都護を得ん、と願う。上、厚く賜うて其の侍子(じし)を還らしむ。是に至って復た請う。上、復た之を卻(しりぞ)く。
二十四年、匈奴の南辺八部、日逐王(にっちくおう)比を立てて、南単于と為し、漢塞(さい)を欵(たた)いて内附(ないふ)す。是に於いて分かれて南北匈奴と為る。
二十五年、貊人(はくじん)・鮮卑・烏桓(うがん)竝(なら)びに入朝す。
二十六年、南単于の庭(てい)を立て、使匈奴中郎将を置き、以って之を領せしめ、南単于を徙(うつ)して、西河の美稷(びしょく)に居(お)らしむ。
二十七年、北匈奴も亦使を遣わして和親を求む。明年又請う。之を許す。


西域の諸国が漢の都護職を置いてくれるように願い出たが、許されなかったので、遂に匈奴側についた。
以前、莎車王の賢と鄯善王の安がともに使者を派遣してみつぎものを献じてきた。特に賢の使いは二度におよんだので、光武帝は賢に都護の印綬を与えた。ところが国境の太守たちが「このような重大な権限を外人に与えるべきではありません」と帝に言上した。そこで帝は詔勅を下して印綬を取り戻し、かわりに大将軍の印を与えた。賢はこれを不服に思い、その後も大都護と詐り称したので、西域諸国はこれを信じて賢に服従した。だが賢は驕慢で横暴になり、西域を併呑しようとしたので、諸国は恐れて、十八国の王がその子を漢に人質におくって、漢の都護を派遣するよう願い出た。帝は厚くねぎらってその人質たちを還らせた。そこで困り果てた西域の諸王はふたたび請願したが、これも却下した。それで、匈奴についたのである。
建武二十四年(西暦48年)に、匈奴の南部八地方が日逐王の比を立てて、匈奴の南単于として、漢の辺塞の門をたたいて誼(よしみ)を通じてきた。そこで匈奴は南北に分裂した。
二十五年に貊人・鮮卑・烏桓がいずれも漢に入朝した。
二十六年、南単于に王庭を立てさせ、使匈奴中郎将の役を置いてこの地方を治めさせ、南単于を西河の美稷に移り住まわせた。
二十七年に、北匈奴もまた使者を派遣して和親をもとめた。翌年また願い出たので、これを許した。


仮す 貸すに同じ。 都護 周辺諸族の支配のために辺境に置かれた官庁。 印綬 綬は紐、紫綬褒章は紫の紐をつけた勲章。 貊人 中国北方の異民族。 庭 王庭、国王の宮廷。 使匈奴中郎将 単于の宮殿を警備することをつかさどった官

十八史略 匈奴和を請う

2011-06-07 10:31:44 | 十八史略
十八年、代王盧芳死於匈奴。芳安定人。詐稱武帝曾孫劉文伯。自建武初據安定。匈奴迎之、立爲漢帝。數爲邊郡寇患。後來降。王于代。復反奔匈奴。以病死。
二十二年、匈奴求和親。上遣使許之。自呼韓邪單于死于成帝時、其後累世皆仕漢。平帝時、王莽頒條於匈奴、謂中國無二名、諷單于改名。莽簒漢、易漢所賜單于璽曰章。單于怨恨、數寇邊。建武以來、匈奴助盧芳寇
漢。後又數與烏桓・鮮卑、連兵入寇。至是初請和。

十八年、代王盧芳(ろほう) 匈奴に死す。芳は安定の人なり。詐(いつわ)って武帝の曾孫劉文伯と称す。建武の初めより安定に拠る。匈奴之を迎え、立てて漢帝と為す。数しば辺郡の寇患(こうかん)を為す。後来たり降る。代に王たり。復(また)反し、匈奴に奔(はし)る。病を以って死す。
二十二年、匈奴、和親を求む。上、使を遣わして之を許す。呼韓邪単于(こかんやぜんう)が成帝の時に死せしより、其の後累世皆漢に仕う。平帝の時、王莽、條を匈奴に頒(わか)ち、中国に二名無しと謂い、単于に諷して名を改めしむ。莽漢を簒(うば)い、漢の賜う所の単于の璽を易えて章と曰う。単于怨恨して、数しば辺に寇(あだ)す。建武以来、匈奴、盧芳を助けて漢に寇す。後又数しば烏桓(うがん)・鮮卑(せんぴ)と、兵を連ねて入寇(にゅうこう)す。是(ここ)に至り初めて和を請う。


建武十八年(42年) 代王の盧芳が匈奴の地で世を去った。盧芳は安定(陝西省延安県)の人である。武帝の曾孫の劉文伯と詐称して、安定を根じろにしていた。匈奴は盧芳を迎え、立てて漢の皇帝とした。そしてしばしば周辺の郡を侵略した。のちに光武帝に降った。代王に封ぜられたが、再び叛いて匈奴にはしり、その地で病死した。
二十二年に、匈奴が和親を求めて来たので、光武帝は使いを遣わしてこれを許した。匈奴は呼韓邪単于が成帝の世に没してから代々漢に臣従してきた。ところが平帝のとき、王莽が条例を匈奴に施行し、中国に二字の名はないといって、単于に一字名に改めさせた。後に王莽は漢の帝位を奪い、単于が漢帝から賜った、帝王の格である璽から、諸侯と同格の章に改めた。単于は怨んで、しばしば辺境を侵した。
建武になってから、匈奴は盧芳を助けて漢土を侵した。盧芳の死後もしばしば烏桓や鮮卑と連合して侵寇したが、この年になって初めて講和を求めてきた。


諷單于改名 諷はほのめかすこと、改名 嚢知牙斯(のうちがし)を知の一字に変えさせた。烏桓 遼西北方の東胡の後裔。 鮮卑 遼東の北方で同じく東胡の後裔。