goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 三国序

2011-10-27 09:13:13 | 十八史略

按曾氏云、天下非一統者、本可各自一國編集。又恐初學讀者、迷其時代之先後。今但以一國源流相接者爲提頭、而附同時之國於其。而曾氏而仍陳壽之舊、以魏稱帝、而附漢・呉。剡既遵朱子綱目義例、而改正少微通鑑矣。今復正此書、以漢接統云。

按(あん)ずるに曽氏の云(いわ)く、「天下一統に非ざる者は、本(もと)各自一国に編集すべし。又、初学の読者、その時代の先後に迷わんことを恐る。今但だ一国源流相接する者を以って提頭となして、同時の国をその間に附す」と。而して曽氏は陳寿の旧に仍(よ)り、魏を以って帝と称して、漢と呉を附せり。剡(えん)既に朱子の綱目の義例に遵(したが)って、少微通鑑(しょうびつがん)を改正せり。今復た此の書を正し、漢を以って統を接がしむと云う。

曽氏 曹先之、十八史略の編者。 提頭 先頭にかかげる。 陳寿 西晋の史家「三国志」を撰す。 剡 劉剡 この序文の著者。 綱目 通鑑綱目、司馬光の資治通鑑を宋の朱子が撰した書。 義例 体裁。 少微通鑑 宋の江贄の通鑑節要。

思うに、曹先之は「天下が統一されていないときは、それぞれの国ごとに編集するのが本来ではあるが、一方初学の読者がその時代の前後関係に迷うことになりかねない。そこでここでは一国の本源とつながっているものをまず先に掲げ、同時代の国を間に付け加えることとした」と述べている。そして曹先之は陳寿の旧例に倣って、魏を正統と見做し漢と呉をとを付け加えている。
すでに、私劉剡は朱子の通鑑綱目の体裁に従って、少微通鑑を改めたことがあるが、今またこの曹先之の旧本を正して、蜀漢が正統を継ぐものとすることとした。

十八史略 禪譲―漢の献帝から魏の曹丕へ

2011-10-25 09:05:28 | 十八史略
初曹操自兗州牧、入爲丞相。領冀州牧。封魏公。作銅雀臺於鄴。已而進爵爲王。用天子車服。出入警蹕。以子丕爲王太子。操卒。丕立。自爲丞相・冀州牧。魏羣臣言、魏當代漢。丕遂迫帝禪位、以帝爲山陽公。帝在位改元者三、曰初平・興平・建安。元年至二十五年、則皆曹操爲政時也。共三十一年。禪位又十四年而卒。漢自高祖元年爲王、五年爲帝、至是二十四世、四百二十六年。

初め曹操、兗州(えんしゅう)の牧より、入って丞相と為る。冀州(きしゅう)の牧を領す。魏公に封ぜらる。銅雀台を鄴(ぎょう)に作る。已にして爵を進めて王と為り、天子の車服を用い、出入(しゅつにゅう)に警蹕(けいひつ)す。子丕(ひ)を以って王太子と為す。操卒す。丕立つ。自ら丞相・冀州の牧と為る。魏の群臣、魏は当(まさ)に漢に代わるべしと言う。丕遂に帝に迫り位を禅(ゆず)らしめ、帝を以って山陽公と為す。帝位に在り改元する者(こと)三、初平・興平・建安と曰う。元年より二十五年に至るまでは、則ち皆曹操の政を為しし時なり。共に三十一年なり。位を禅って又十四年にして卒す。漢、高祖元年に王と為り、五年に帝と為りしより、是(ここ)に至って二十四世、四百二十六年なり。

兗州 山東、河南の地。 冀州 河北、山西の二省と河南の一部。 鄴 曹操が都を置いた河南省の地。 警蹕 天子行幸の折、人払いすること。警は出るとき、蹕は帰るとき。 禅る 禅譲。

曹操は初め兗州の長官から、朝廷に入って丞相になり、冀州の長官を兼任した。その後、魏公に封ぜられ銅雀台を鄴に造った。やがて公から王になり、車馬から衣服まで天子に倣い、出入の際には露払いして通行止めにした。子の曹丕を王太子と称した。曹操が死んで、曹丕が立ち、自ら丞相と冀州の長官になった。魏の群臣は口々に魏が漢にとって代わるべきだと言い、曹丕はついに献帝に迫って譲位させ、帝を山陽公とした。(220年)
献帝は位に在って改元すること三回、初平・興平・建安という。建安元年から二十五年までは曹操が政治を執り行った。献帝の在位は三十一年間、位を譲ってから十四年で没した。漢は高祖劉邦が元年に王となり、五年に帝となってからここに至るまで二十四世、四百二十六年であった。


十八史略 関羽斬らる

2011-10-22 10:56:43 | 十八史略
驥足(きそく)を展(の)ぶるを得ん
劉備初用龐統、爲耒陽令。不治。魯肅遣備書曰、士元非百里才。使爲治中別駕、乃得展其驥足耳。備用之。勸取州。備留關羽守荊州、引兵泝流、自巴入蜀、襲劉璋、入成都。備既得州。孫權使人從備求荊州。備不肯還。遂爭之。已而分荊州。備自蜀取漢中、自立爲漢中王。漢中將關羽、自江陵出、攻燓城取襄陽。自許以南、往往遙應羽。威震華夏。曹操至議徙許都以避其鋒。司馬懿曰、備權外親内疎。關羽得志、權必不願也。可遣人勸權躡其後。許割江南以封權。操從之。時魯肅已死、呂蒙代之。亦勸權亦圖羽。操師救燓。權將陸遜、又襲羽後。羽狼狽走還。權軍獲羽斬之。遂定荊州。

劉備初め龐統(ほうとう)を用いて、耒陽(らいよう)の令と為す。治まらず。魯肅、備に書を遣(おく)って曰く、「士元(しげん)は百里の才に非ず。治中別駕(ちちゅうべつが)たらしめば、乃ち其の驥足(きそく)を展(の)ぶるを得んのみ」と。備之を用う。益州を取らんことを勧む。備、関羽を留めて荊州を守らしめ、兵を引いて流れを泝(さかのぼ)り、巴(は)より蜀に入り、劉璋(りゅうしょう)を襲って、成都に入る。備既に益州を得たり。孫権、人をして備従(よ)り荊州を求めしむ。備肯(あえ)て還さず。遂に之を争う。已にして荊州を分(わか)つ。備、蜀より漢中を取り、自立して漢中王と為る。漢中の将関羽、江陵より出でて、燓城(はんじょう)を攻めて襄陽(じょうよう)を取る。許(きょ)より以南、往々遥かに羽に応ず。威、華夏に震(ふる)う。曹操、許の都を徙(うつ)して以って其の鋒(ほこ)を避けんと議するに至る。司馬懿(しばい)曰く、「備と権とは外親にして内疎(そ)なり、関羽志を得(え)ば、権必ず願わざるなり。人をして権に勧めて其の後ろを躡(ふ)ましむ可し。江南を割いて以って権を封ぜんことを許せ」と。操之に従う。時に魯肅、已に死し、呂蒙之に代わる。亦権に勧めて羽を図(はか)らしむ。操の師、燓を救う。権の将陸遜、又羽が後ろを襲う。羽狼狽して走り還る。権の軍、羽を獲(え)て之を斬る。遂に荊州を定む。

士元 龐統の字。 治中別駕 刺史の副官。 驥 一日千里を走るといわれる駿馬。 往々 あちこち。 華夏 華は文華、夏は大きい。文化のひらけた大きい国。 躡(ふ)む 後を追うこと。 師 軍隊。


劉備は初め龐統を用いて耒陽の県令にしたが、少しも成果が現れなかった。そこに魯肅から「士元(龐統)はわずか百里四方の県を治める才ではありません。治中別駕に取り立てれば、その才能を存分に発揮できるでしょう」という書が届き、劉備は従った。すると龐統は益州を取ることを進言した。劉備は関羽に荊州の留守を任せ、兵を率いて揚子江をさかのぼり、巴郡から蜀郡へ進み、益州の牧の劉璋を襲って成都を占領した。すると孫権が使いをよこして、荊州の返還を求めた。劉備がはねつけて争いになったが、和睦して荊州を二分した。その後、劉備は蜀から漢中に進出して、自ら漢中王となった。
漢中王の将関羽は江陵県から進出して燓城を攻め、襄陽県を攻め取った。許から南の地方にも、はるか遠く関羽に呼応しようという動きがあって、その勢威は広大な地域に響きわたった。曹操のもとでは許の都を移してその矛先を避ける議論まで出るに至った。司馬懿が反対して、「劉備と孫権とはうわべは親しそうにしていますが、内心は反目しあっています。関羽が勢いをのばすことは孫権にとって願わしくないことでありましょう。そこで、人をやって、関羽を背後から脅かすよう孫権を説得すべきです。そのために江南の地を割いて王に封ずることを許すのです」曹操はこの意見を容れた。
このとき魯肅はすでに死に、呂蒙がこれに代っていたが、やはり関羽を攻めることを勧めていた。曹操の軍が燓城を救援に向かうと、孫権の部将の陸遜が関羽の背後を襲った。関羽はうろたえて荊州に逃げ帰るところを孫権の軍が捕えて斬り殺し、荊州は平定された。


十八史略 別れて三日ならば即ち当に刮目して相待つべし

2011-10-20 10:27:42 | 十八史略
劉備徇荊州・江南諸郡。周瑜上疏於權曰、備有梟雄之姿。而有關羽・張飛、熊虎之將。聚此三人在疆埸。恐蛟龍得雲雨、終非池中物也。宜徙備置呉。權不從。瑜方議圖北方。會病卒。魯肅代領其兵。肅勸以荊州借劉備。權從之。權將呂蒙、初不學。權勸蒙讀書。魯肅後與蒙論議。大驚曰、卿非復呉下阿蒙。蒙曰、士別三日、即當刮目相待。

劉備、荊州・江南諸郡を徇(とな)う。周瑜、権に上疏(じょうそ)して曰く「備は梟雄の姿(し)有り。而して関羽・張飛、熊虎(ゆうこ)の将有り。此の三人を聚(あつ)めて疆埸(きょうえき)に在らしむ。恐らくは蛟龍の雲雨を得ば、終に池中の物に非ず。宜しく備を徙(うつ)して呉に置くべし」と。権従わず。瑜方(まさ)に北方を図(はか)らんことを議す。会(たまた)ま病(や)んで卒す。魯肅(ろしゅく)代って其の兵を領す。肅、権に勧めて荊州を以って劉備に借(か)さしむ。権之に従う。
権の将呂蒙(りょもう)、初め学ばず。権、蒙勧めて書を読ましむ。魯肅後に蒙と論議す。大いに驚いて曰く「卿は復(ま)た呉下の阿蒙に非ず」と。蒙曰く「士別れて三日ならば、即ち当(まさ)に刮目して相待つべし」と。


徇(とな)う 従える。 梟雄 勇猛な英雄。 疆埸 疆も埸(えき)も国ざかい。 蛟龍 みずち。 借 貸す意味もある。 阿蒙 阿は愛称。 刮目 目をこすってよく見る。


劉備は、荊州から江南の緒郡を説いて、帰服させていった。周瑜は孫権に「劉備は梟雄の相をしており、そのうえ関羽・張飛の猛将がおります。いまこの三人があつまって国境に集結しております。龍がひとたび雲雨を得たならば、池の中にじっとしている訳がありません、劉備だけをどうにかして呉の地に置くのがよろしいでしょう」と上書した。しかし孫権はこれに従わなかった。周瑜は一方で北の曹操を討つ策を図っていたが、病気で世を去ってしまった。魯肅が後を承けてその軍を率いることとなった。魯肅は荊州をしばらく劉備に貸すよう進言し、孫権はそれを聞き入れた。
孫権の将の呂蒙は無学であったが孫権が勧めて学問をさせた。しばらくして魯肅が呂蒙と議論したところ、大変驚いて「貴公はもはや私の知る呉下の蒙君ではない、まるで別人だ」と言うと、呂蒙は「士たるもの別れて三日も経ったら、よく目をこすって見なければなりませんな」と切り返した。


十八史略 赤壁の戦い

2011-10-18 10:04:02 | 十八史略
子を生まばまさに孫仲謀の如くなるべし
瑜部將黄蓋曰、操軍方連船艦、首尾相接、可燒而走也。乃取蒙衝・鬭艦十艘、載燥荻枯柴、灌油其中、裹帷幔、上建旌旗、豫備走舸、繋於其尾。先以書遣操、詐欲降。時東南風急。蓋以十艘最著前、中江擧帆、餘船以次倶進。操軍皆指言、蓋降。去二里餘、同時發火。火烈風猛、船往如箭。燒盡北船、烟焰漲天。人馬溺燒、死者甚衆。瑜等率輕鋭、靁鼔大進。北軍大壊、操走還。後屢加兵於權、不得志。操歎息曰、生子當如孫仲謀。向者劉景昇兒子、豚犬耳。

瑜の部将黄蓋曰く、「操軍方(まさ)に船艦を連ね、首尾相接す、焼いて走らす可し」と。乃ち蒙衝(もうしょう)闘艦十艘を取り、燥荻枯柴(そうてきこさい)を載せて、油を其の中に潅(そそ)ぎ、帷幔(いまん)に裹(つつ)んで、上に旌旗(せいき)を建て、予め走舸(そうか)を備えて、其の尾に繋ぐ。先づ書を以って操に遣り、詐(いつわ)って降らんと欲すと為す。時に東南の風急なり。蓋、十艘を以って最も前に著(つ)け、中江(ちゅうこう)に帆を挙げ、余船、次(じ)を以って倶(とも)に進む。操の軍皆指さして言う、蓋降ると。去ること二里余、同時に火を発す。火烈しく風猛(たけ)く、船の往くこと箭(や)の如し。北船を焼き尽くし、烟焰(えんえん)天に漲る。人馬溺焼(できしょう)し、死する者甚だ衆(おお)し。瑜等軽鋭(けいえい)を率いて、靁鼔(らいこ)して大いに進む。北軍大いに壊(やぶ)れ、操走り還る。後屢しば兵を権に加うれども、志を得ず。操嘆息して曰く、「子を生まば当(まさ)に孫仲謀(そんちゅうぼう)の如くなるべし。向者(さき)の劉景昇の児子は、豚犬のみ」と。

首尾 舳艫(じくろ)、へさき、とも(舳も艫もともに船首船尾)。 蒙衝(艨艟) 敵船に衝突して突き破る軍船。 帷幔 幕、とばり。 走舸 はや舟。 靁鼔 靁は雷の古字、鼔 鼓を打つこと、鼔と鼓は別字。 豚犬のみ 自分の子を謙遜して豚児というのはここから。 孫仲謀 孫権の字。 劉景昇 劉表の字。

周瑜の部将黄蓋が言うには「曹操の軍は船首に船尾が接するほどの大船団であります。火攻めにして潰走させるべきでしょう」と。そこで突破船と戦闘艦十艘を選び枯草や柴を積み込み、油をそそぎ、幕で包んで上に旗を立てた。そして予め船尾に速舟を繋いだ。それから曹操に書を送り、偽って降伏を申し出ておいた。折から東南の風が激しくなった。黄蓋は十艘を先頭に揚子江の中流に帆をあげ、他の船も並んで後に続いた。曹操の軍はそれを指さして「黄蓋が降参してきた」と言い合っていた。操軍との間が二里ほどに迫ったころ、一斉に火を放った。火は激しく風強く、火船は矢の如く進み曹操軍の船団に突入し、焼き尽くした。焔と煙が天をおおうばかり、人馬はあるいは焼け死に、あるいは溺れ死に、さらに周瑜の率いる軽装の精鋭が鼓をとどろかせて、追い打ちをかけた。曹操軍は大敗し、散りぢりになって逃げ帰った。その後、しばしば戦いを仕かけたがことごとく失敗した。曹操は歎息してこう言った「子を持つなら孫権のような子が欲しい、さきに降伏した劉表の子などは豚か犬のようなものだ」