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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 崔寔の政論

2011-08-25 13:06:18 | 十八史略

詔擧獨行之士。涿郡崔寔至公車。不對策、退而著政論。略曰、聖人能與世推移、俗士苦不知變。以爲、結繩之約、可復治亂秦之緒、干之舞、可以解平城之圍。夫刑罰者、治亂之藥石也。教者、興平之粱肉也。以教除殘、是以粱肉治疾也。以刑罰治平、是以藥石供養也。自數世以來、政多恩貸。馭委其轡、馬駘其銜、四牡横犇、皇路險傾。方將拑勒鞬輈、以救之。豈暇鳴和鑾清節奏哉。昔文帝雖除肉刑、當斬右趾棄市、笞者往往至死。是文帝以嚴致平、非以寛致平也。仲長統見其書曰、凡爲人主、宜寫一通置之坐側。

詔(みことのり)して独行の士を挙げしむ。涿郡(たくぐん)の崔寔(さいしょく)公車に至る。対策せずして、退いて政論を著わす。略に曰く、聖人は能く世と推移し、俗士は変を知らざるに苦しむ。以為(おも)えらく、結縄(けつじょう)の約は復た乱秦の緒を治む可く、干(かんう)の舞は、以って平城の囲みを解く可し、と。夫れ刑罰は乱を治むるの薬石なり。徳教は、平を興すの粱肉なり。徳教を以って残を除くは、是れ粱肉を以って疾を治むるなり。刑罰を以って平を治むるは、是れ薬石を以って養に供うるなり。数世より以来、政(まつりごと)恩貸(おんたい)多し。馭(ぎょ)はその轡(たずな)を委(す)て、馬はその銜(くつわ)を駘(ぬ)ぎ、四牡(しぼ)横に犇(はし)り、皇路険傾(けんけい)す。方(まさ)に将(まさ)に勒(ろく)を拑(けん)し、輈(ちゅう)を鞬(けん)して、以って之を救わんとす。豈和鑾(からん)を鳴らし、節奏を清うするに暇(いとま)あらんや。昔、文帝、肉刑を除くと雖も、右趾(ゆうし)を斬るに当るは棄市(きし)し、笞者(ちしゃ)は往往死に至る。是れ文帝厳を以って平を致し、寛を以って平を致すに非ざるなり、と。仲長統(ちゅうちょうとう)其の書を見て曰く、凡そ人主(じんしゅ)たるものは、宜しく一通を写して之を坐側(ざそく)に置くべし、と。

独行の士 人におもねることなく、正義を行う人。 公車 役所の名。 対策 答案を書くこと。 結縄 文字の無かった時代、縄を結んで約束とした。 干 干は盾、舞の小道具、禹王が舞い蛮族が服従したという。 平城の囲みを解く 前漢の武帝が匈奴に包囲された際、陳平の奇計によって難を逃れた事。粱肉 よい穀物とうまい肉。 残を除く 賊を退ける。 恩貸 めぐみ、恩を限られた人に与えること。 四牡  四頭の牡馬。 皇路 皇帝の馬車。 勒を拑し おもがいを握る。 輈を鞬して ながえを繋いで。 和鑾 馬に付ける鈴。 節奏 調子をとる。 右趾 右足。 棄市 死者を市にさらす刑。 笞者 鞭打ちの刑に処された者。 人主 人の上に立つ者。

桓帝は詔勅を下して、独行の士を推薦させた。河北の涿郡から崔寔が役所まで来たが、試験には応じずに帰り、政論一編を著した。大略はこうである。
聖人はよく時勢に順応できるが、俗人は変化を知らないから苦しむのである。思うに、上古、縄を結んで約束の印としたそのやり方で、乱れた秦の政治を変革する糸口となり、また禹王が蛮族を帰服させた舞をもって、高祖が匈奴の囲みを解く事ができたと考えているのである。
そもそも刑罰というものは乱世を治める薬であり、徳教は太平を興す美食である。徳教によって賊を除こうとするのは、美食によって病気を治そうとするものであり、刑罰によって太平を招来するのは、薬を栄養にしようとするものです。この数世より、政治にはただ寛容さばかりが多く、例えて言えば、馭者は手綱を放し、馬はくつばみを外し、四頭立ての馬車は横ざまに走り、天子の御車は覆えらんばかりであります。今こそまさにおもがいを引きしめ、ながえを繋ぎ、これを救わなければなりません。どうして鈴を鳴らして、調子をとってなど言っている暇があるでしょうか。昔、文帝は身体を傷つける刑は廃止したというが、右足を切る刑に相当するも罪人を獄門にかけてさらし、鞭打ちの刑をもしばしば死に至らしめた。これは文帝が厳格さによって太平を招来したのであって、寛大さで招かれたのではない。
仲長統がこの書を見て「すべて人に君たる者は、この書一通を写して座右に置くべきであろう」と言った。


十八史略 荀淑・陳寔 

2011-08-23 09:26:23 | 十八史略
 徳星あらわる。
前朗陵侯相潁川荀淑、少博學有高行。李固・李膺等、皆師宗之。相朗陵。治稱神君、子八人、時人稱爲八龍。其六曰爽。字慈明。人言、荀氏八龍、慈明無雙。縣令命其里、曰高陽里。爽嘗謁李膺。因爲之御。既還喜曰、今日乃得御李君矣。同郡陳寔與淑齊名。嘗詣淑。長子紀字元方、御車、次子字季方驂乗、孫羣字長文、尚幼。抱車中、至淑家。八龍更迭侍左右。淑孫字文若、尚幼。抱置膝上。太史奏、星見。五百里内有賢人聚。
寔嘗爲大丘長、修清浄。吏民追思之。紀・之子、問其父優劣於其祖。寔曰、元方難爲兄、季方難爲弟。

前(さき)の朗陵侯の相(しょう)潁川(えいせん)の荀淑(じゅんしゅく)、少(わか)くして博学、高行(こうこう)有り。李固・李膺(りよう)等、皆之を師宗(しそう)とす。朗陵に相たり。治、神君と称す。子八人、時人(じじん)称して八龍と為す。其の六を爽と曰(い)う。字(あざな)は慈明。人言(いわ)く、荀氏八龍、慈明無双なり、と。県令其の里に命じて、高陽里と曰(い)う。爽嘗て李膺に謁す。因って之が為に御す。既に還り、喜んで曰く、今日(こんにち)乃ち李君に御するを得たり、と。
同郡の陳寔(ちんしょく)、淑と名を斉(ひと)しうす。嘗て淑に詣(いた)る。長子紀、字は元方、車を御し、次子(しん)、字は季方、驂乗し、孫群、字は長文、尚幼なり。車中に抱かれて、淑が家に至る。八龍更(こも)ごも迭(たが)意に左右に侍す。淑の孫(いく)、字は文若、尚幼なり。膝上(しつじょう)に放置す。
太史奏す、徳星見(あら)わる。五百里の内、賢人の聚(あつ)まる有らん、と。
寔嘗て大丘の長と為り、徳を修めて清浄なり。吏民之を追思(ついし)す。紀・の子、其の父の優劣を其の祖に問う。寔曰く、元方は兄(けい)たり難く、季方は弟たり難し、と。


前の朗陵侯の宰相で潁川の荀淑は、若いころから博学で高潔であった。李固や李膺たちは皆荀淑を師と仰いでいた。朗陵の宰相となると、その施政により神君と讃えれていた。荀淑には八人の男子がいて、八龍と呼んでいた。その六番目を爽といい、字を慈明といったが、人はまた八龍の中で並ぶ者なしと見做していた。県令はその里をいにしえの高陽氏にあやかって、高陽里と呼ぶように布令した。爽はあるとき李膺を訪ね、その折、李膺の御者をさせてもらったことがあり、喜んで家に還って「きょうは李君を御すことができた」と言った。
同じ郡の陳寔も荀淑と並んで名声が高かった。あるとき陳寔が荀淑を訪れた。長男の紀、字は元方が車を御し、次男の、字は季方が陪乗し、幼い孫の群、字は長文は、車の中で抱かれて荀淑の家に着いた。淑の家では八龍たちがかわるがわる出てきてもてなした。まだ幼い孫の、字は文若は、膝の上に抱かれていた。
この日、天文官が帝に奏上した「徳星があらわれました。五百里内に賢人が集まっているのでありましょう」と。
陳寔は嘗て大丘いうまちの長となってよく徳を修めて清廉であった。そのため部下も民も、後になつかしみ慕った。ある時、長男紀の子と次男の子が互いの父の優劣を祖父の寔に聞くと、「元方も季方もどちらが兄、どちらが弟とも言いかねるな」と答えた。


八龍 荀倹・荀緄・荀靖・荀壽・荀詵・荀爽・荀粛・荀剪。 高陽里 伝説上の帝王顓頊(せんぎょく)高陽氏に八人の賢人、八(がい)がいたことによる。 太史 天文、暦算をつかさどり、あわせて国史を記録する官。 

十八史略 

2011-08-23 09:04:08 | 十八史略
荀淑・陳寔 徳星あらわる。
前朗陵侯相潁川荀淑、少博學有高行。李固・李膺等、皆師宗之。相朗陵。治稱神君、子八人、時人稱爲八龍。其六曰爽。字慈明。人言、荀氏八龍、慈明無雙。縣令命其里、曰高陽里。爽嘗謁李膺。因爲之御。既還喜曰、今日乃得御李君矣。同郡陳寔與淑齊名。嘗詣淑。長子紀字元方、御車、次子字季方驂乗、孫羣字長文、尚幼。抱車中、至淑家。八龍更迭侍左右。淑孫字文若、尚幼。抱置膝上。太史奏、星見。五百里内有賢人聚。
寔嘗爲大丘長、修清浄。吏民追思之。紀・之子、問其父優劣於其祖。寔曰、元方難爲兄、季方難爲弟。

前(さき)の朗陵侯の相(しょう)潁川(えいせん)の荀淑(じゅんしゅく)、少(わか)くして博学、高行(こうこう)有り。李固・李膺(りよう)等、皆之を師宗(しそう)とす。朗陵に相たり。治、神君と称す。子八人、時人(じじん)称して八龍と為す。其の六を爽と曰(い)う。字(あざな)は慈明。人言(いわ)く、荀氏八龍、慈明無双なり、と。県令其の里に命じて、高陽里と曰(い)う。爽嘗て李膺に謁す。因って之が為に御す。既に還り、喜んで曰く、今日(こんにち)乃ち李君に御するを得たり、と。
同郡の陳寔(ちんしょく)、淑と名を斉(ひと)しうす。嘗て淑に詣(いた)る。長子紀、字は元方、車を御し、次子(しん)、字は季方、驂乗し、孫群、字は長文、尚幼なり。車中に抱かれて、淑が家に至る。八龍更(こも)ごも迭(たが)意に左右に侍す。淑の孫(いく)、字は文若、尚幼なり。膝上(しつじょう)に放置す。
太史奏す、徳星見(あら)わる。五百里の内、賢人の聚(あつ)まる有らん、と。
寔嘗て大丘の長と為り、徳を修めて清浄なり。吏民之を追思(ついし)す。紀・の子、其の父の優劣を其の祖に問う。寔曰く、元方は兄(けい)たり難く、季方は弟たり難し、と。

前の朗陵侯の宰相で潁川の荀淑は、若いころから博学で高潔であった。李固や李膺たちは皆荀淑を師と仰いでいた。朗陵の宰相となると、その施政により神君と讃えれていた。荀淑には八人の男子がいて、八龍と呼んでいた。その六番目を爽といい、字を慈明といったが、人はまた八龍の中で並ぶ者なしと見做していた。県令はその里をいにしえの高陽氏にあやかって、高陽里と呼ぶように布令した。爽はあるとき李膺を訪ね、その折、李膺の御者をさせてもらったことがあり、喜んで家に還って「きょうは李君を御すことができた」と言った。
同じ郡の陳寔も荀淑と並んで名声が高かった。あるとき陳寔が荀淑を訪れた。長男の紀、字は元方が車を御し、次男の、字は季方が陪乗し、幼い孫の群、字は長文は、車の中で抱かれて荀淑の家に着いた。淑の家では八龍たちがかわるがわる出てきてもてなした。まだ幼い孫の、字は文若は、膝の上に抱かれていた。
この日、天文官が帝に奏上した「徳星があらわれました。五百里内に賢人が集まっているのでありましょう」と。
陳寔は嘗て大丘いうまちの長となってよく徳を修めて清廉であった。そのため部下も民も、後になつかしみ慕った。ある時、長男紀の子と次男の子が互いの父の優劣を祖父の寔に聞くと、「元方も季方もどちらが兄、どちらが弟とも言いかねるな」と答えた。

八龍 荀倹・荀緄・荀靖・荀壽・荀詵・荀爽・荀粛・荀剪 高陽里 伝説上の帝王顓頊(せんぎょく)、高陽氏に八人の賢人、八(がい)がいたことによる。 太史 天文、暦算をつかさどり、あわせて国史を記録する官。

十八史略 跋扈将軍

2011-08-20 09:03:49 | 十八史略
孝沖皇帝名炳、年二歳即位。三閲月而崩。改元者一、曰永嘉。梁太后迎立渤海孝王之子。是爲孝質皇帝。
孝質皇帝名纘、章帝曾孫也。年八歳即位。少而聰慧。嘗因朝會、目梁冀曰、此跋扈將軍也。冀深惡之、使左右於餠中進毒。遂崩。在位一年有半。改元者一、曰本初。冀迎立蠡吾侯。是爲孝桓皇帝。
孝桓皇帝名志、章帝曾孫也。年十五即位。梁冀以定策功益封。又封其子弟皆侯。李固・杜喬欲立清河王蒜。至是蒜貶爲侯自殺。固・喬下獄死。

孝沖皇帝名は炳(へい)、年二歳にして位に即く。三閲月にして崩ず。改元すること一、永嘉と曰う。梁太后、渤海の孝王の子を迎立す。是を孝質皇帝と為す。
孝質皇帝名纘(さん)、章帝の曾孫なり。年八歳にして位に即く。少(わか)くして聡慧(そうけい)なり。嘗て朝会に因(よ)って梁冀を目(もく)して曰く、此れ跋扈(ばっこ)将軍なり、と。冀深く之を悪(にく)み、左右をして餅中(へいちゅう)に於いて毒を進めしむ。遂に崩ず。位に在ること一年有半。改元する者(こと)一、本初と曰う。冀、蠡吾侯(れいごこう)を迎立す。是を孝桓皇帝と為す。
孝桓皇帝名は志、章帝の曾孫也。年十五にして位に即く。梁冀、定策の功を以って封を益す。又其の子弟を封じて皆侯とす。李固・杜喬(ときょう)、清河王蒜(さん)を立てんと欲す。是に至り蒜貶(へん)せられて侯と為り自殺す。固・喬獄に下り死す。


孝沖皇帝は名を炳といい、年二歳で即位し、わずか三ヶ月で亡くなった。改元すること一回、永嘉という。梁太后が渤海の孝王の子を迎えて位に立てたこれが孝質皇帝である。
孝質皇帝は名を纘といい、章帝の曾孫である。八歳で即位した。幼少にして聡明であった。嘗て朝廷で群臣が集まるなかで、梁冀に目をとめて「これは横柄で気ままな跋扈将軍だ」といった。冀は深く根にもって、側近の者に命じて毒餅を帝にすすめた。質帝はそれで崩じた(147年)。位に在ること一年半、年号を改めること一回で本初という。冀は蠡吾侯を迎えて位に立てた。これを孝桓皇帝という。
孝桓皇帝は名を志といい、章帝の曾孫である。十五歳で位に即かれた。梁冀は新帝を定めた功績によって加増され、その子弟も諸侯に取り立てられた。初め李固と杜喬は、清河王の蒜を立てようとしたが桓帝が即位したので蒜は貶(おと)されて一諸侯となってとうとう自殺し、李固と杜喬は投獄されて牢死した。


三閲月 閲はかぞえる、三ヶ月が経つ。 跋扈 跋はおどりこえる、扈は竹やな、大魚が跳ねて自由にふるまう、帝を無視して権勢を自由にすること。 定策 天子を擁立すること。

十八史略 蘇章 

2011-08-18 10:43:21 | 十八史略
人皆一天有り。我独り二天有り

時二千石、有能政者。冀州刺史蘇章、有故人爲清河太守。章行部。爲設酒甚歡。守喜曰、人皆有一天。我獨有二天。章曰、今日蘇孺文、與故人飮者私恩也。明日冀州刺史案事者公法也。遂擧正其姦贓之罪。
上在位二十年崩。改元者五、曰永建・陽嘉・永和・漢安・建康。太子立。是爲孝沖皇帝。

時に二千石の(ちょうり)、政を能(よ)くする者有り。冀州(きしゅう)の刺史(しし)の蘇章、故人の清河の太守と為るもの有り。章、部を行(めぐ)る。為に酒を設けて甚だ歓ぶ。守喜んで曰く、人皆一天有り。我独り二天有り、と。章曰く、今日蘇孺文(じゅぶん)、故人と飲むは私恩なり。明日冀州の刺史として事を案ずるは公法なり、と。遂にその姦贓(かんぞう)の罪を挙正す。
上(しょう)、位に在ること二十年にして崩ず。改元する者(こと)五、永建・陽嘉・永和・漢安・建康と曰う。太子立つ。是を孝沖皇帝と為す。


このころ二千石(せき)取りの地方長官には、能吏が多かった。冀州の刺史の蘇章の旧知で清河郡の太守になっているものがあった。蘇章がかつて担当地域の巡察で清河郡に行ったとき、太守が酒宴を設けて歓待した。太守は喜色を浮かべて「人には皆天が一つあるが、私にだけはもう一つ、あなたという天がある」と言うと、蘇章は色をなして「今日私蘇孺文が旧知のあなたとこうして飲んでいるのは個人的な付き合いです。明日刺史として検察にあたるのは公の仕事です」と言い、この太守の収賄の罪をあばいて正した。
順帝は位に在ること二十年で崩御した(144年)。改元すること五回、永建・陽嘉・永和・漢安・建康という。皇太子が即位した。これが孝沖皇帝である。


冀州 河北、河南、山西省の地域。 刺史 地方監察官。 清河郡 河北省南部。 部を行る 担当地域を廻る。 故人 旧友、蘇孺文 蘇章のあざな。 姦贓 姦はわたくしする、贓はかくす、賄賂を受ける。