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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 張綱 豺狼道に当る、安んぞ狐狸を問わん

2011-08-16 14:25:33 | 十八史略
以皇后父梁商爲大將軍。商死。以其子冀爲大將軍、不疑爲河南尹。遺使者八人、分行州郡。張綱獨埋其車輪於洛陽都亭曰、豺狼當道。安問狐狸。劾奏冀・不疑無君之心十五事。上知綱言直、而不能用。冀欲中傷之。廣陵賊張嬰。寇亂揚徐十餘年。乃以綱爲廣陵太守。綱單車徑詣嬰壘門、請與相見譬暁之。嬰等萬餘人降。綱入壘宴、散遣任所之。南州晏然。在郡卒。嬰等爲之制服行喪。

皇后の父梁商を以って大将軍と為す。商死す。其の子冀(き) を以って大将軍と為し、不疑(ふぎ)を河南の尹(いん)と為す。使者八人を遣わして、州郡を分行せしむ。張綱、独り其の車輪を洛陽の都亭(とてい)に埋めて曰く、豺狼(さいろう)道に当る。安(いず)くんぞ狐狸(こり)を問わん、と。冀・不疑が君を無(な)みするの心十五事を劾奏(がいそう)す。上、綱の言の直なるを知れども、而(しか)も用いる能(あた)わず。冀、之を中傷せんと欲す。広陵の賊張嬰(ちょうえい)、揚徐の間に寇乱(こうらん)すること十余年。乃ち綱を以って広陵の太守と為す。綱、単車径(ただち)に嬰の塁門に詣(いた)り、請うて与(とも)に相見て之を譬暁(ひぎょう)す。嬰等万余人降る。綱、塁に入って宴し、散じ遣(や)って之(ゆ)く所に任す。南州晏然(あんぜん)たり。郡に在って卒(しゅっ)す。嬰等之が為に服を制して喪を行う。

皇后の父梁商が大将軍に任じられた。商が死ぬとその子の冀が大将軍に、冀の弟の不疑が河南の長官になった。ある時、使者八人を派遣して州郡を視察させた。その中で張綱だけが、洛陽の宿場で馬車の車輪を土中に埋めて、「山犬や狼が中央を跋扈(ばっこ)しているのに、なんで地方の狐や狸を調べて歩けようか」と言い、冀や不疑が帝をないがしろにしている点十五箇条を奏上した。順帝はその言い分の正しいことは承知しながら、どうすることもできないでいた。梁冀はこれを怨み張綱を貶めようと機会を窺っていた。
広陵の賊張嬰は十年にもわたって揚州・徐州の一帯を荒らし廻っていた。そこで張綱を広陵の太守に任命した。張綱は単身車で嬰の砦の門に赴き会見を申し出て、とくと諭したので張嬰以下一万人あまりが降った。張綱は砦に入って共に酒宴を催した後全員にそれぞれ行きたい所に行かせた。これによって南部の州郡は平穏になった、張綱は広陵に在任中に死んだが、嬰等はこれを悲しみ喪服をつくって喪にふくした。


尹 長官。 劾奏 官吏の罪を挙げて君主に奏上すること。 寇乱 寇はあだする。 譬暁 譬も暁もさとすこと。 晏然 やすらかなさま、落ち着いたさま。

十八史略 孝順皇帝

2011-08-13 12:52:18 | 十八史略
尚書令左雄

孝順皇帝名保爲孫程等所立。宦官以功封侯者十九人。
尚書令左雄、奏令郡國與孝廉。限年四十以上、諸生通章句、文吏能牋奏、乃得應選。其有茂材異等、若顔淵・子奇、不拘年歯。雄公直精明、能審覈眞僞、決志行之。有擧少年至者。雄詰之曰、顔囘聞一知十。孝廉聞一知幾邪。頃之、中外坐謬擧謬黜免者十餘人。惟汝南陳蕃・潁川李膺・下邳陳球等、三十餘人、得拝郎中。

孝順皇帝名は保。孫程等の立つ所たり。宦官、功を以って侯に封ぜらるる者十九人。
尚書令左雄(さゆう)、奏して郡国に令して孝廉を挙げしむ。年(とし)四十以上を限り、諸生の章句に通じ、文吏の牋奏(せんそう)を能くするものは、乃(すなわ)ち選に応ずるを得(う)。其の茂材異等(もさいいとう)、顔淵・子奇の若(ごと)きもの有れば、年歯に拘わらず、と。雄、公直精明にして、能く真偽を審覈(しんかく)し、志を決して之を行う。少年を挙げて至る者あり。雄、之を詰(なじ)って曰く、顔回は一を聞いて十を知る。孝廉は一を聞いて幾ばくを知るか、と。頃之(しばらく)して、中外謬挙(びゅうきょ)に坐して、黜免(ちゅつめん)せらるる者十余人。惟だ汝南(じょなん)の陳蕃(ちんばん)・潁川(えいせん)の李膺(りよう)・下邳(かひ)の陳球ら、三十余人、郎中に拝せらるるを得たり。


孝順皇帝名は保という。宦官の孫程らが擁立した皇帝である。その功で列侯に封ぜられた者が十九人もあった。
尚書令の左雄が奏上して、郡国に指令して孝廉の者を推挙するよう布令した。「年齢は四十歳以上、学生で経書の解釈に通じ、文官で上奏文を書く能力にすぐれた者は選抜に応ずることができる、秀才で人に抜きんでて、顔淵や子奇のような人物であれば、年齢を問わない」というものであった。左雄は公正廉直で仕事に精通し、よく人物の真偽を見抜き、事に臨んで決断力があった。ある時、まだ年若い者が孝廉に推挙されてきた。左雄は「顔回は一を聞いて十を知ったというが、そなたは一を聞いていくつ知るか」と詰めよった。やがて不適正な推挙をしたかどで罷免となった官吏が十人余りにのぼった。ただ汝南の陳蕃、潁川の李膺、下邳の陳球等三十余人は、これによって郎中に任ぜられた。


牋奏 牋は箋、上奏文。 茂材異等 茂材は秀才、光武帝の秀を避けた。異等は等しくない、抜群。 子奇 春秋時代の斉の賢人で十八歳で県の宰となり、善政を布いた。父は尹吉甫。 審覈 審も覈も調べること。 謬挙 誤った推挙。 黜免 黜はしりぞける、罷免。

十八史略 安帝崩ず 

2011-08-11 09:30:21 | 十八史略
上少號聰明。既即位多失。在位十九年崩。改元者五、曰永初・元初・永寧・建光・延光。太子先爲近習所譖、坐廢爲濟陰王。閻皇后臨朝、與閻顯迎章帝孫北郷侯懿嗣位。宦者孫程等、誅顯遷閻后、迎立濟陰王。是爲孝順皇帝。

上(しょう)、少にして聡明と号す。既に位に即いて失徳多し。位に在ること、十九年にして崩ず。改元する者(こと)五、永初・元初・永寧・建光・延光と曰(い)う。太子先に近習の譖(しん)する所と為り、坐して廃せられて濟陰王と為る。閻(えん)皇后朝に臨み、閻顯(えんけん)と章帝の孫、北郷侯懿(い)を迎えて位を嗣(つ)がしむ。宦者孫程ら、顯を誅し、閻后を遷(うつ)し、濟陰王を迎え立つ。是を孝順皇帝と為す。

安帝は幼少のころは聡明だといわれていたが、位に即いてからは徳を失うことが多かった。在位十九年で崩じた(125年)。改元すること永初・元初・永寧・建光・延光の五回である。
皇太子が近臣の讒言に遇い、連坐して廃せられ、済陰王とされていた。閻皇后が朝廷にでて政治を執り、兄の閻顕と謀って章帝の孫で北郷侯の懿を迎えて即位させた(少帝という)。ところがこの年のうちに崩じた。宦官の孫程らが閻顕を誅殺し、閻皇后を離宮に追って、先の皇太子の済陰王を迎えて立てた。これが孝順皇帝である。


十八史略 楊震曰く、天知る。地知る。子知る。我知る。 

2011-08-09 10:53:26 | 十八史略

太尉楊震自殺。震關西人。時人稱之曰、關西孔子楊伯起。教授生徒。堂下得三鱣。都講以爲、有三公之象。取以進曰、先生自此升矣。後嘗爲郡守。屬邑令、有懐金遣之者。曰、暮夜無知者。震曰、天知。地知。子知。我知。何謂無知。令慚而退。及爲三公、時宦者及上乳母王聖用事。皆有請託。震不從。又數以近習爲言、共構之。策収印綬。遂死。葬之日、名士皆來會。有大鳥、高丈餘、至墓前俯仰、流涕而去。

太尉の楊震自殺す。震は関西の人なり。時人(じじん)之を称して曰く、関西の孔子は楊伯起、と。生徒に教授す。堂下に三鱣(さんせん)を得たり。都講以爲(おも)えらく、三公の象(しょう)有りと。取って以って進めて曰く、先生此れより升(のぼ)らん、と。後嘗て郡守と為る。属邑の令、金を懐にして之を遣(おく)る者有り。曰く、暮夜(ぼや)知る者無し、と。震曰く、天知る。地知る。子知る。我知る。何ぞ知る者無しと謂うや、と。令慚(は)じて退く。三公と為るに及んで、時に宦者及び上の乳母(にゅうぼ) 王聖、事を用う。皆請託有り。震従わず。又数しば近習を以って言を為し、共に之を構(かま)う。策して印綬を収む。遂に死す。葬るの日、名士皆来り会す。大鳥有り、高さ丈余、墓前に至って俯仰(ふぎょう)し、流涕して去る。

太尉の楊震が自殺した。楊震は関西の人である。当時の人は震のことを「関西の孔子楊伯起」と呼んでいた。学問を教授していたが、ある日講堂の下にこうのとりが三匹のかわへびをくわえてきた。都講は、これは楊震が三公になる瑞兆に違いないと思い、それを捕まえて楊震にすすめて言った「先生はこれから出世なさるでしょう」と。その後果たして郡の太守になった。ある夜、県令の一人が金を懐にやって来て、賄賂としてさし出して「深夜でだれも知る者はいません、どうぞお受け取りください」と言うと、楊震は「天知る。地知る。子知る。我知る。どうして知る者無しなどと謂えるのか」県令は恥じ入って去った。やがて楊震は太尉になった。そのころは宦官や安帝の乳母の王聖が権力をふるっていて、身内の引き立てを頼んできたが、震はことごとくはねつけた。そのうえしばしば側近の宦官たちを退けるように進言したので、宦官たちは結束して無実の罪に陥れた。安帝は免官の書を下して三公の印綬を取り上げた。そして震は死を選んだのであった。葬儀の日、名士はすべて会葬に訪れた。そのとき一丈余の大鳥が舞い降り天を仰ぎ、地に伏して涙を流して飛び去って行った。

太尉 三公の一、軍事の長官。 楊伯起 伯起はあざな。 三鱣 川蛇。こうのとりが三匹のかわへびをくわえて講堂に集まったという故事によって鱣堂(講堂)、鱣序(教室)の語ができた。 都講 塾頭。

十八史略 黄憲

2011-08-06 08:57:29 | 十八史略
太后崩。騭罷自殺。
汝南太守王龔、好才愛士。以袁閬爲功曹、引進黄憲・陳蕃等。憲父爲牛醫。憲年十四、潁川荀淑、遇於逆旅。竦然異之曰、子吾之師表也。見閬曰、子國有顔子。閬曰、見吾叔度邪。戴良才高。毎見憲歸、惘然若自失。其母曰、汝復從牛醫兒來邪。陳蕃等相謂曰、時月之、不見黄生、鄙吝之萌、復存乎心矣。太原郭泰、過閬不宿。從憲累日。曰、奉高之器、譬之濫。雖清而易挹。叔度汪汪、若千頃陂。澄之不清、撓之不濁、不可量也。憲初孝廉、又辟公府。人勸其仕。暫到京師、即還。年四十八而終。

太后崩ず。騭(とうしつ)罷(や)めさせられて自殺す。
汝南の太守王龔(おうきょう)、才を好み士を愛す。袁閬(えんろう)を以って、功曹(こうそう)と為し、黄憲(こうけん)・陳蕃(ちんばん)等を引進(いんしん)す。憲の父は牛医たり。憲年十四、潁川(えいせん)の荀淑(じゅんしゅく)、逆旅(げきりょ)に遇(あ)う。竦然(しょうぜん)として、之を異として曰く、子は吾の師表(しひょう)なり、と。閬を見て曰く、子が国に顔子あり、と。閬曰く、吾が叔度を見たるか、と。
戴良(たいりょう)才高し。憲を見て帰る毎に、惘然(ぼうぜん)として自失するが若(ごと)し。其の母曰く、汝復た牛医の児に従って来るか、と。陳蕃等相謂いて曰く、時月の間も、黄生を見ざれば、鄙吝(ひりん)の萌(きざし)、復た心に存す、と。
太原の郭泰(かくたい)、閬に過(よぎ)れども宿せず。憲に従って日を累(かさ)ぬ。曰く、奉高の器は、これを濫(きらん)に譬(たと)う。清むと雖も挹(く)み易し。叔度は汪汪として、千頃(せんけい)の陂(は)の若し。之を澄ませども清(すま)ず、之を撓(みだ)せども濁らず、量(はか)る可からざるなり、と。憲初め孝廉に挙げられ、又公府に辟(め)さる。人其の仕を勧む。暫く京師に到って、即ち還る。年四十八にして終わる。


太后が亡くなった。騭が罷免されて自殺した。
汝南郡の太守王龔は、才子を好み高潔のひとを愛した。袁閬を功曹に任じて、人物を求めた。そして黄憲・陳蕃が推挙されたのである。黄憲の父は牛の医者であった。憲が十四歳のとき潁川郡の荀淑がたまたま宿で出遇い、畏敬の念をおぼえ「あなたは私が手本と仰ぐべきお方です」といった。その後荀淑が袁閬に会って「あなたの国には顔回のような方がおられますね」と言うと、閬は「叔度に会われたのですね」と答えた。
その頃戴良もまた才子の名が高かった。黄憲と会って帰ると必ず気が抜けたようにぼんやりしていた。母親がすぐに気づいて「おまえはまた牛医の子と会ってきたね」と言った。陳蕃たちも「二、三か月も黄君に会わないと、いやしい気持ちが起こってしまう」と言い合っていた。
太原の郭泰も、袁閬を訪れたときは一泊もしなかったが、黄憲の所だと何日も居続けた。あるひとに「袁奉高は言ってみれば小さな泉だ、清らかだが汲みつくすことができる。それに比べて黄叔度は深く広い湖のようで、澄ませようとしても澄むものでなく、かきまわしてみても濁らない、はかりしれない深みを持っている」と言っていた。
黄憲は初め孝廉の科に挙げられて、郡からも召し出された。人が仕官を勧めたが、暫く洛陽に居たがすぐに郷里に帰り、四十八歳で死んだ。


功曹 郡の書記官。 引進 推薦する。 逆旅 逆は迎える、旅籠。 竦然 竦はすくむ、つつしみおそれる。 師表 手本。 顔子 孔子の弟子顔回。 叔度 黄憲のあざな。 惘然 呆然に同じ。 鄙吝 いやしくけちなこと。 奉高 袁閬のあざな。 濫 湧き水。 汪汪 水の深く広いさま、度量の広いさま。千頃の陂 頃は面積の単位百畝(ほ)、陂はつつみ。 孝廉科 孝行で廉潔なこと、人材登用の法、郡が推挙した。