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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 和帝

2011-07-26 09:58:05 | 十八史略
孝和皇帝名肇、母梁氏。竇皇后子之。年十歳即位。竇后臨朝。竇憲以外戚侍中。用事。有罪。求出撃北匈奴以自贖。后從之。大破匈奴、登燕然山、刻石勒功而還。入爲大將軍。四年、父子兄弟、竝爲卿校、充滿朝廷。有逆謀。上知之、遂與宦者鄭衆定議、勒兵収憲印綬、迫令自殺。以衆爲大長秋、常與議政。宦官用權自此始。
先是漢兵撃北單于。走死。漢立其弟。後叛。追斬滅之。鮮卑徙據北匈奴地。自此漸盛。

孝和皇帝名は肇(ちょう)、母は梁氏。竇皇后(とうこうごう)之を子とす。年十歳にして位に即く。竇后朝(ちょう)に臨む。竇憲(とうけん)外戚を以って侍中たり。事を用う。罪有り。出でて北匈奴を撃って以って自ら購(あがな)わんことを求む。后之に従う。大いに匈奴を破り、燕然山に登り、石に刻み功を勒(ろく)して還る。入って大将軍と為る。四年、父子兄弟並びに卿校(けいこう)と為り、朝廷に充満す。逆謀(ぎゃくぼう)有り。上(しょう)之を知り、遂に宦者鄭衆(ていしゅう)と議を定め、兵を勒(ろく)して憲が印綬を収め、迫って自殺せしむ。衆を以って大長秋と為し、常に予(とも)に政を議す。宦官の権を用うる、此れより始まる。
是より先漢兵北単于を撃つ。走って死す。漢其の弟を立つ。後に叛(そむ)く。追うて斬って之を滅す。鮮卑徒(うつ)って北匈奴の地に拠(よ)り、此れより漸く盛んなり。


孝和皇帝は名を肇といい、母は梁氏、竇皇后が自分の子として育てた。年十歳で帝位に即いたので、竇太后が朝廷に出て政治を執った。太后の兄の竇憲は外戚ということで侍中となり、政権を専らにした。たまたま竇憲が罪を犯して太后から誅せられるところを、北匈奴の討伐を申し出ることによって罪をあがないたいと願い出たので、竇太后はこれを許した。この討伐は大勝利をおさめた。燕然山に登って、石に自らの功績を刻んで凱旋し、大将軍となった。
永平四年(92年)には竇憲の親兄弟がそろって九卿や校尉となり、朝廷に満ちあふれた。やがて竇憲は謀叛を企てるに至った。和帝はこれを察知して、宦官の鄭衆と相談して兵をととのえ、憲の印綬を取り上げてさらに迫って自殺させた。
帝は鄭衆を大長秋に任じて以後政治の相談をした。宦官が権勢を振るうのはこれより始まった。
これより以前、漢の兵が北単于を攻め、敗走させて死に至らしめた。漢は弟を単于に立てたが、後に叛いたので追って斬り殺した。鮮卑族が移って北匈奴の地を拠点にして次第に強大になっていった。


竇皇后 章帝の后。 事を用う 竇太后の寵臣を暗殺したこと。 勒 おもがい、くつわ、おさえる、統率する、彫る、刻む等の意味をもつ。前者は石に彫る 勒銘、後者は 統率する 勒兵。 大長秋 皇后宮の卿。

十八史略 章帝の治

2011-07-23 10:04:07 | 十八史略
上崩。在位十三年、改元者三、曰建初・元和・章和。壽三十一。上繼明帝察察之後、知人厭苛切、事從寛厚、文之以禮樂。嘗議貢擧法。韋彪議曰、國以簡賢爲務。賢以孝行爲首。求忠臣、必於孝子之門。上然之。廬江毛義、以行義稱。張奉候之。府檄適至、以義守安陽令。義捧檄入、喜動顔色。奉心賤之。後義母死。徴辟皆不至。奉乃歎曰、往日之喜、爲親屈也。上下詔褒寵之。州郡得人。如廉范在蜀郡、弛禁以便民。民歌之曰、廉叔度來何暮。不禁火、民安作。昔無襦、今五袴。當時皆以平徭簡賦。忠恕長者爲政、終上之世、民頼其慶。太子立。是爲孝和皇帝。

上(しょう)崩ず。在位十三年、改元する者(こと)三、建初・元和・章和と曰う。寿三十一。上、明帝察々の後を継ぎ、人の苛切(かせつ)を厭(いと)うを知り、事寛厚に従い、之を文(かざ)るに礼楽を以ってす。嘗て貢挙(こうきょ)の法を議す。韋彪(いひょう)議して曰く、国は賢を簡(えら)ぶを以って務めと為す。賢は、孝行を以って首(はじめ)と為す。忠臣を求むるは、必ず孝子(こうし)の門に於いてす、と。上、之を然りとす。廬江の毛義、行いの義なるを以って称せらる。張奉(ちょうほう)之を候(こう)す。府檄(ふげき)適々(たまたま)至り、義を以って安陽の令に守(しゅ)たらしむ。義、檄を捧げて入り、喜び、顔色に動く。奉、心に之を賤(いや)しむ。後に義の母死す。徴辟(ちょうへき)に皆至らず。奉乃(すなわ)ち歎じて曰く、往日の喜は、親の為に屈するなり、と。上、詔を下して之を褒寵(ほうちょう)す。州郡人を得たり。廉范(れんばん)の蜀郡に在るが如き、禁を弛めて以って民に便す。民之を歌うて曰く、廉叔度来る何ぞ暮(おそ)きや。火を禁ぜず、民安作(あんさく)す。昔は襦(じゅ)無く、今は五袴、と。当時、皆以って徭(よう)を平(へい)にし、賦を簡にす。忠恕(ちゅうじょ)の長者政(まつりごと)を為し、上の世を終るまで、民其の慶に頼(よ)る。太子立つ、是を孝和皇帝と為す。

章帝が崩じた(88年)。在位十三年、改元すること三回。建初・元和・章和である。歳は三十一であった。章帝は明帝の些細な過失をあげつらった治世の後を承け、人々が苛酷な政治を嫌っていることを知り、何事も寛大温厚にして、礼楽で完成させようとした。あるとき官吏推挙の方法について議論があったとき、韋彪が「国は賢者を登用することが務めであります。賢者を選ぶには第一に親孝行でなくてはなりません。忠臣を得るためには、必ず孝子の中から選ぶべきであります」と申しあげた。章帝はこれをよしとした。
廬江の毛義は行いが義にかなっていると評判であった。張奉という者が毛義を訪れたところ、ちょうど役所から安陽の県令に任命するという通達が届いた。毛義はその通達をおしいただいて、喜色満面であった。張奉は内心これをさげすんだ。後に毛義の母が死ぬと、もうどのような召喚にも応じなかった。張奉はそこではっと気づいた。あの時の喜びようは母親の為にした心ならずのものだったのか、と。これを伝え聞いた章帝は褒賞の詔勅を下した。
州や郡の官吏にはすぐれた人が多かった。廉范が蜀郡の太守であったときなどは、禁令を弛めて人々の便宜をはかったので、こんな歌が歌われた。


 廉叔度さま、もっと早くに来てほしかった。
 あなたが灯のおゆるしあって、おかげでわしらは夜なべにはげむ。
 肌着一枚ない日もあった、今じゃもんぺも五六枚。

当時はみな労役は公平で、租税も軽かった。誠実で思いやりのある長者が政を行ったので、章帝の世が終るまで民はその余慶にあずかった。皇太子が位に即いた。これが孝和皇帝である。

貢挙 地方から人材を推挙する。 候 たずねる。 府檄 役所からの通達。
徴辟 徴は朝廷から召されること、辟は州県から召されること。 褒寵 褒めてめぐむ。廉叔度 廉范のあざな、洛県の慶鴻と刎頸の交わりをむすぶ。「前に管鮑ありて後に慶廉がある」と謳われた。 徭 労役。 賦 年貢。 忠恕 忠実で同情心が厚いこと。



十八史略 章帝

2011-07-21 11:10:47 | 十八史略
孝章皇帝名烜、母賈氏、馬皇后養之。立爲太子。至是即位。
西域攻没都護。北匈奴圍己校尉、又圍耿恭。詔遺兵。罷都護及戊己校尉官。惟班超上疏請兵、欲遂平西域。上知功可成從之。
北匈奴五十八部來降。時北匈奴衰耗、黨衆離畔。南部攻其前、丁零寇其後、鮮卑撃其左、西域攻其右。不復自立。乃遠引而去。鮮卑撃斬北單于。故部衆有來降者。

孝章皇帝、名は烜(けん)、母は賈氏(かし)、馬皇后之を養う。立てて太子と為す。是(ここ)に至って位に即く。
西域、都護を攻没(こうぼつ)す。北匈奴(ほくきょうど)、己校尉(きこうい)を囲み、又耿恭を囲む。詔(みことのり)して兵を遣わす。都護及び戊己校尉(ぼきこうい)の官を罷(や)む。惟(ひと)り班超上疏(じょうそ)して兵を請い、遂に西域を平らげんと欲す。上、功の成る可きを知って之に従う。
北匈奴の五十八部来降す。時に北匈奴衰耗(すいこう)し、党衆離畔(りはん)す。南部其の前を攻め、丁零(ていれい)其の後に寇(あだ)し、鮮卑(せんぴ)其の左を撃ち、西域其の右を攻む。復自立せず。乃(すなわ)ち遠く引いて去る。鮮卑撃って北単于を斬る。故に部衆来降する者有り。


孝章皇帝、名は烜、母は賈氏である。馬皇后が養育した。皇太子に立てられていて、ここに至って即位した。
西域の車師が叛いて漢の都護を攻めて殺した。北匈奴は己校尉を包囲し、又戊校尉の耿恭をもとり囲んだ。帝は詔勅を下して軍隊を派遣し、これを救って都尉及び戊己校尉の官を廃止した。ただ班超だけは書をたてまつって、派兵を願い出でて西域を平定しようとした。帝は成功の見込みをつけると、要求を取り上げた。
北匈奴の五十八部が降参して来た。その頃北匈奴は衰退して、部族間で離反していた。この機に乗じて南匈奴が前から攻め、丁零国が後ろを脅かし、鮮卑が左から撃って、西域が右を攻めた。北匈奴はもはや自立できずに兵を引いて去った。そこを鮮卑が追撃して北匈奴の単于を斬り殺した。それで多くの部族たちが漢に来り降ったのである。


烜 後漢書には火へんに旦とある。 馬皇后 明帝の后、馬援の娘。 丁零 北トルコ系遊牧民の一。 鮮卑 モンゴル系遊牧民族。

十八史略 苟しくも其の人に非ざれば、民そのわざわいを受く。 

2011-07-19 10:07:03 | 十八史略
上崩。在位十八年、改元者一、曰永平。壽四十八。上性惼察、好以耳目隱發爲明。公卿大臣數被詆毀、近臣尚書以下、至見提曳。嘗怒郎藥、以杖撞之。走入床下。上怒甚。疾言曰、郎出、郎出。曰、天子穆穆、諸侯皇皇。未聞人君自起撞郎。乃赦之。上遵奉建武制度、無更變。 后妃家不得封侯預政。館陶公主、爲子求郎。上曰、郎官上應列宿、出宰百里。苟非其人、民受其殃。不許。當時吏得其人、民樂其業。遠近畏服、戸口滋殖焉。太子立。是爲肅宗孝章皇帝。

上(しょう)崩ず。在位十八年、改元する者(こと)一、永平と曰う。寿四十八。上、性惼察(へんさつ)にして、好んで耳目を以って隠発(いんぱつ)して明と為す。公卿(こうけい)大臣数しば詆毀(ていき)せられ、近臣尚書以下、提曳(ていえい)せらるるに至る。嘗て、郎藥(やくすう)を怒り、杖を以って之を撞(つ)く、走って床下(しょうか)に入る。上怒ること甚だし。疾(と)く言って曰く、郎出でよ、郎出でよ、と。曰く、天子は穆穆(ぼくぼく)たり、諸侯は皇皇(こうこう)たり。未だ人君の自ら起って郎を撞くを聞かず、と。乃ち之を赦す。上、建武の制度を遵奉(じゅんぽう)して更変するところ無し。后妃(こうひ)の家は侯に封ぜられ政に預かるを得ず。館陶公主、子の為に郎を求む。上曰く、郎官は上(かみ)列宿に応じ、出でては百里に宰(さい)たり。苟(いやし)くも其の人に非ざれば、民その殃(わざわい)を受く、と。許さず。当時の吏、其の人を得て、民其の業を楽しむ。遠近畏服(いふく)し、戸口(ここう) 滋殖(じしょく)す。
太子立つ。是を肅宗孝章皇帝と為す。


明帝が崩じた。在位十八年、改元すること一度、永平という。年は四十八歳であった。帝は性格が偏狭で疑い深く、好んで密偵を使って臣下の隠し事を摘発して、それを自分が暗愚でないことと思っていた。公卿大臣でもしばしばそしり、はずかしめを受け、近臣尚書以下、引き廻されたりした。あるとき、郎官の薬(やくすう)が明帝の怒りにふれて杖で突かれた。薬は走って床下に逃げ込んだ。帝は激怒して、「郎、出てこい。郎、出てこい」と怒鳴った。は「天子はうるわしく、諸侯は慎み深くとありますが、人君たるお方が自ら起って郎を突くなど聞いたためしがありません」と言うと、帝も怒りを鎮めを赦した。明帝は光武帝の定めた制度をひたすら守り、少しも変えることがなかった。それで皇后の一門は諸侯にもなれず、政治に参与することもできなかった。明帝の姉の館陶公主が、子に郎官の職を求めたが、「郎官の職は、天上の星宿に象ったものであり、地方に出ては百里四方の長となるものである。ふさわしい人物でなければ、民が災いをうける」といって、許さなかった。ことほどさように当時の官吏はふさわしい人を得て民は家業に励み、外国や近隣諸国は畏れ服し、戸数、人口はますます増えたのであった。
皇太子が即位した。是が肅宗孝章皇帝である。


惼察 偏狭で詮索好き。 詆毀 誹謗する。 提曳 引き廻される。
天子は穆穆たり、諸侯は・・ 礼記曲礼篇にある


十八史略 匈奴囲みを解いて去る。

2011-07-16 08:25:58 | 十八史略
十八年、北匈奴攻戊校尉耿恭。初上即位之明年、南單于比死。弟莫立。上遣使授璽綬。北匈奴寇邊。南單于撃卻之。漢與北匈奴交使。南單于怨欲畔、密使人與交通。漢置度遼將軍於五原、以防之。已而漢伐北匈奴、北匈奴亦寇邊。至是攻恭於金蒲城。恭以毒藥傅矢、語匈奴曰、漢家箭神、中者有異。虜視創皆沸。大驚。恭乘暴風雨撃之。殺傷甚衆。匈奴震怖曰、漢兵神、眞可畏也。乃解去。

十八年、北匈奴(ほくきょうど)、戊校尉(ぼこうい)耿恭(こうきょう)を攻む。初め上(しょう)即位の明年、南単于の比死す。弟莫(ばく)立つ。上、使いを遣わして璽綬(じじゅ)を授く。北匈奴、辺に寇(こう)す。南単于撃って之を卻(しりぞ)く。漢、北匈奴と交使す。南単于怨んで畔(そむ)かんと欲し、密かに人をして与(とも)に交通せしむ。漢、度遼将軍(どりょうしょうぐん)を五原に置いて、以って之を防ぐ。已にして漢、北匈奴を伐つ。北匈奴も亦、辺に寇す。是に至って恭を金蒲城に攻む。恭、毒薬を以って矢に傅(つ)けて、匈奴に語(つ)げて曰く、漢家の箭(や)は神なり、中(あた)る者は異あり、と。虜、創(きず)を視れば皆沸く。大いに驚く。恭、暴風雨に乗じて之を撃つ。殺傷甚だ衆(おお)し。匈奴、震怖(しんふ)して曰く、漢の兵は神なり、真に畏るべきなり、と。乃(すなわ)ち、解き去る。

永平十八年(75年)に北匈奴が戊校尉の耿恭を攻めた。遡って明帝が即位した翌永平二年に南単于の比が死んで弟の莫が立った。帝は使者を遣わして印綬を授けた。その三年後に北匈奴が漢の辺境を侵略すると、南単于は兵を出してこれを撃退した。ところが漢は翌々年北匈奴と外交をはじめたので、南単于はこれを怨んで漢に叛こうとして、密かに使者を北匈奴にやって、共に通じ合って漢と絶交しようとした。漢は五原郡に度遼将軍を置いて対抗した。永平十三年に
漢は北匈奴を伐った。北匈奴も再び辺境を侵略する。このようなことが繰り返されて、この年(十八年)に耿恭を金蒲城に攻めたのである。耿恭は毒薬を矢に塗って、匈奴に向かって言った。「漢の矢には神が憑いている。あたれば必ず異変がおこるぞ」と。匈奴が傷口を見ると、ふつふつと沸いているので大いに驚いた。恭はまた暴風雨に乗じて匈奴を攻め、手ひどい打撃をあたえた。匈奴は恐れおののいて、漢の兵には神が宿っている、恐ろしい限りだと、囲みを解いて去った。


交使 使者を遣わして交わりを結ぶこと。 畔 叛に同じ。 度遼将軍 度は渡るに同じ、遼水を渡河して匈奴を征伐する意。