ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

苦しむことの意義

2006-07-04 10:15:08 | 信仰
遺品の『賛美歌』の裏表紙に書き込みがある。
久子さんのカナクギ文字だ。
この時久子さんは何を考えていたのだろう。
「再入院のとき与えられたみことば詩篇119・71
(苦しみにあったことは私にとってしあわせでした?)
私はそれであなたのおきてを学びました。
神は愛なり。アーメン。」


終戦後の新しい法律下で、
久子さんは看護婦の国家資格を目指していた。
その最中に結核を発病した。
努力の成果として習得した看護技術も知識も生かせず、
展望も失った。
看護する者から看護される者の立場に置き換えられた。
絶望の淵だ。
看護者になってみると病気が恐い。
患者になることが恐いのだ。


教会に残っている古い青年会誌に寄せた一文の中で、
久子さんは自らの信仰に至る歩みを語っている。
「身も心も100%もたれかかって
安心できるものが欲しいと感じた。」


やがて結核は治癒したが、
久子さんは実家に帰る事が出来なかった。
10年間にも及ぶ療養生活で、
家族とは疎遠になってしまっていたからである。
社会復帰しようとする結核患者の現実は厳しかった。
病床を訪れて聖書をくれた一人の伝道者がいた。
その言葉が心に沁みた。
「イエス様が守って下さいますから、
苦しみに打ち勝って下さいね。」
久子さんは何もかも失っていたが、
祈りの友を得る事が出来た。
そして夫となった引田一郎さんとの出会いも
祈りの仲間を通じて与えられた。
久子さんは、一郎さんのトラクト伝道を支えてきた。


それから40年以上経って、結核が再発した。開放性だった。
礼拝堂の一番後ろの席で、苦しそうに咳が止まらず
真っ赤な顔をしていた久子さんの姿が目に浮かぶ。
久子さんは頑なに再発を認めず、入院を拒否し続けた。
パーキンソン病が悪化していた一郎さんの入院から
久子さん自身の入院まで、
牧師夫妻や祈りの仲間達が説得し続けた。
久子さんを追い詰めないように、孤立させないように、
この現実を受け入れられるように。


久子さんの現実は、
私達が想像する以上に残酷なものだったと思う。
久子さんは死ぬ事よりも、苦しむ事に怯えていた。
一度這い出した絶望の淵に再び突き落とされる苦しみ。
病身の夫に付き添う事も出来ず
最期を見送る事すら出来なかった苦しみ。
たとえ再び結核が治って退院しても
夫のいない部屋にたった一人で戻らなければならない苦しみ。
教会で誰かに感染させたかも知れない苦しみ。
同室者達と人間関係がうまくいかない苦しみ。
下血と微熱が続く苦しみ。
エビのように体を折り曲げても咳が止まらない苦しみ。

(苦しみにあったことは私にとってしあわせでした?)

久子さん自身が書き込んだ末尾の「?」に
苦しみの全てが込められているようでたまらない。
久子さんは苦しみの意義を探していた。


「生きることが死ぬことよりも辛く苦しい日々を、
ひたすら生きつづけた人達こそ、
人間として尊厳の中で死ぬことができる。」
   (『きょう一日を』寺本松野著・日本看護協会出版会)


同年代で
同じ看護職にあった久子さんは知っていたかも知れない。
寺本松野さんの言葉。この死生観。
これでは答えになりませんか。
久子さん。私も「?」の答えを探すのです。

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