自黄璚以來、三公如楊秉・劉寵、皆人望。寵嘗守會稽。郡大治。被徴。有五六老叟。自山谷出、人賷百錢送之曰、明府下車以來、狗不夜吠。民不見吏。今聞、當見棄去。故自扶奉送。寵曰、吾政何能及公言邪。勤苦父老。爲人選一大錢受之。後入司空。秉立朝正直。爲河南尹。時嘗以仵宦官得罪。後爲太尉、以卒。陳蕃繼秉爲太尉。數言李膺、以爲司隷校尉。宦官畏之。皆鞠躬屏氣不敢出宮省。時朝廷綱紀頽弛。膺獨持風裁、以聲名自尚。士有被其容接者、名爲登龍門云。
黄璚(こうけい)より以来、三公楊秉(ようへい)・劉寵(りゅうちょう)の如き、皆人望有り。寵、嘗て会稽に守(しゅ)たり。郡大いに治まる。徴(め)さる。五六の老叟(ろうそう)有り。山谷(さんこく)の間より出で、人ごとに百銭を賷(もたら)して之を送って曰く、明府(めいふ)車を下(くだ)って以来、狗、夜吠えず。民、吏を見ず。今聞く、当(まさ)に棄て去らるべし、と。故に自ら扶(たす)けて奉送す、と。寵曰く、吾が政何ぞ能く公の言に及ばんや、父老に勤苦す、と。為に人ごとに一大銭を選んで之を受く。後入って司空と為る。秉、朝(ちょう)に立って正直(せいちょく)なり。河南の尹(いん)と為る。時に嘗て宦官に仵(さか)らうを以って罪を得たり。後、太尉と為り、以って卒(しゅっ)す。陳蕃(ちんばん)、秉に継いで太尉と為る。数しば李膺(りよう)を言い、以って司隷校尉と為す。宦官之を畏(おそ)る。皆鞠躬(きくきゅう)気を屏(しりぞ)けて、敢えて宮省を出でず。時に朝廷綱紀頽弛(たいし)す。膺独り風裁を持し、声名を以って自ら尚(とうと)ぶ。士其の容接(ようせつ)を被る者有れば、名づけて登竜門と為すと云う。
三公 太尉、司徒、司空。 明府 太守。 賷 贈る、齎に同じ。 自ら扶けて 杖を突いて。 正直 厳正剛直。 鞠躬 身をひそめ、つつしむ。 風裁 教化や法律で人々を正しく導くこと。風は教え裁はさばき。 容接 近づきになる。 登竜門 竜門と名づけられた急流を登りきった魚は竜になれるとされ、そこから栄達する入り口にたとえられた。
黄璚が太尉になって以来、三公に任じられた楊秉(ようへい)・劉寵(りゅうちょう)といった人たちは、皆人望があった。劉寵は、嘗て会稽の太守であったが、郡内がよく治まった。朝廷に召されたとき、五六人の老人が山の谷間から出てきて、それぞれ百銭を餞別として贈って言った「名君のあなたさまが着任されてから、夜に犬が吠えかかることがなくなり、取り立ての役人の姿を民が見かけることもなくなりました。今度あなたさまがこの地をあとにして都に帰られると聞き、こうして杖をついて見送りにやって来ました」劉寵は「私の政治があなたがたの言われるような立派なものではない。ご老人たち、わざわざご苦労をおかけした、かたじけない」と言い、せっかくだからと大銭一枚づつを受け取った。そして朝廷に入り司空となったのである。
楊秉は朝廷にあって厳正剛直で知られた。河南の長官になったとき、宦官に逆らったとして罪を得たことがあったが後に太尉となって世を去った。陳蕃がその後をうけて太尉となった。ことあるごとに李膺を推挙して、司隷校尉とした。宦官たちは李膺を恐れ、頭を低くし、息をひそめて、宮中から外へ出ようとしなかった。当時朝廷の規律はゆるみきっていたが、李膺だけは教導、さばきを厳にし、名誉を重んじて自らを高く持していた。士人たちは李膺の知遇を得た者がいると登竜門を為した。と言った。
黄璚(こうけい)より以来、三公楊秉(ようへい)・劉寵(りゅうちょう)の如き、皆人望有り。寵、嘗て会稽に守(しゅ)たり。郡大いに治まる。徴(め)さる。五六の老叟(ろうそう)有り。山谷(さんこく)の間より出で、人ごとに百銭を賷(もたら)して之を送って曰く、明府(めいふ)車を下(くだ)って以来、狗、夜吠えず。民、吏を見ず。今聞く、当(まさ)に棄て去らるべし、と。故に自ら扶(たす)けて奉送す、と。寵曰く、吾が政何ぞ能く公の言に及ばんや、父老に勤苦す、と。為に人ごとに一大銭を選んで之を受く。後入って司空と為る。秉、朝(ちょう)に立って正直(せいちょく)なり。河南の尹(いん)と為る。時に嘗て宦官に仵(さか)らうを以って罪を得たり。後、太尉と為り、以って卒(しゅっ)す。陳蕃(ちんばん)、秉に継いで太尉と為る。数しば李膺(りよう)を言い、以って司隷校尉と為す。宦官之を畏(おそ)る。皆鞠躬(きくきゅう)気を屏(しりぞ)けて、敢えて宮省を出でず。時に朝廷綱紀頽弛(たいし)す。膺独り風裁を持し、声名を以って自ら尚(とうと)ぶ。士其の容接(ようせつ)を被る者有れば、名づけて登竜門と為すと云う。
三公 太尉、司徒、司空。 明府 太守。 賷 贈る、齎に同じ。 自ら扶けて 杖を突いて。 正直 厳正剛直。 鞠躬 身をひそめ、つつしむ。 風裁 教化や法律で人々を正しく導くこと。風は教え裁はさばき。 容接 近づきになる。 登竜門 竜門と名づけられた急流を登りきった魚は竜になれるとされ、そこから栄達する入り口にたとえられた。
黄璚が太尉になって以来、三公に任じられた楊秉(ようへい)・劉寵(りゅうちょう)といった人たちは、皆人望があった。劉寵は、嘗て会稽の太守であったが、郡内がよく治まった。朝廷に召されたとき、五六人の老人が山の谷間から出てきて、それぞれ百銭を餞別として贈って言った「名君のあなたさまが着任されてから、夜に犬が吠えかかることがなくなり、取り立ての役人の姿を民が見かけることもなくなりました。今度あなたさまがこの地をあとにして都に帰られると聞き、こうして杖をついて見送りにやって来ました」劉寵は「私の政治があなたがたの言われるような立派なものではない。ご老人たち、わざわざご苦労をおかけした、かたじけない」と言い、せっかくだからと大銭一枚づつを受け取った。そして朝廷に入り司空となったのである。
楊秉は朝廷にあって厳正剛直で知られた。河南の長官になったとき、宦官に逆らったとして罪を得たことがあったが後に太尉となって世を去った。陳蕃がその後をうけて太尉となった。ことあるごとに李膺を推挙して、司隷校尉とした。宦官たちは李膺を恐れ、頭を低くし、息をひそめて、宮中から外へ出ようとしなかった。当時朝廷の規律はゆるみきっていたが、李膺だけは教導、さばきを厳にし、名誉を重んじて自らを高く持していた。士人たちは李膺の知遇を得た者がいると登竜門を為した。と言った。