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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 将軍と呉に会猟せん

2011-10-15 11:02:09 | 十八史略

曹操撃劉表。表卒。子擧荊州降操。劉備奔江陵。操追之。備走夏口。操進軍江陵、遂東下。亮謂備曰、請求救於孫將軍。亮見權説之。權大悦。操遣權書曰、今治水軍八十萬衆、與將軍會獵於呉。權以示羣下。莫不失色。張昭請迎之。魯肅以爲不可、勸權召周瑜。瑜至。曰、請得數萬精兵、進往夏口、保爲將軍破之。權抜刀斫前奏案曰、諸將吏敢言迎操者、與此案同。遂以瑜督三萬人、與備并力逆操、進遇於赤壁。

曹操、劉表を撃つ。表卒す。子(そう)、荊州を挙げて操に降る。劉備江陵に奔(はし)る。操之を追う。備、夏口に走る。操、軍を江陵に進め、遂に東に下る。亮、備に謂って曰く、「請う救いを孫将軍に求めん」と。亮、権に見(まみ)えて之に説く。権大いに悦ぶ。操、権に書を遣(おく)って曰く、「今水軍八十万衆を治め、将軍と呉に会猟(かいりょう)せん」と。権、以って群下に示す、色を失わざるもの莫(な)し。張昭之を迎えんと請う。魯肅以って不可と為し、権に勧めて周瑜を召さしむ。瑜至る。曰く、「請う数万の精兵を得て、進んで夏口に往き、保(ほ)して将軍の為に之を破らん」と。権、刀を抜いて前の奏案を斫(き)って曰く、「諸将吏敢えて操を迎えんと言う者は、此の案と同じからん」と。遂に瑜を以って三万人を督(とく)せしめ、備と力を併せて操を逆(むか)え、進んで赤壁に遇う。

江陵 湖北省江陵県。 夏口 湖北省武昌城の西。 治め 統率する。 会猟共に狩をすることだが、暗に決戦を挑むこと。 保 請合う。 奏案 上奏文を読む机。 

曹操が劉表を攻撃した。前後して劉表が死に、子のが荊州をすべて献じて曹操に降った。劉備は江陵に逃れたが、曹操が追撃してきたので、さらに夏口に逃れた。曹操は軍を江陵に進め、さらに揚子江を下って東に向かった。諸葛亮は劉備に呉の孫権に救援を求めるよう勧め、自ら孫権のもとに赴いて同盟を説くと、孫権は大いに喜んだ。ところが曹操から「わが水軍八十万を率いて呉の地に赴き、孫将軍と狩りをしたいと思うが、いかがであろうか」と恫喝にもとれる書が届いた。孫権はこれを諸将に見せると皆畏れて顔色を変えた。張昭がまず曹操を迎えて降るよう説いたが魯粛がひとり反対を称え、周瑜を召して意見を聞くよう勧めた。周瑜は伺候すると「私に数万の精兵をお貸しください。夏口まで出陣して必ずや曹操を打ち破ってごらんにいれます」と請け合った。孫権は刀を抜いて机ごと断ち切って「今後曹操を迎えて降ろうなどと言う者がいたらこの机と同じになると思え」と言った。かくて周瑜に三万の兵を統率させ、劉備とともに曹操を迎え撃たせた。両軍は進んで赤壁の地で曹操の軍とあいまみえた。

十八史略 三顧の礼。水魚の交わり。

2011-10-13 09:43:35 | 十八史略

瑯琊諸葛亮、寓居襄陽隆中。毎自比管仲・樂毅。備訪士於司馬徽。徽曰、識時務者在俊傑。此自有伏龍・鳳雛。諸葛孔明・龐士元也。徐庶亦謂備曰、諸葛孔明臥龍也。備三往乃得見亮、問策。亮曰、操擁百萬之衆。挾天子令諸侯。此誠不可與爭鋒。孫權據有江東、國險而民附。可與爲援、而不可圖。荊州用武之國、州險塞、沃野千里。天府之土。若跨有荊・、保其巖阻、天下有變、荊州之軍向宛・洛、州之衆出秦川、孰不箪食壺漿、以迎將軍乎。備曰、善。與亮情好日密。曰、孤之有孔明、猶魚之有水也。士元名統、龐公從子也。公素有重名。亮毎至其家、獨拝床下。

瑯琊(ろうや)の諸葛亮(しょかつりょう)、襄陽の隆中に寓居(ぐうきょ)す。毎(つね)に自ら管仲・楽毅に比す。備、士を司馬徽(しばき)に訪(と)う。徽曰く、「時務(じむ)を識る者は俊傑に在り。此の間自ら伏龍(ふくりょう)・鳳雛(ほうすう)有り。諸葛孔明・龐士元(ほうしげん)なり」と。徐庶(じょしょ)も亦備に謂って曰く、「諸葛孔明は臥龍なり」と。備、三たび往いて乃ち亮を見るを得、策を問う。亮曰く、「操、百万の衆を擁し、天子を挟(さしはさ)んで諸侯に令す。此れ誠に与(とも)に鋒(ほこ)を争う可からず。孫権、江東に拠有(きょゆう)し、国険にして民附く。与に援(えん)と為す可くして、図る可からず。荊州は武を用うるの国、益州は険塞(けんそく)、沃野千里。天府(てんぷ)の土なり。若し荊・益を跨有(こゆう)し、其の巌阻(がんそ)を保ち、天下変有らば、荊州の軍は宛(えん)・洛に向かい、益州の衆は秦川(しんせん)に出でば、孰(たれ)か箪食壺漿(たんしこしょう)して、以って将軍を迎えざらんや」と。備曰く、「善し」と。亮と情好(じょうこう)日に密なり。曰く、「孤(こ)の孔明あるは、猶魚の水有るがごとし」と。
士元、名は統、龐徳公(ほうとくこう)の従子なり。徳公素(もと)より重名(じゅうめい)有り。亮其の家に至る毎に、独り床下に拝す。


瑯琊 山東省南部の地名。 襄陽の隆中 湖北省襄陽県の隆中山。 管仲 春秋時代斉の宰相。楽毅 戦国時代の燕の将軍。 時務 当世の急務。 三たび往いて 三顧の礼。 図る 画策する。 天府 天然の庫、豊かな土地。 跨有 領有。 箪食壺漿 飲食物、箪食は竹の器に入れた飯、壺漿は壺に入れた飲み物。 魚の水あるが如し 水魚の交わり。 従子 甥。 

瑯琊の人諸葛亮は襄陽の隆中山に寓居し、つねづね管仲、楽毅になぞらえていた。ある時、劉備は司馬徽に当代の傑物を尋ねた。すると「時局の急務を認識している者は俊傑といえるだろうが、中でも伏龍、鳳雛と言われる大人物がいる。それが諸葛孔明と龐士元だよ」と答えた。徐庶からも「諸葛亮は臥龍なり」と聞かされていた。そこで劉備は三度亮を訪ねてやっと会うことができた。劉備が天下経略の策を問うと、「曹操は百万の兵を擁し、天子を奉じて諸侯に号令しています。決して兵を交えてはいけません。孫権は江東を根城にして、その地は険阻で人民もよくなついています。共に援けあうべきであって、策略を用いて事をかまえるべきではありません。この荊州は武略を用いるのに適した国であり、益州は険阻な要害に恵まれ、そのうえ肥沃の野が続くまさに天恵の宝ともいうべき地であります。この二州を領有し、嶮しい地勢に守られつつ、天下の大事にあたって荊州の軍は宛から洛陽に向け、益州の軍隊は、秦川に撃って出れば、誰もが食物と飲み物を用意して将軍を迎えるに違いありません」と答えた。劉備はこれは良いと喜び、以後日増しに親密になってゆき、「自分にとって孔明はなお魚に水があるようなものだ」と言うようになった。
龐士元は名を統といい、龐徳公の甥である。公は平素から評判の高い人物であった。諸葛亮がその家に行くたびに、自分だけは床下から拝礼した。


十八史略 髀肉の歎

2011-10-11 10:36:32 | 十八史略
老のまさに至らんとするに、功業建たず
車騎將軍董承、稱受密詔、與劉備誅曹操。操一日從容謂備曰、今天下英雄、唯使君與操耳。備方食。失匕筯。値雷震詭曰、聖人云、迅雷風烈必變。良有以也。備既被遣邀袁術。因之徐州。起兵討操。操撃之。備先奔冀州。領兵至汝南。自汝南奔荊州。歸劉表。嘗於表坐。起至厠。還慨然流涕。表怪問之。備曰、常時身不離鞍。髀肉皆消。今不復騎。髀裏肉生。日月如流、老將至、功業不建。是以悲耳。

車騎将軍董承(とうしょう)、密詔を受くと称し、劉備と曹操を誅せんとす。操一日従容として備に謂って曰く、「今天下の英雄は唯使君(しくん)と操とのみ」と。備方(まさ)に食す。匕筯(ひちょ)を失っす。雷震に値(あ)って詭(いつわ)って曰く、「聖人云う、迅雷風烈には必ず変ず、と。良(まこと)に以(ゆえ)有り」と。
備既に遣(つか)わされて袁術を邀(むか)う。因(よ)って徐州に之(ゆ)き、兵を起こして操を討つ。操之を撃(う)つ。備先づ冀州(きしゅう)に奔(はし)る。兵を領して汝南に至る。汝南より荊州(けいしゅう)に奔り、劉表に帰す。嘗て表の坐に於いて、起って厠に至る。還って慨然として涕(なみだ)を流す。表怪しみて之を問う。備曰く「常時身鞍を離れず、髀肉(ひにく)皆消す。今復た騎(の)らず。髀肉生ず。日月流るるが如く、老の将(まさ)に至らんとするに、功業建たず。是を以って悲しむのみ」と。


使君 州の長官である刺史あるいは郡の長官の太守の尊称。 匕筯 匙と箸。値 あう、遭に同じ。 聖人 孔子。 迅雷風烈には・・論語郷党篇にある。
良 まことに。 髀肉 ももの肉。
 

車騎将軍の董承が、献帝から内密の詔を受けたとして、劉備と謀って曹操を討とうとした。ある日曹操は悠揚として劉備に語りかけた「さしあたって今、英雄といえるのは貴君とこの操だけであろうな」と。ちょうど食事中の劉備ははっとして箸を取り落とした。そのとき雷鳴が轟いたので、「あの孔子さまでさえ雷や烈しい風には顔色を変えたと言われますが、まことにもっともであります」ととりつくろった。
やがて劉備は袁術を迎え撃つために派遣されることになった。それを機に徐州に行き、そこで曹操討伐の兵を挙げた。曹操はこれを撃ち破り、劉備はまず冀州に逃れ、兵をまとめて汝南郡に行き、汝南から荊州に逃げ、劉表のもとに身を寄せた。ある日、劉表と同坐していたとき、厠に立ったが、帰ってくると嘆き悲しみ、涙を流したので、劉表はいぶかって訳を聞くと、劉備が答えた。「これまでは戦場に在って鞍から身を離すことがなく腿の肉はそげ落ちていましたが、このところ馬に乗る機会が無くなって、腿に肉が付いてきました。月日の経つのは早いもので、老いが迫っているというのに未だ功業が立ちません。それが悲しいのです」と。


十八史略 孫策、袁紹、袁術死す

2011-10-08 14:41:24 | 十八史略
袁術初據南陽。已而據壽春。以讖言代漢者當塗高、自云、名字應之。遂稱帝。淫侈甚。既而資實空虛。不能自立。欲奔袁紹。操遣劉備邀之。術走還、歐血死。
孫策既定江東、欲襲許。未發。故所殺呉郡守許貢之奴、因其出獵、伏而射之。創甚。呼弟權代領其衆曰、擧江東之衆、決機於兩陣之、與天下爭衡、卿不如我。任賢使能、各盡其心以保江東、我不如卿。卒。年二十六。
袁紹據冀州。簡精兵十萬、騎一萬、欲攻許。沮授諌曰、曹操奉天子以令天下。今擧兵南向、於義則違。竊爲公懼之。紹不聽。操與紹相拒於官渡。襲破紹輜重。紹軍大潰。慚憤歐血死。

袁術初め南陽に拠(よ)る。已にして寿春に拠る。讖(しん)に、[漢に代る者は塗(みち)に当って高し]と言う以って、自ら、名字之に応ずを云い、遂に帝と称す。淫侈(いんし)甚だし。既にして資実空虚なり。自立する能わず。袁紹に奔(はし)らんと欲す。操、劉備をして之を邀(むか)えしむ。術走り還り、血を欧(は)いて死す。
孫策既に江東を定め、許を襲わんと欲す未だ発せず。故(もと)殺す所の呉郡の太守許貢(きょこう)の奴(ど)、其の出でて猟するに因(よ)って、伏して之を射る。創(きず)甚(はなは)だし。弟権を呼んで、代わってその衆を領せしめて曰く、「江東の衆を挙げて、機を両陣の間に決し、天下と衡(こう)を争うは、卿(けい)我に如かず。賢に任じ能を使い、各々其の心を尽くさしめて、以って江東を保つは、我、卿に如かず」と。卒す。年二十六なり。
袁紹、冀州(きしゅう)に拠る。精兵十万、騎一万を簡(えら)び、許を攻めんと欲す。沮授(そじゅ)諌めて曰く、「曹操、天子を奉じて以って天下に令す。今兵を挙げて南に向かわば、義に於いて則ち違わん。窃(ひそ)かに公の為に之を懼る」と。紹聴かず。操、紹と官渡に相拒(ふせ)ぐ。襲うて紹の輜重を破る。紹の軍大いに潰(つい)ゆ。慚憤(ざんぷん)して血を欧いて死す。


讖 予言書。 塗(みち) 路。 名字之に応ず 名の術には道路の意味があり、あざなが公路であったから。 淫侈 淫楽と奢侈。 機 勝機。 衡 均衡。 輜重 輸送、補給部隊。

袁術は初め南陽郡に拠っていたが、後に寿春を本拠とした。予言書に、「漢に代わる者は途(みち)に当って高し」とあるのを、我が名に符合するとして、遂に帝と自ら称した。淫楽と奢侈(しゃし)にふけり、財政が窮乏して自立することができなくなって、袁紹のもとを頼ろうとしたが、曹操は劉備に途中を遮らせたので、袁術は再び寿春に逃げもどり、悲憤のあまり血を吐いて死んだ。
孫策は江東を平定し、曹操の拠っている許を攻めようとした。まだ出発しない
うちに、嘗て殺害した呉郡の太守許貢の家僕が、孫策が猟に出たのを待ち構えて矢を射た。その傷が恢復しないと見極めた孫策は、弟の孫権を呼んで、軍の統率を引き継がせたうえで「江東の軍勢を引きつれて敵味方の間で勝機をつかみ、天下に雌雄を争うのは、お前は私に及ばない。しかし、賢者や能力の優れた者を取り立て、使いこなし、忠誠を尽くさせて、江東を維持してゆくのは、私はお前に及ばない」と言い残して死んだ。二十六歳の若さであった。
袁紹は冀州に拠っていた。精兵十万、騎兵一万を選りすぐって曹操の許を攻めようとした。すると沮授が、「曹操は天子を奉じて号令しています。今兵を挙げて南の許に向かうのは、大義にもとります。私はひそかにあなた様のためにならないかと心配です」といさめたが、袁紹は耳を貸さなかった。曹操は官渡で迎え撃ち、袁紹の輸送部隊を急襲してこれを破り、軍は潰滅した。袁紹は愧じと憤りのあまり血を吐いて死んだ。


十八史略 曹操呂布を殺す。

2011-10-06 08:23:45 | 十八史略

初曹操自討卓時、戰于滎陽、還屯河内。尋領東郡太守、治東武陽。已而入兗州據之。自領刺史。遣使上書、以爲兗州牧。上還洛陽。操入朝、遷上於許。
操撃殺呂布。初布自關中出奔袁術。又歸袁紹。已而又去。爲操所攻、走歸劉備。尋又襲備。據下邳。備走歸操。操遣備屯沛。布使陳登見操、求爲徐州牧。不得。登還謂布曰、登見曹公言、養將軍如養虎。當飽其肉。不飽則噬人。公曰、不然。譬如養鷹。饑則附人、飽則颺去。布復攻備。備走復歸操。操撃布、至下邳。布屢戰皆敗。困迫降。操縛之曰、縛虎不得不急。卒縊殺之。備從操還許。

初め曹操、卓を討つ時より、滎陽(けいよう)に戦い、還って河内(かだい)に屯(とん)す。尋(つ)いで東郡の太守を領し、東武陽を治む。已にして兗州(えんしゅう)に入って之に拠(よ)る。自ら刺史(しし)を領す。使いを遣わして上書し、以って兗州の牧と為る。上(しょう)、洛陽に還る。操、入朝し、上を許に遷(うつ)す。
操、撃って呂布を殺す。初め布、関中より袁術に出奔す。又袁紹に帰す。已(すで)にして又去る。操の攻むる所と為って、走って劉備に帰す。尋(つ)いで又備を襲う。下邳(かひ)に拠(よ)る。備走って操に帰す。操、備をして沛(はい)に屯せしむ。布、陳登(ちんとう)をして操に見(まみ)えしめ、徐州の牧と為らんことを求む。得ず。登還って布に謂って曰く、登、曹公に見えて言う、「将軍を養うは虎を養うが如し。当に其の肉に飽かしむべし。飽かずんば則ち人を噬(か)まん」と。公曰く、「然らず。譬(たと)えば鷹を養うが如し。饑うれば則ち人に附き、飽けば則ち颺(あが)り去る」と。布復た備を攻む。備走って復操に帰す。操、布を撃って、下邳に至る。布屡しば戦って皆敗る。困迫して降る。操之を縛(ばく)して曰く、「虎を縛するは急ならざるを得ず」と。卒(つい)に之を縊殺(いさつ)す。備、操に従って許に還る。


滎陽 河南省の地名。 河内 河南の黄河の北。 尋 両手を広げた長さ、たずねる、なみ、等の意味があるが、間もなく。 東武陽 山東省の一地方。 兗州 山東省西部。 刺史 監察官。 牧 長官。 許 河南省許昌県。 下邳 江蘇省邳県。 沛 江蘇省にある、漢の高祖の生地。

初め曹操は董卓を討つ時から、滎陽で戦いに参加し、引きあげて河内に駐屯した。ついで東郡の太守となり、東武陽を治めていた。やがて兗州に入り、ここを根城として、自ら兗州の監察官となった。そして使いを立てて上書し正式に兗州の長官となった。献帝が長安から洛陽に帰ると、曹操は入朝して、帝を許に遷した。
曹操が呂布を討って殺した。これより先、呂布は董卓を殺したあと、関中から袁術のもとへと逃げたが次いで袁紹を頼って行った。やがてまたそこを去り、曹操に攻められて、劉備のもとに身を寄せた。次には劉備の不意をついて下邳に立てこもったので、劉備は逃れて曹操を頼って行き、曹操は劉備を沛に駐屯させた。呂布は陳登を曹操のもとへ遣って、徐州の長官の地位を求めたが、出来なかった。陳登は還って呂布に言った。「私が曹操どのと会見した折、将軍は
例えて言えば、虎を飼うようなもので喰い飽きるほど餌を与えるべきです。喰い足りないと人に噛みつきましょう。と申しましたら、曹操どのはそれは違う、鷹を飼うようなもので、飢えているあいだは懐くが餌に飽きると飛び去ってしまうものだ。と申されました」と。
呂布は再び劉備を攻め、備は追われて再び曹操を頼った。曹操は呂布を討伐すべく下邳に進軍した。すべての戦いに敗れた呂布は進退窮まって降伏した。曹操は呂布を縛り上げ、「虎を捕えたからには急がねばならぬ」と言って、くびり殺した。劉備は曹操に従って許に還った。