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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 虞■(ぐく)その二

2011-08-04 08:36:22 | 十八史略
虞詡(ぐく)その二
既到。郡兵三千而姜萬餘。攻圍赤亭數十日。詡命強弩勿發、潛發小弩、姜謂力弱不能至、并兵急攻。於是使二十強弩共射。一人發無不中。姜大驚。詡因出城奮撃。明日悉陳其兵、令從東郭門出、北郭門入、貿易衣服囘轉數周。姜不知其數。相恐動。詡潛於淺水設伏、候其走路。姜果大奔。因掩撃大破之。賊由是敗散。

既に到る。郡兵三千にして姜は万余。赤亭を攻囲すること数十日。詡(く)命じて、強弩(きょうど)発する勿れ。潜(ひそ)かに小弩を発せよ、と。姜、力弱くして至る能(あた)わずと謂(おも)い、兵を并(あわ)せて急に攻む。是(ここ)に於いて二十の強弩をして共に射(い)しむ。一人発すれば中(あた)らざる無し。姜、大いに驚く。詡因(よ)って城を出て奮撃す。明日(めいじつ)悉(ことごと)く其の兵を陳(ちん)し、東郭門より出でて北郭門に入らしめ、衣服を貿易して回転すること数周、姜其の数を知らず。相恐動(きょうどう)す。詡、潜かに浅水に於いて伏(ふく)を設けて、其の走路を候(うかが)う。姜果たして大いに奔(はし)る。因って掩撃(えんげき)して大いに之を破る。賊、是に由(よ)って敗散す。

やがて任地の赤亭城に到着した。郡の兵は三千、対する姜は万余の族が城を囲んで攻めること数十日。詡は兵士に「強いいしゆみは射るな、小さい弓をほどほどに射よ」と命じた。姜は弩が弱くて届かないとみて、兵をそろえて一気に攻め寄せてきた。詡は強弩二十張りを一斉に射かけさせると、一人として当らぬ者は無く、姜の軍に動揺が起こった。詡はここぞとばかり門を開いて撃って出ると存分に戦った。その翌日、兵士を残らず整列させると東郭門から出て北郭門に入らせ、その都度服を取り替えさせて、城を廻らせること数周、姜は数えることが出来なくなって浮き足だってきた。詡は浅瀬に兵を伏せて姜の退路を窺うと果たしてどっと逃げ出した。そこに伏兵が襲いかかって存分にこれを破った。姜の賊は敗れてちりぢりになった。

弩(いしゆみ)ばね仕掛けで矢や石をとばす強力な弓。 陳し 陳列、ならべる。 貿易 貿も易も取り替えること。 掩撃 不意うち、掩は隠す、おおう。

十八史略 虞詡(ぐく)その一

2011-08-02 08:40:01 | 十八史略

叛姜數千遮詡。詡停不進。宣言請兵須到乃發。姜聞之分鈔傍縣。詡因其散、日夜進道、令軍士各作兩竈、日倍之。或曰、孫臏減竈、而君之。兵法日行不過三十里。而今日且二百里何也。詡曰、虜衆多吾兵少。徐行易爲所及。速進則彼不測。虜見吾竈日、謂郡兵來迎。衆多行速、必憚追我。孫臏見弱、吾今示強。勢不同也。

叛姜(きょう)数千、詡(く)を遮(さえぎ)る。詡停(とど)まって進まず。兵を請い到るを須(ま)って、乃(すなわ)ち発せんと宣言す。姜之を聞いて傍県(ぼうけん)を分鈔(ぶんしょう)す。詡、その散ずるに因(よ)って、日夜道を進み、軍士をして、各々両竈(りょうそう)を作らしめ、日に之を増倍す。或ひと曰く、孫臏(そんびん)は竈を減ず。而(しか)るに君は之を増す。兵法は日に行く三十里に過ぎずと。而るにいま日に且(まさ)に二百里ならんとするは何ぞや、と。詡曰く、虜(りょ)の衆は多く、吾が兵は少なし。徐(おもむろ)に行かば、及ぶ所と為り易(やす)し。速(すみやか)に進まば、則ち彼測(はか)らず。虜(りょ)吾が竈の日に増すを見ば、郡兵来たり迎うと謂(おも)わん。衆多くして行くこと速かならば必ず我を追うを憚らん。孫臏は、弱を見(しめ)し、吾は今強を示す。勢い同じからざるなり、と。

叛いた姜族数千人が虞詡の赴任の途中を遮った。詡はとどまって進まず、救援の兵を要請して到着するのを待って出発すると触れを出した。姜はそれを聞くと分散して近くの県に掠奪に出かけた。詡はそれを見すまして、夜を日についで急行した。また兵士に命じてそれぞれかまどを二つ作らせ、それを日に倍増していった。あるひとが「孫臏は毎日かまどを減らしていった。なのにあなたは増やしている。兵法では日に三十里を越えずとなっているのに、二百里にもなろうとしている。これは一体どういうことでしょう」と聞くと、詡は答えた「姜の数は多く吾が兵は寡ない、ゆっくり行けば追いつかれやすく、早く行けば敵に予測されにくい。敵はわれわれのかまどが毎日増えているのを見れば、援軍が来たと思い、数が多くなり行軍も速やかであれば、追うのを躊躇するものだ。孫臏は弱いとみせかけ、吾は強いとみせかけた。それは状況が違うからだよ」

分鈔 手分けして掠奪すること、鈔は掠める。 孫臏 斉の兵法家。2009年1月7日、10日参照。

十八史略 安帝

2011-07-30 08:27:30 | 十八史略
盤根錯節に遇わずんば、以って利器を別つ無し。
孝安皇帝、名祜、清河王慶之子、章帝孫也。未冠迎即位。后仍臨朝、騭爲大將軍。時邊軍多事。騭欲棄涼州并力北邊。郎中虞詡以爲不可曰、關西出將、關東出相。烈士武夫、多出涼州。衆皆從詡議。騭惡詡欲陥之。會朝歌賊攻殺、州郡不能禁。以詡爲朝歌長。故舊皆弔之。詡曰、不遇盤根錯節、無以別利器。及到官募壯士。攻劫者爲上、傷人偸盜者次之。収得百餘人、使入賊中、誘令劫掠、伏兵殺數百人。又潛遣貧人能縫者、傭作賊衣、以綵線縫其裾、有出市里者、輒禽之。賊駭散、縣境皆平。太后知詡有將帥之略、以爲武都太守。

孝安皇帝、名は祜(こ)、清河王慶の子にして、章帝の孫なり。未だ冠せずして迎えられて位に即く。后、仍(なお)朝に臨み、騭(とうしつ)、大将軍と為る。時に辺軍多事なり。騭、涼州を棄てて力を北辺に併せんと欲す。郎中虞詡(ぐく)以って不可と為して曰く、関西は将を出だし、関東は相を出だす。烈士武夫(ぶふ)は、多く涼州より出ず、と。衆皆詡の議に従う。騭、詡を悪(にく)んで、之を陥れんと欲す。会(たま)ゝ朝歌(ちょうか)の賊、(ちょうり)を攻め殺して、州郡禁ずる能(あた)わず。詡を以って朝歌の長と為す。故旧皆之を弔(ちょう)す。詡曰く、盤根錯節(ばんこんさくせつ)に遇わずんば、以って利器を別(わか)つ無し、と。官に到るに及んで、壮士を募る。攻劫(こうこう)する者を上と為し、人を傷つけ偸盜(とうとう)する者之に次ぐ。百余人を収め得て、賊中に入らしめ、誘(いざの)うて劫掠(こうりゃく)せしめ、兵を伏(ふく)して数百人を殺す。又潜(ひそか)に貧人の能(よ)く縫う者を遣わして、賊衣を傭作(ようさく)せしめ、綵線(さいせん)を以って其の裾を縫い、市里に出づる者有れば、輒(すなわ)ち之を禽(とりこ)にす。賊駭(おどろ)き散じて、県境皆平らぐ。太后、詡が将帥(しょうすい)の略有るを知り、以って武都の太守と為す。

孝安皇帝、名は祜である。清河王の慶の子で章帝の孫にあたる。未だ冠礼を済まさないうちに迎えられて帝位に即いた。太后が引き続き朝廷に出て政治を執りおこない、騭が大将軍になった。このころ辺境の情勢は多事にわたった。騭は、涼州の地を放棄して匈奴に委ね、力を北の辺境に集中させようとした。郎中の虞詡が反対して意見を述べた。「古来、函谷関より西の地は将軍を輩出し、東は大臣を出している。烈士武勇のもののふは多く涼州の出身であります」と。虞詡の意見に賛成する者が多かったので騭はこれを憎み、陥れようとした。たまたま朝歌の賊が県のを攻め、これを殺したが、州も郡も手が出せない状態であった。騭はそこで虞詡を朝歌県の長官に任命した。旧知の人たちは同情して慰めに来たが、詡は笑って、「盤根錯節があって刃物の切れ味はわかるものさ」と答えた。着任するとすぐさま屈強のならず者を集めた。まず強盗を第一に、人を傷つけ盗みを働く者をその次にした。百人余りがあつまると賊の中にもぐりこませて、そそのかして掠奪に向わせ、あらかじめ兵を伏せて、数百人を殺した。またこっそり貧民の裁縫のできる者を送り込んで、賊の衣服の繕いをさせ、色のついた糸で裾を縫って、賊が町中に出てくるのを捕えた。賊はわけがわからず散りぢりになり、すっかり静かになった。太后は虞詡が大将の器であることを見抜き、武都郡の太守に任命した。

涼州 甘粛省中部の州。 侍中 天子の側仕え。 朝歌 河南省の地名。  禄高六百石(せき)以上の者。 故旧 以前からの馴染み。 盤根錯節 絡まり合った根と入り組んだ節、転じて解決し難い事柄、試練。 攻劫 強盗。 偸盜 偸も盜もぬすむ。 劫掠 おどしとる。 傭作 やとわれて物をつくる。 綵線 色糸。 武都 甘粛省南部の郡。

十八史略 水清ければ大魚無し、宜しく蕩佚簡易なるべし 

2011-07-28 09:31:08 | 十八史略
徴班超還京師。卒。超起自書生、投筆有封侯萬里外之志。有相者。謂曰、生燕頷虎頭、飛而食肉、萬里侯相也。自假司馬入西域、章帝時、爲西域將兵長史。至上、以超爲西域都護騎都尉、平定諸國。在西域三十年、以功封定遠侯。至是以年老乞歸。願生入玉門關。上許之。任尚代爲都護、請教。超曰、君性嚴急。水清無大魚。宜蕩佚簡易。尚私謂人曰、我以、班君當有奇策。今所言平平耳。尚後果失邊和。如超言。
上在位十八年崩。改元者二、曰永元・元興。太子立。是爲孝殤皇帝。
孝殤皇帝名隆、生百餘日即位。改元延平。在位八閲月而崩。時皇太后氏臨朝、與騭定策立嗣。是爲孝安皇帝。

班超を徴(め)して京師に還らしむ。卒す。超、書生より起こり、筆を投じて万里の外に封侯たるの志有り。相者有り。謂いて曰く、生は燕頷虎頭(えんがんことう)、遠くまで飛んで肉を食(くら)う。万里侯の相なり、と。仮司馬より西域に入り、章帝の時、西域の将兵の長史と為る。上(しょう)に至って、超を以って西域の都護騎都尉と為し、諸国を平定せしむ。西域に在ること三十年、功を以って定遠侯に封ぜらる。是(ここ)に至って年老いたるを以って帰らんことを乞う。願わくは生きて玉門関に入らん、と。上、之を許す。任尚(じんしょう)代って都護と為り、教えを請う。超曰く、君が性厳急なり。水清ければ大魚無し。宜しく蕩佚(とうてつ)簡易なるべし、と。尚私(ひそか)に謂って曰く、我以(おも)えらく、班君当(まさ)に奇策有るべしと。今言う所は平平たるのみ、と。尚、後果たして辺和を失す。超の言の如し。
上、位に在ること十八年にして崩ず。改元する者(こと)二、永元・元興と曰う。太子立つ。是を孝殤皇帝と為す。
孝殤皇帝(こうしょうこうてい)名は隆、生まれて百余日にして位に即く。元を延平と改む。位に在ること八閲月(えつげつ)にして崩ず。時に皇太后氏朝に臨み、騭(とうしつ)と策を定めて嗣(し)を立つ。是を孝安皇帝と為す。


班超を召し出して、洛陽に帰らせたが、間もなく死んだ。班超ははじめ学問で身を立てようとしたが、紙筆をなげうち武人となって万里の辺境で武功を立て、封侯になろうと志を立てた。ある人相見に「あなたは燕のような顎と虎の頭を持っている。飛んで肉のくらう、万里侯の相です」と言われた。後に仮司馬となって西域に入り、章帝の時に西域の将兵のとなったが、和帝の時になって、班超を西域の都護騎都尉に任じ西域諸国を平定させた。辺境に在ること三十年、功によって定遠侯に封ぜられた。そこで高齢を理由に「できれば生きて玉門関に入りとうございます」と願い出て、帝は超の希望を受け入れた。任尚が代って都護となり、超に教えを請うた。超は「君は厳格で性急すぎる。水がきれいすぎると大魚は棲めない。だからのんびりと大まかにするがよろしい」と答えた。任尚はひそかに人に語って「私は班君には何か奇策があると思って聞いてみたが実にありきたりの話だったよ」ともらした。ところがその後任尚は辺境の平和を保つことができず、班超の言葉どおりになってしまった。
和帝は位に在ること十八年で崩じた。改元すること二回、永元・元興がそれである。皇太子が位に即いた。これが孝殤皇帝である。
孝殤皇帝の名は隆である。生まれて百余日で帝位に即き、年号を延平と変えた。在位わずか八か月で崩じた。時に皇太后の氏が朝廷に臨んで政治を執っていたが、兄の騭と図って後嗣を立てた。これが孝安皇帝である。


相者 人相見。 燕頷虎頭 燕のおとがいと虎の頭。 長史 州の監察官刺史の補佐官。 蕩佚 寛大でゆるやか。(とういつ)と読むとしまりがないさま。 八閲月 閲は経過する、八ヶ月。