2011年は、もう9月中盤。あと10月.11月.12月・・・3ヶ月で新しい年がやってきますね。
早い早い
時間は立ち止まってくれません。
その過ぎていく時間と共に、自分が少しづつでも成長できるのならば、過去の自分も、これからの自分もすべてが愛おしく思えます・・・。
「本気をだせばなんでもやれる」
「願えば叶う」
「優しいこころで今日を生きる」
それが今日はできたかな
今日できなかったことは、また明日がんばろう
「完璧」でなくても、「完璧」をめざして
日々挑戦、日々努力を続けることが大切で
できないことを誰かのせいにするのではなく、
自分という体と心を使って、誰かのためになることをしていきたい・・・。
7月の北海道稚内、礼文島の旅
9月の沖縄、鹿児島の旅
まだまだ半分も紹介できていません
須永博士は、すべての出逢いを心のなかにしっかりと刻み、大切にしています。
私も、この目で見た物、風景、そして出逢いが心のなかに大きくあって、ひとつひとつを表現することは、簡単にはできませんね・・・
「生きてゆく」ということは、この生かされている命が一生懸命動いていて、そのことに感謝して、
どんなことがあっても、「あきらめない」んだよ・・・って、たくさんの出逢いの中で教わります。
9月5日に沖縄県恩納村でお会いした川嶋環先生は、大きな心で、須永博士さえも子どもに見えてしまうくらいの方でした。
まず、4日に初対面した時に、須永博士が言いました。
「私自身、人と話すことが上手くできない青春時代、まわりから“お前はダメだ”と言われ続けて対人恐怖症になりました。
母に甘えて生きてきた自分には、生きる力がありませんでした。
もう死のうとまで思いましたが、線路の前に立った時、前に出ずに一歩後ろに下がりました。
“これからは自分の力で生きてゆこう”
それからは、母に“俺のやる事に口出しするな”と言いました。」
それを聞いていた川嶋先生は、
「そう・・・!!
それは、お母さん 苦労したわね・・・。」
その言葉に私は驚きました。
須永博士も初めての反応でした。
「はい! 母は苦労しました。
父はお酒飲みで、家にいるような父でなかったし、
家で“笑う”ということの無い家庭でした。
母はそんな中で、自分に愛情をたくさんそそいでくれました。
でも、自分にとっては“過保護”だったんです。
母に“俺のやる事に口出しするな”と言ったとき、母はショックだったでしょうね・・・。」
と、母の気持ちになって話していました。
「自分の力で」生きてきた須永博士が、そこには母の愛があったんだということを、そっと川嶋先生が須永博士に気づかせて下さいました。
「一番心配してくれていたのも、
活躍を一番喜んでくれたのも、
やっぱり“母”ですね。」
と須永博士が言っている姿と、それをそっと聞いている川嶋先生の姿は、私には「親子」のように見えました。
その後も、お互いに心開いて話している姿は、「親子」から、「きょうだい」のように見えてくるぐらい、他人には思えませんでした。
出逢うべくして出逢う2人だったんだろうな・・・と、本当にこの出逢いに感謝です。
↑研修会前日の懇親会にて
恩納村の村長さん、教育委員長さん、教育委員会の皆様、恩納小中学校の校長先生方と・・・。
ここ数年、須永博士がいつも言っていました。
「もうやりたいこと、夢は全てやりつくしてきた。もういい。」
(人の前では言いませんけどね。)
60歳を過ぎるとそんな感情もわいてくるのかな・・・
それだけ、一日一日を全力で生きてきたから、そんな言葉がふと自分に戻った時に出てきてしまうのかな・・・と思ったりしながらも、
「いやいや、まだまだでしょう!」なんて笑って話しています。
でもそんな時に川嶋先生に出逢い、自分よりも9歳も年上の女性が、こんなにもパワフルに生きていることを知り、またその人が自分の詩をものすごく大切にしてくださっていて・・・
口には出しませんが、ものすごく励みになったはずです。
自分の使命というものをいつも思い詩人の道を歩んできたのだから、気負うことなく
これからも「元気が出る詩」を作り続けてゆくこと
今日の須永博士もとても元気です!
今週末の9月17日と18日は、ここ須永博士美術館にてサイン会を行います。
(午前11時~午後2時まで)
その後は、またしばらく作品制作の旅に出かける予定の須永博士です。
早い早い
時間は立ち止まってくれません。
その過ぎていく時間と共に、自分が少しづつでも成長できるのならば、過去の自分も、これからの自分もすべてが愛おしく思えます・・・。
「本気をだせばなんでもやれる」
「願えば叶う」
「優しいこころで今日を生きる」
それが今日はできたかな
今日できなかったことは、また明日がんばろう
「完璧」でなくても、「完璧」をめざして
日々挑戦、日々努力を続けることが大切で
できないことを誰かのせいにするのではなく、
自分という体と心を使って、誰かのためになることをしていきたい・・・。
7月の北海道稚内、礼文島の旅
9月の沖縄、鹿児島の旅
まだまだ半分も紹介できていません
須永博士は、すべての出逢いを心のなかにしっかりと刻み、大切にしています。
私も、この目で見た物、風景、そして出逢いが心のなかに大きくあって、ひとつひとつを表現することは、簡単にはできませんね・・・
「生きてゆく」ということは、この生かされている命が一生懸命動いていて、そのことに感謝して、
どんなことがあっても、「あきらめない」んだよ・・・って、たくさんの出逢いの中で教わります。
9月5日に沖縄県恩納村でお会いした川嶋環先生は、大きな心で、須永博士さえも子どもに見えてしまうくらいの方でした。
まず、4日に初対面した時に、須永博士が言いました。
「私自身、人と話すことが上手くできない青春時代、まわりから“お前はダメだ”と言われ続けて対人恐怖症になりました。
母に甘えて生きてきた自分には、生きる力がありませんでした。
もう死のうとまで思いましたが、線路の前に立った時、前に出ずに一歩後ろに下がりました。
“これからは自分の力で生きてゆこう”
それからは、母に“俺のやる事に口出しするな”と言いました。」
それを聞いていた川嶋先生は、
「そう・・・!!
それは、お母さん 苦労したわね・・・。」
その言葉に私は驚きました。
須永博士も初めての反応でした。
「はい! 母は苦労しました。
父はお酒飲みで、家にいるような父でなかったし、
家で“笑う”ということの無い家庭でした。
母はそんな中で、自分に愛情をたくさんそそいでくれました。
でも、自分にとっては“過保護”だったんです。
母に“俺のやる事に口出しするな”と言ったとき、母はショックだったでしょうね・・・。」
と、母の気持ちになって話していました。
「自分の力で」生きてきた須永博士が、そこには母の愛があったんだということを、そっと川嶋先生が須永博士に気づかせて下さいました。
「一番心配してくれていたのも、
活躍を一番喜んでくれたのも、
やっぱり“母”ですね。」
と須永博士が言っている姿と、それをそっと聞いている川嶋先生の姿は、私には「親子」のように見えました。
その後も、お互いに心開いて話している姿は、「親子」から、「きょうだい」のように見えてくるぐらい、他人には思えませんでした。
出逢うべくして出逢う2人だったんだろうな・・・と、本当にこの出逢いに感謝です。
↑研修会前日の懇親会にて
恩納村の村長さん、教育委員長さん、教育委員会の皆様、恩納小中学校の校長先生方と・・・。
ここ数年、須永博士がいつも言っていました。
「もうやりたいこと、夢は全てやりつくしてきた。もういい。」
(人の前では言いませんけどね。)
60歳を過ぎるとそんな感情もわいてくるのかな・・・
それだけ、一日一日を全力で生きてきたから、そんな言葉がふと自分に戻った時に出てきてしまうのかな・・・と思ったりしながらも、
「いやいや、まだまだでしょう!」なんて笑って話しています。
でもそんな時に川嶋先生に出逢い、自分よりも9歳も年上の女性が、こんなにもパワフルに生きていることを知り、またその人が自分の詩をものすごく大切にしてくださっていて・・・
口には出しませんが、ものすごく励みになったはずです。
自分の使命というものをいつも思い詩人の道を歩んできたのだから、気負うことなく
これからも「元気が出る詩」を作り続けてゆくこと
今日の須永博士もとても元気です!
今週末の9月17日と18日は、ここ須永博士美術館にてサイン会を行います。
(午前11時~午後2時まで)
その後は、またしばらく作品制作の旅に出かける予定の須永博士です。