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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 劉備と孫策。

2011-10-04 10:36:06 | 十八史略
涿郡劉備、字玄、其先出於景帝。中山靖王勝之後也。有大志。少語言、喜怒不形於色。河東關羽、涿郡張飛、與備相善。備起。二人從之。
孫堅之子策、與弟權留富春。遷于舒。堅死、策年十七。往見袁術。得其父餘兵。策十餘歳時、已交結知名。舒人周瑜、與策同年。亦英達夙成。至是從策起。策東渡江轉鬭、所向無敢當其鋒者。百姓聞孫郎至、皆失魂魄。所至一無所犯。民皆大悦。

涿郡(たくぐん)の劉備、字は玄、其の先(せん)は景帝より出ず。中山靖王(ちゅうざんせいおう)勝の後(のち)なり。大志有り。語言(ごげん)少なく、喜怒、色に形(あら)わさず。河東の関羽、涿郡の張飛、備と相善(よ)し。備起こる。二人(ににん)之に従う。
孫堅の子策、弟権と富春に留まる。舒(じょ)に遷(うつ)る。堅死するとき、策年十七。往(ゆ)いて袁術に見(まみ)ゆ。其の父の余兵を得たり。策十余歳の時、すでに交結(こうけつ)して名を知らる。舒人(じょひと)周瑜(しゅうゆ)、策と同年なり。亦英達(えいたつ)夙成(しゅくせい)なり。是(ここ)に至って策に従って起こる。策、東のかた江を渡って転闘し、向う所敢えて其の鋒(ほこ)に当る者無し。百姓(ひゃくせい)、孫郎至ると聞き、皆魂魄を失う。至る所一も犯す所無し。民皆大いに悦(よろこ)ぶ。

交結 まじわる。 夙成 若くして学業などができあがっていること、早熟。

涿郡(河北省)の劉備、字は玄徳、先祖は景帝の第六子の中山靖王勝の後裔である。かねてから大志を抱き、寡黙にして感情を顔にださなかった。
河東(山西省南部)の関羽、涿郡の張飛が劉備と親交があり、兵を挙げると二人はこれに加わった。
孫堅の子孫策は弟の孫権と富春県(浙江省)に留まり、後に舒州(山東省)に移った。孫堅が死んだとき孫策は十七歳であったが、袁術に会って父の残兵を受け継いだ。十歳余りの時にすでに豪傑たちと交わりを結び、名を知られていた。
舒州の人周瑜も孫策と同年でやはり早くから英才を謳われていたが、ここに至って孫策のもとに馳せ参じた。東を目指し揚子江を渡って転戦したが、鋒の前に立ち向かう者はなかった。人びとは孫策が来ると聞くと、みな震え上がったが、いよいよ来てみると掠奪も一切無かったので、大いに喜んだ。

十八史略 袁紹・孫堅・袁術挙兵す

2011-09-29 10:14:48 | 十八史略

孝獻皇帝名協、九歳爲董卓所立。關東州郡、起兵討卓、推袁紹爲盟主。卓焼洛陽宮廟、遷都長安。長沙太守富春孫堅、起兵討卓。至南陽。衆數萬、與袁術合兵。術與紹同祖。皆故太尉袁安之玄孫也。袁氏四世五公、富貴異於佗公族。紹壯健有威容、愛士。士輻湊。術亦俠氣。至是皆起。堅撃敗卓兵。術遺堅圖荊州。爲劉表將黄祖歩兵所射死。

孝献皇帝、名は協、九歳にして董卓の立つ所と為る。関東の州郡、兵を起こして卓を討ち、袁紹(えんしょう)を推(お)して盟主と為す。卓、洛陽の宮廟(きゅうびょう)を焼き、都を長安に遷(うつ)す。長沙の太守富春の孫堅(そんけん)、兵を起こして卓を討つ。南陽に至る。衆(しゅう)数万、袁術(えんじゅつ)と兵を合(がっ)す。術は紹と同祖なり。皆、故(もと)の太尉袁安の玄孫なり。袁氏、四世五公、富貴、佗(た)の公族に異なり。紹、壮健にして威容あり、士を愛す。士輻湊(ふくそう)す。術も亦侠気あり。是(ここ)に至って皆起こる。堅撃って卓の兵を敗る。術、堅をして荊州を図らしむ。劉表の将黄祖(こうそ)の歩兵の射る所と為って死す。

盟主 同盟の主宰者。 四世五公 四代で五人も三公を輩出した。 佗 他に同じ。 輻湊 八方から集まること。輻は車輪のスポーク、や。湊は集まる。

孝献皇帝は名を協といい、九歳で董卓に立てられて帝位に即いた。董卓の暴虐を憎み、函谷関から東の州郡が兵を起こして董卓を攻めた。袁紹を主宰に推し立てた。董卓は洛陽の宮殿や宗廟を焼き払い、長安に遷都した。
長沙の太守で富春の孫堅も董卓討伐の兵を挙げ、南陽に着いた。兵力は数万、袁術の軍と連合した。袁術と袁紹は先祖が同じでかつての太尉袁安の曾孫である。袁氏は四代の間に五人も三公の位にあり、その富貴なことは、他の三公の家を凌いでいた。袁紹は身体が壮健で威厳があり、部下を重んじたので、天下の士が皆袁紹のもとに集まって来た。袁術も侠気に富んでいたので、このときとばかりに一斉に兵を起こした。孫堅が先ず董卓の軍を破った。袁術は孫堅に荊州を攻略させたが、劉表の将で黄祖の歩兵に射られて孫堅は死んだ。


十八史略 董卓少帝を廃す

2011-09-27 08:31:38 | 十八史略
上崩。在位二十二年、改元者四、曰建寧・熹平・光和・中平、子辨立。何太后臨朝。后兄大將軍何進、録尚書事。袁紹勸進誅宦官。太后未肯。紹等畫策、召四方猛將、引兵向京、以脅太后、遂召將軍董卓之兵。卓未至。進爲宦官所殺。紹勒兵捕諸宦官、無少長皆殺之。凡二千餘人。有無鬚而誤死者。卓至問亂由。辨年十四、語不可了。陳留王答無遺。卓欲廢立。紹不可。卓怒。紹出奔。卓遂廢辨。陳留王立。是爲孝獻皇帝。

上(しょう)崩ず。在位二十二年、改元する者(こと)四、建寧(けんねい)・熹平(きへい)・光和・中平と曰う。子の弁立つ。何太后朝に臨む。后の兄大将軍何進(かしん)、録尚書事となる。袁紹(えんしょう)、進に宦官を誅せよと勧む。太后未だ肯(がえ)んぜず。紹等画策し、四方の猛将を召し、兵を引いて京(けい)に向かい、以って太后を脅かし、遂に将軍董卓(とうたく)の兵を召す。卓未だ至らず。進、宦官の殺す所と為る。紹、兵を勒(ろく)して諸々の宦官を捕え、少長と無く皆之を殺す。凡そ二千余人なり。鬚(ひげ)無くして誤って死する者有り。卓至って乱の由(よし)を問う。弁年十四、語了す可からず。陳留王、答えて遺(のこ)す無し。卓、廃立せんと欲す。紹、可(き)かず。卓怒る。紹出奔す。卓遂に弁を廃す。陳留王立つ。是を孝献皇帝と為す。
録尚書事 尚書の事を録す、文書の事をつかさどる尚書を総監する。高官が兼任した。

霊帝が崩じた(189年)。在位二十二年で改元すること四回、建寧・熹平・光和・中平という。子の弁が位に即いた。何太后が朝に臨んで、政治を執り、太后の兄の大将軍何進が録尚書事になった。司隷校尉の袁紹が宦官を誅殺すべし、と何進に勧めたが、太后が承知しなかった。そこで袁紹たちは画策して、各地の勇猛な将を招集し、兵を率いて洛陽に向わせて太后を脅かした。そしてついに将軍董卓の軍を呼び寄せた。だが董卓の軍が洛陽に到着する前に、何進が宦官に謀殺された。袁紹は兵を指揮して宦官を捕え、老若を問わずことごとく殺してしまった。その数二千人余り、中には鬚がないため誤って殺された者もあった。やがて董卓が到着して、動乱の訳を尋ねたが、弁は年が十四であったが、要領を得なかった。弟の陳留王が逐一答えて遺漏がなかった。董卓は帝を廃位にして陳留王を立てようとしたが袁紹が承知しなかった。董卓は怒り、袁紹は洛陽を去った。董卓は遂に弁を廃位し、陳留王を即位させた。これが孝献皇帝である。

十八史略 銅臭を嫌うのみ

2011-09-22 08:59:09 | 十八史略
詔諸儒正五經文字。命蔡邕爲古文・篆・隷三體、書之刻石、立太學門外。
上好文學、引諸生能文賦者、竝待制鴻都門下。置立太學。諸生皆斗筲小人、君子恥之。
開西邸賣官。各有賈。崔烈以五百萬得司徒。問其子以外議何如。子曰、人嫌其銅臭耳。

諸儒に詔(みことのり)して五経の文字を正さしむ。蔡邕(さいよう)に命じて 古文・篆(てん)・隷(れい)三体を為(つく)らしめ、之を書して石に刻し、太學の門外に立つ。
上(しょう)文学を好み、諸生の文賦(ぶんふ)を能くする者を引いて、並びに鴻都(こうと)門下に待制(たいせい)せしむ。太学を置立(ちりつ)す。諸生皆斗筲(とそう)の小人にして、君子之を恥づ。
西邸を開いて官を売る。各々賈(あたい)有り。崔烈(さいれつ)五百萬を以って司徒を得たり。其の子に問うに外議(がいぎ)如何を以ってす。子(こ)曰く、人其の銅臭を嫌うのみと。


五経 易・書・詩・礼・春秋。 古文 蝌蚪(かと)文字、竹簡に漆で書いたので、おたまじゃくし(蝌蚪)に似ていたから。 篆・隷 書体。 鴻都門 洛陽の門の名、中に太学があった。 待制 みことのりが下るのを待つ、唐代には官名になった。 斗筲 穀物をはかる枡、筲は一斗二升、器量の小さいひと。あるいは枡で計ってばかりいる収奪に熱心なこと。 外議 世評。 銅臭 財貨を貴び財貨によって立身する者を卑しむ言葉。 

霊帝は儒者たちに詔勅を下して五経を校訂させ、蔡邕に命じて、古文・篆書・隷書の三種の字体で書かせて石に刻み、太学の門内に立てた。
帝は学問を好み学生のなかで文章や詩賦に秀でた者を呼び、鴻都門の中で召し出しを待たせることにし、そこに太学を設置した。しかし呼ばれた学生は皆器量の小さい者ばかりで、高徳の士は同列にみられるのを恥じた。
霊帝は西園に邸を設けて官爵を売った。それぞれの官位に値がつけられていた。崔烈は五百万銭で司徒の官を買った。そしてその子に世間の評判を聞くと、子は「みな銭くさいと嫌っているだけですよ」と答えた。


十八史略 李・杜と名を斉しうするを得

2011-09-20 12:00:14 | 十八史略
曹節諷有司、奏諸鈎黨。膺詣詔獄孝死。滂就捕。母與訣曰、汝今得與李杜齊名。死亦何憾。滂跪受教、再拝而辭。顧其子曰、使汝爲惡、惡不可爲。使汝爲善、我不爲惡。聞者爲之流涕。黨人死者百人、其死徙廢錮者、又六七百人。郭泰私痛曰、詩云、人之云亡、邦國殄瘁。漢室滅矣。但未知瞻烏爰止、于誰之屋耳。泰雖好臧否、而不爲危言覈論。故處濁世、而禍不及焉。

曹節、有司(ゆうし)に諷して、諸鈎党(こうとう)を奏せしむ。膺(よう)、詔獄(しょうごく)に詣(いた)って孝死(こうし)す。滂(ぼう)、捕に就(つ)く。母与(とも)に訣(けっ)して曰く、「汝、今李・杜と名を斉(ひと)しうするを得(う)。死するも亦何ぞ憾(うら)みん」と。滂、跪(ひざまづ)いて教えを受け、再拝して辞す。其の子を顧みて曰く、「汝をして悪を為さしめんとするも、悪は為す可からず。汝をして善を為さしめんとすれば、我悪を為さず」と。聞く者之が為に流涕す。党人死する者百人、其の死徙(しし)廃錮(はいこ)せらるる者、又六七百人なり。郭泰私(ひそ)かに痛んで曰く、詩に云(い)う、人の云(ここ)に亡ぶる、邦国殄瘁(てんすい)すと。漢室滅びん。但(ただ)未だ烏(からす)を瞻(み)るに爰(ここ)に止まる、誰(た)が屋(おく)に于(お)いてするかを知らざるのみ」と。泰好んで臧否(ぞうひ)すと雖も、而(しか)も危言覈論(かくろん)を為さず。故に濁世に処して、而も禍い及ばず。

有司 役人。 諷して ほのめかして。 鈎党 たがいに繋がり合った党。 詔獄 天子の詔によって開かれた裁判。 詣 いたる。 孝死 拷問による死。 訣 別れ。 李・杜 李膺・杜密。 死徙 獄死と流刑、徒は別字。 廃錮 官職追放。 殄瘁 殄(た)え瘁(やむ)、疲弊する。 瞻烏 烏は覇権、瞻は仰ぎ見る。 臧否 是非善悪。 危言 穏やかな言葉を選ぶこと。 覈論 評論。

宦官の曹節は役人にほのめかして、党人同士の繋がりを奏上させた。李膺は投獄され拷問のすえ殺された。范滂も捕えられた。母は別れに臨んで「これでお前は李膺さま・杜密さまと同じ名誉を受けることができたのですから恨みません」と言った。范滂は跪いて教えを受け、再拝して別れを告げると、我が子に向って「お前をこのような目に遭わせぬために正義を棄てさせようとも思ったが、悪事はやはりしてはならぬことだ。お前を善にとどまらせるためにも、私は悪と決別した」と言うと、聞く者は皆、涙を流した。このとき、党人で殺された者は百人に及び、死んだり流されたり、官職を追われた者が六七百人に達した。
郭泰はひそかに悲しみ嘆き、「詩経にこうある(人のここに滅ぶ、邦国つかれる殄え瘁む)と。漢室は滅亡するであろう、ただ、(烏をみるにここに止まる。誰が屋においてするか)と。それがまだわからないだけだ」郭泰は事の善悪を批評したが、言葉を慎重に選んで過激な発言をしなかったので、乱世に身を置きながら禍いを被ることがなかった。