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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 登竜門

2011-09-03 09:14:07 | 十八史略
自黄璚以來、三公如楊秉・劉寵、皆人望。寵嘗守會稽。郡大治。被徴。有五六老叟。自山谷出、人賷百錢送之曰、明府下車以來、狗不夜吠。民不見吏。今聞、當見棄去。故自扶奉送。寵曰、吾政何能及公言邪。勤苦父老。爲人選一大錢受之。後入司空。秉立朝正直。爲河南尹。時嘗以仵宦官得罪。後爲太尉、以卒。陳蕃繼秉爲太尉。數言李膺、以爲司隷校尉。宦官畏之。皆鞠躬屏氣不敢出宮省。時朝廷綱紀頽弛。膺獨持風裁、以聲名自尚。士有被其容接者、名爲登龍門云。

黄璚(こうけい)より以来、三公楊秉(ようへい)・劉寵(りゅうちょう)の如き、皆人望有り。寵、嘗て会稽に守(しゅ)たり。郡大いに治まる。徴(め)さる。五六の老叟(ろうそう)有り。山谷(さんこく)の間より出で、人ごとに百銭を賷(もたら)して之を送って曰く、明府(めいふ)車を下(くだ)って以来、狗、夜吠えず。民、吏を見ず。今聞く、当(まさ)に棄て去らるべし、と。故に自ら扶(たす)けて奉送す、と。寵曰く、吾が政何ぞ能く公の言に及ばんや、父老に勤苦す、と。為に人ごとに一大銭を選んで之を受く。後入って司空と為る。秉、朝(ちょう)に立って正直(せいちょく)なり。河南の尹(いん)と為る。時に嘗て宦官に仵(さか)らうを以って罪を得たり。後、太尉と為り、以って卒(しゅっ)す。陳蕃(ちんばん)、秉に継いで太尉と為る。数しば李膺(りよう)を言い、以って司隷校尉と為す。宦官之を畏(おそ)る。皆鞠躬(きくきゅう)気を屏(しりぞ)けて、敢えて宮省を出でず。時に朝廷綱紀頽弛(たいし)す。膺独り風裁を持し、声名を以って自ら尚(とうと)ぶ。士其の容接(ようせつ)を被る者有れば、名づけて登竜門と為すと云う。

三公 太尉、司徒、司空。 明府 太守。 賷 贈る、齎に同じ。 自ら扶けて 杖を突いて。 正直 厳正剛直。 鞠躬 身をひそめ、つつしむ。 風裁 教化や法律で人々を正しく導くこと。風は教え裁はさばき。 容接 近づきになる。 登竜門 竜門と名づけられた急流を登りきった魚は竜になれるとされ、そこから栄達する入り口にたとえられた。

黄璚が太尉になって以来、三公に任じられた楊秉(ようへい)・劉寵(りゅうちょう)といった人たちは、皆人望があった。劉寵は、嘗て会稽の太守であったが、郡内がよく治まった。朝廷に召されたとき、五六人の老人が山の谷間から出てきて、それぞれ百銭を餞別として贈って言った「名君のあなたさまが着任されてから、夜に犬が吠えかかることがなくなり、取り立ての役人の姿を民が見かけることもなくなりました。今度あなたさまがこの地をあとにして都に帰られると聞き、こうして杖をついて見送りにやって来ました」劉寵は「私の政治があなたがたの言われるような立派なものではない。ご老人たち、わざわざご苦労をおかけした、かたじけない」と言い、せっかくだからと大銭一枚づつを受け取った。そして朝廷に入り司空となったのである。
楊秉は朝廷にあって厳正剛直で知られた。河南の長官になったとき、宦官に逆らったとして罪を得たことがあったが後に太尉となって世を去った。陳蕃がその後をうけて太尉となった。ことあるごとに李膺を推挙して、司隷校尉とした。宦官たちは李膺を恐れ、頭を低くし、息をひそめて、宮中から外へ出ようとしなかった。当時朝廷の規律はゆるみきっていたが、李膺だけは教導、さばきを厳にし、名誉を重んじて自らを高く持していた。士人たちは李膺の知遇を得た者がいると登竜門を為した。と言った。


十八史略 枳棘は鸞鳳の栖む所に非ず

2011-09-01 13:16:19 | 十八史略
鉅鹿孟敏、荷甑墜地。不顧而去。泰見問之。曰、甑已破焉。視之何。泰亦勸令學。自餘因泰奨進、成名者甚衆。泰與有道不就。曰、吾夜觀乾象、晝察人事。天之所廢、不可支也。陳留仇香、名覽、年四十、爲蒲亭長、民有陳元。母告元不幸。香親到其家、爲陳人倫。感悟、卒爲孝子。考城令王奐、署香爲主簿。謂曰、陳元不罰而化之。得無少鷹鸇之志邪。香曰、以爲鷹鸇不若鸞鳳。奐曰、枳棘非鸞鳳所栖。百里非大賢之路。乃資香入太學。常自守。泰就房見之。起拝牀下曰、君泰之師也。不應徴辟而卒。

鉅鹿(きょろく)の孟敏、甑(そう)を荷(にな)うて地に墜(おと)す。顧(かえり)みずして去る。泰見て之を問う。曰く、甑已(すで)に破る。之を視るも何の益あらん、と。泰亦勧めて学ばしむ。自余泰の奨進に因って、名を成す者甚だ衆(おお)し。泰、有道に挙げられしも就かず。曰く、吾、夜は乾象(けんしょう)を観、昼は人事を察す。天の廃する所は、支う可からざるなり、と。
陳留の仇香(きゅうこう)名は覧、年四十にして、蒲亭(ほてい)の長と為る。民に陳元というもの有り。母、元が不孝を告ぐ。香、親(みずか)ら其の家に到り、為に人倫を陳(の)ぶ。感悟して卒(つい)に孝子と為る。
考城の令王奐(おうかん)、香を署して主簿と為す。謂って曰く、陳元、罰せずして之を化(か)す。鷹鸇(ようせん)の志を少(か)く無きを得んや、と。香曰く、以為(おも)えらく、鷹鸇は鸞鳳(らんぽう)に若(し)かず、と。奐曰く、枳棘は鸞鳳の栖(す)む所に非ず。百里は大賢の路に非ず、と。乃ち香に資して太学に入らしむ。常に自ら守る。泰、房に就いて之を見る。起って床下に拝して曰く、君は泰の師なり、と。徴辟(ちょうへき)に応ぜずして卒(しゅっ)す。


甑 瓦製の蒸し器。 自余 このほか。 有道 科挙の科目。 乾象 天体現象、乾坤は天地のこと。鷹鸇 鷹や隼。 鸞鳳 ともに想像上の鳥、鸞は鶏に似て羽は五色、声は宮・商・角・徴・羽の五音に合うという。 徴辟 朝廷に召されること

また鉅鹿の孟敏は、あるとき背負っていたこしきを落としたが、振り返りもせず立ち去った。郭泰がそれを見て訳を聞くと、「割れてしまったものを見ても何の足しにもならないでしょう」と答えた。それでこれも勧めて学ばせた。このほか郭泰が引き立てて名をなした者は非常に多かった。泰は嘗て有道の科に推挙されたが官には就かず、その訳を「私は夜は天文を観、昼は人を視ているが、天が見放したものは、人の力ではどうにもならないものだ」と言った。
陳留の仇香は、名を覧といい、四十のとき、蒲亭の邑長となった。そこに陳元という者がいた。その母が元の親不孝を訴えてきた。仇香はその家に赴き、元に、人の道を説いて聞かせたので、はっと悟って孝子となった。考城の県令王奐はそれを聞いて仇香を、主簿に取り立てたたが、「陳元を罰せず説いて化したのは、鷹や隼のような峻厳さには欠けるといえるかな」と評すると、仇香は「鷹や隼の勇猛さは、仁鳥の鸞や鳳には及ぶところではございません」と答えた。王奐は感服して、「からたちの枝は鸞や鳳の棲むところではないと聞く、百里四方のこの県は君のような大賢がいる場所ではない」と言って香に学資を出して太学に入れた。常に身を堅く守って慎み深かった。ある日郭泰が宿舎を訪れて会い、坐を起って香の床下にひざまずいて言った「貴公は私の師です」と。香もまた招聘には応ぜず世を去った。


武子(ねいぶし)

2011-08-30 10:33:58 | 十八史略

論語公冶長篇にある。紀元前七世紀、衛の名宰相武子が、道が行われているときは自分の考えを述べるが、道の行われていないときは、とぼけて愚を装ったという。孔子は「私は知者ぶりは真似ができるが、愚者ぶりは真似ができない」と語った。

子曰、武子、邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也、其愚不可及也。

子曰く、武子、邦に道あるときは則ち知。邦に道無きときは則ち愚。その知は及ぶ可きなり、その愚は及ぶべからざるなり

十八史略 愚及ぶ可からざる也

2011-08-30 10:09:02 | 十八史略

陳蕃薦處士徐穉・姜肱等。穉字孺子、豫章人。陳蕃爲守時、特設一榻以待穉去則縣之。穉不應諸公之辟。然聞其死、輒負笈赴弔。豫炙一鷄、以酒漬綿、暴乾裹之、到冢隧外、以水漬綿、白茆藉飯、以鷄置前。祭畢留謁、不見喪主而行。肱彭城人、與二弟仲海・季江倶孝友。常共被。嘗遇盗。兄弟爭死。盗兩釋之。穉・肱被徴。皆不至。黄璚卒、四方名士、會葬者七千人、穉至。進爵哀哭、置生芻墓前而去。諸名士曰、此必南州高士徐孺子也。使陳留茆容追之。問國事。不答、太原郭泰曰、孺子不答國事、是其愚不可及也。泰初游洛陽。李膺與爲友。膺嘗歸郷里。送車數千兩。膺惟與泰同舟而濟。衆賓望之者、如神仙焉。
容年四十餘、畊於野。遇雨避樹下。衆皆箕踞。容獨危坐愈恭。泰見而異之遂勸令學。

陳蕃(ちんばん)処士徐穉(じょち)・姜肱(きょうこう)らを薦(すす)む。穉、字は孺子(じゅし)、予章の人なり。陳蕃守たりし時、特に一榻(いっとう)を設けて穉を待つ。去れば則ち之を懸(か)く。穉、緒公の辟(めし)に応ぜず。然れども其の死を聞けば、輒(すなわ)ち笈(きゅう)を負うて赴き弔す。予(あらかじ)め一鶏を炙り、酒を以って綿に漬(ひた)し、暴乾(ばくかん)して之を裹(つつ)み、冢隧(ちょうすい)の外(ほとり)に到り、水を以って綿に漬し、白茆(はくぼう)を飯に藉(し)き、鶏を以って前に置く。祭り畢(おわ)って謁(えつ)を留め、喪主を見ずして行(さ)る。
肱(こう)は彭城(ほうじょう)の人なり。二弟仲海・季江倶(とも)に孝友なり。常に被(ひ)を共にす。嘗て盗に遇う。兄弟(けいてい)死を争う。盗両(ふた)りながら之を釈(ゆる)す。
穉・肱徴(め)さる。皆至らず。黄璚(こうけい)卒す。四方の名士、葬に会する者七千人。穉至る。爵を進めて哀哭(あいこく)し、生芻(せいすう)を墓前に置いて去る。諸名士曰く、此れ必ず南州の高士徐孺子ならん、と。陳留の茆容(ぼうよう)をして之を追わしむ。国事を問う。答えず。太原の郭泰(かくたい)曰く、孺子国事を答えざるは、是れ其の愚及ぶ可からざるなり。泰初め洛陽に游ぶ。李膺与(とも)に友たり。膺嘗て郷里に帰る。送車数千両。膺惟(ひと)り泰と舟を同じうして済(わた)る。衆賓之を望む者、神仙の如しという。
容、年四十余、野に畊(たがや)す。雨に遇うて樹下に避く。衆皆箕踞(ききょ)す。容、独り危坐して愈々恭(うやうや)し。泰、見て之を異とし、遂に勧めて学ばしむ。


処士 仕官していない人。 榻 しじ、腰掛けと寝台を兼ねたもの。 辟 招聘。 笈 背負い箱。 暴乾 日にさらす。 裹 つつむ。 冢隧 冢は墓、隧は墓の通路。 白茆 ちがや。 藉 敷く。 謁 名札、名刺。 孝友 親孝行で仲が良い。 被 ふとん。 進爵 盃を進める。 生芻 刈りたてのまぐさ。 愚及ぶ可からざるなり 孔子の言った言葉、別掲。 箕踞 あぐら。

陳蕃は在野の士、徐穉や姜肱らを推挙した。徐穉はあざなを孺子といい、予章の人である。陳蕃が太守であった時、特に腰かけを徐穉のために用意して迎え、帰ると壁に懸けて他人には座らせなかった。徐穉は諸侯からの招きに応じなかった。しかし、その人たちが死んだことを聞くと、笈を背に、駆けつけて弔った。まず鶏を一羽炙り、酒にひたして乾かした綿でそれを包み、墓穴のそばに来て、水で綿をひたして酒をもどし、茅(ちがや)を飯の下に敷き、鶏をその前に供えて弔った。まつり終わると、名札を置いて、喪主には会わずに立ち去った。
姜肱は彭城の人で、二人の弟、仲海と季江と共に親孝行で兄弟仲がよく、いつも一つ布団に寝ていた。あるとき盗賊に出会ったが、互いに自分を先に殺せと庇ったので、盗賊は見逃して立ち去ったことがあった。徐穉と姜肱は共に朝廷から召されたが、応じなかった。
黄璚が世を去った。各地の名士で会葬する者七千人に及んだ。徐穉も杯を進めて哀しみ哭し、刈りたてのまぐさを墓前に置いて立ち去った。名士たちは口々に「南州の高士徐孺子に違いない」と言って、陳留の茆容に後を追わせて国事について聞かせたが、何も答えなかった。太原の郭泰がこれを聞いて「孺子が何も語らなかったのは、孔子が言うところの及ぶ可からざる愚ということだ」と評した。泰は初めて洛陽に遊学したとき、李膺は郭泰を友として遇した。ある時、李膺が故郷に帰るとき、見送りの車が数千輌にのぼったが、李膺は郭泰だけを舟に伴って黄河を渡って行った。見送る人たちはこれを見て「まるで神仙のようだ」と感嘆した。
茆容は四十余りのころ、畑を耕していて雨に遇い、樹の下に避けていた。そのとき皆はあぐらをかいていたが、容だけは行儀よく正坐していた。郭泰はそれを見て、見込があると思い、勧めて学問をさせたのである。


十八史略 朱穆

2011-08-27 09:32:30 | 十八史略
朱穆爲冀州刺史。令長望風、解印去者數十人。及到奏劾貪汚。有宦者歸葬父用玉匣。穆案驗、剖其棺出之。上聞大怒、徴穆詣廷尉。太學生劉陶等數千人、上書訟穆。謂中官竊持國柄、手握王爵、口銜天憲。穆獨亢然不顧。竭心懐憂、爲上深計。臣願代穆罪。上赦之。陶又上疏、乞以穆及李膺輔王室。書奏不省。
梁冀凶恣日積。以外戚用事者二十年。威行内外、天子拱手而已。上與宦者單超等謀、勒兵収冀印綬。冀自殺。梁氏無少長皆棄市。超等五人皆侯。自冀誅、天下想望異政。黄璚首爲太尉。

朱穆(しゅぼく)、冀州(きしゅう)の刺史と為る。令長(れいちょう)、風(ふう)を望み、印を解いて去る者数十人。到るに及んで貪汚(たんお)を奏劾(そうがい)す。宦者父を帰葬(きそう)するに玉匣(ぎょっこう)を用うるもの有り。穆、案験(あんけん)して、その棺を剖(ひら)いて之を出す。上(しょう)聞いて大いに怒り、穆を徴(め)して廷尉に詣(いた)らしむ。太学生劉陶等数千人、上書して穆を訟(うった)う。謂(いわ)く中官国柄(こくへい)を竊持(せつじ)し、手に王爵を握り、口に天憲を銜(ふく)む。穆独り亢然として顧みず。心を竭(つく)し憂いを懐き、上の為に深く計る。臣、願わくは穆が罪に代らん、と。上之を赦す。陶、又上疏(じょうそ)して、穆及び李膺(りよう)を以って王室を輔(たす)けんと乞う。書、奏すれども省せず。
梁冀、凶恣(きょうし)日に積む。外戚を以って事を用うる者(こと)二十年。威内外に行われ、天子手を拱(きょう)するのみ。上、宦者單超(ぜんちょう)等と謀り、兵を勒(ろく)して冀が印綬を収む。冀自殺す。梁氏少長と無く皆棄市せらる。超等五人皆侯たり。冀の誅より天下、異政を想望す。黄璚(こうけい)首として太尉と為る。


令長 県令、邑長。 望風 評判を知る。 貪汚 欲深くきたないこと。 奏劾 罪状を奏上すること。 玉匣 玉片を綴り合わせて遺体を覆う葬服、王侯のみに許されたもの。 案験 取り調べ、吟味。 中官 宮中の宦官。 国柄 国家統治の権。 竊持 ぬすみ持つ。天憲 天子の法令。 亢然 昂然に同じ、意気さかんなさま。 上疏 事情を記して奉ること、上書。 省せず つまびらかにしない。 凶恣 凶悪な行いをほしいままにすること。 拱手 腕組みをする、何もしないこと。 勒 勒兵、軍隊を統御すること。 太尉 三公の一、軍事長官。

朱穆が冀州の刺史となった。それを聞くと県令や邑長で自ら辞めて逃げ去る者が数十人に及んだ。着任して直ちに汚職まみれの官吏どもを弾劾する上奏文を奉った。ある宦官が、その父を郷里に埋葬する際、天子の礼である、玉をちりばめた葬服を用いた者があった。朱穆はこれを取り調べ、墓をあばいて取り出させた。帝はそれを聞いて大いに怒り、朱穆を呼び戻して廷尉に引き渡した。太学生の劉陶等数千人が、帝に上書して穆の無実を訴えて「宦官が国家の権力を盗み取り、手には爵位与奪の権を握り、口には天子の法令を銜えている。朱穆だけは昂然としてわが身を顧みず、心底これを憂い、陛下の為に深く考えているのです。どうか私を代りに罰してください」と嘆願した。桓帝はそれで朱穆を赦した。劉陶はまた上書して朱穆と李膺の二人を王室の補佐役にされたいと願い出たが、何の音沙汰もなかった。
梁冀の凶悪専横は日ごとに増してきた。外戚であることを利用して政権を専らにすること二十年におよび、威は朝廷の内外に行われたが、桓帝はただ手をこまねいているだけであったが、たまりかねて宦官の單超と謀り、急遽兵を整えて、冀の大将軍の印綬を取り上げた。そこで冀は自殺し、梁一門は老若を問わず、すべて獄門にさらされた。單超ら五人が諸侯となった。冀が誅せられてから、人々は新しい政治を待望した、まず最初に黄璚が太尉となった。