須永博士美術館スタッフブログ

熊本県阿蘇郡小国町にある、須永博士美術館。スタッフ佐藤から様々な情報をお伝えします。

2月22日~27日まで発送お休みのお知らせです。

2022年02月22日 | スタッフより

 

大変申し訳ございませんが都合により2022年2月22日より27日まで、発送をお休みさせていただきます。

その間にいただきましたご注文は、2月28日以降順次発送いたしますのでよろしくお願いいたします。

お問い合わせは、

スタッフ佐藤粧子携帯

shoko.0428.ss★icloud.com (★を@に変えてください。)

090-8915-1562 へご連絡ください。

電話に出られない場合には のちほどかけなおさせていただきます。

 

 

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卒業に向けて・・・

2022年02月15日 | スタッフより





卒業に向けて、先生方や保護者さんからのご依頼をいただいています。

ポストカードは8種類揃えました。








4月の新生活スタートにぴったりな、4月始まりの卓上カレンダーとポストカードのセットもあります。

その他、須永博士美術館webショップの中の商品を組み合わせてラッピングもいたします。

お問い合わせは、須永博士美術館スタッフ佐藤までお願いいたします。

090-8915-1562
スタッフ佐藤携帯






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須永博士 80歳の誕生日

2022年02月11日 | スタッフより

2022年2月11日(金・祝)

今日、須永博士は80歳の誕生日を迎えました。

1942年2月11日、東京で誕生した須永博士

80年の人生の大半は「詩人」として生きてきましたが、その始まりは「絶望」「孤独」の苦しみの中から見つけ出した、たったひとつの「生きる希望」でした。

 

これまでたくさんの詩を書き続けてきた須永博士、80歳になった今、生かされている今、そしてこれから

その思いが、今朝ファックスで送られてきました。

 

ここまで詩人として生きてこられたのも、出逢ってきたすべての方々の支えがあったからこそ。

詩を書かない日は一日も無かったんじゃないかと思います。

そして、

須永博士の絵や詩を知っている人でも、【須永博士の人生】を知っている人はそう多くはないと思いますので、今日は須永博士の80歳を記念して、書き記しておこうと思います。

良かったらお読みください。

 

 

(ひろしと、母)

写真屋を営む父と、それを支える母との間に生まれました。きょうだいは無く、ひとりっこ。
父は、ほかに女性がいて、母もそれを知りながらもぐっとこらえて過ごす毎日。

幼いながらも、母の姿をみてきました。
たまに帰ってきても、母は何も言わない。父はお酒を飲んで機嫌が悪くなるとあばれる。

それに抵抗するのは、母ではなくて、自分。

そんな日々を繰り返しながらも、母は過保護と言えるほど大切に育ててくれました。

のちに、高校を卒業、大学入試には失敗し、家業を手伝いながら紹介で入った会社での挫折、引きこもり、対人恐怖症

自分の人生を終わりにしよう・・・と線路の前に立った須永博士の心の叫び・・・

波乱万丈の人生がありました。

 

ここから以下は、以前須永博士に質問しながら2008年に書き留めたブログをもとに、再編・加筆します。

 



【生い立ち】

ひろしにはきょうだいは、いません。

「ひとりっこ」です。

1人息子ですから、お母さんは大切に、大切に育ててきました。
お父さんは大酒のみで、いつも酔っ払っていた記憶があります。

そして、飲み屋で知り合った女性の家にいる時間の方が長い生活でした。


お母さんは、ひろしが生き甲斐でした。
笑顔のない家の中で、母に守られるように毎日を過ごし、今はっきり言えるのは
「母の過保護」でした。

いつもそばにいて、
「これをしなさい」
「この子と遊びなさい」
「これはダメ」
と、ピッタリくっついていました。

 

【小学校での思い出】

勉強がきらい。
根本的に
「なんで勉強しなければいけないのか」
が分からず、難しいことや意味の分からないことを覚えなければいけないのか、
そう思って、まったくしませんでした。

遊びはべーゴマや、どんちっぱ、くぎさし

それと、いろいろな絵を真似して描いて、特にマンガを描くのが好きでした。
身体はあまり強くなく、性格も自分から前に出るようなことはなく、いつも人の後ろにいるような感じでした。

 

【ともだち】


ともだちは、いたけれど
「なんとなく」
いっしょにいて
「なんとなく」
遊ぶ、そんな小学校生活でした。

家に遊びに来ることもあったけれど、母はそれが嬉しくて、過剰なほどのお菓子を持ってきたり、ともだちと話したりする。それがとても嫌でした。

【中学校での思い出】

やはり、嫌いだったのは「勉強」。
また、退屈な学校生活が始まる・・と思っていたときに全校マラソン大会があり、
思いがけず[学年2位!]に。
「お、やればできるじゃん。」
と、自分でもおどろき、その勢いで陸上部に入部。

野球も好きだったけど、グラウンドの無い学校(1周70Mの校庭だけ)で、野球部も無かったので陸上部にしたという理由もありました。

唯一3年間続けられた陸上部で、800M,1500Mの選手になり、3年生の時には荒川区の中学連合体育大会で800M優勝!

自分の活躍を母も一番喜んでいました。
でも、期待が大きく膨らみすぎていました。

マラソンの大会があり、全校で6人選ばれる選手の選考に落ちたとき、学校に母親が文句を言いに行ったのです。
自分では、
「マラソンは自分に合わないな。800Mが走りやすい。」
と思っていたので、選考に落ちたことも納得していたのですが、母は期待しすぎていたのです。
そんな事件もありましたが、3年間、陸上を続けたことは自分の自信にも繋がりました。

 

 

 

【中学校当時の性格・ともだち】


小学校の頃につづき、性格は「おとなしい」まま。
ともだちも「なんとなく」。
走ることと、絵を描くことは一生懸命にできるけど、そのほかのことは本当に、
「ただ、何となく・・・・。」でした。
目立たない、特徴の無い子供だったと、自分では思います。

 

【高校を選んだ理由】


特に行きたい高校も無く、担任の先生に勧められた高校を受験することに。
「君の成績ならこの学校が良いでしょう・・・。」といわれるままに。
公立の高校入試に不合格。合格した私立の高校へ「まあ、いいか。」ぐらいの気持ちで3年間通いました。

高校生になり・・・
「どうせ自分はこの程度の人間だ。
 だからそれ以上やると疲れるし、努力してもみんな以上になれるわけが無い。
 だから自分から がんばる 挑戦する
 なんてことは できない。やらない。」

ず~~~~~っと、そんな考えで生きていました。
何の思い出も無い、だらしない、やる気のない高校生活でした。
 絵を描くことだけは相変わらず好きだったので、美術部に入部。
 毎日、楽しいことも無い、遅刻、欠席の繰り返しで、よく卒業できたと思います。

【高校での友達】


 高校では、2人の友との出逢いが心の中に大きくあります。


 1人は、いつも成績のビリ争いをしていた友人。
 彼とは気が合い、話も合い、家が学校からの方向が同じで近かったこともあり、
 よく一緒にいました。

 それともう1人、今の須永博士があるのも彼との出逢いがあったからと、
 はっきり言えます。
 工藤勝嗣君、頭も良く優しい同級生でした。
 美術部で描いた自分の絵を、「何を描いているの?」と興味を持ってくれ、絵をプレゼントすることもありました。

彼に見てもらうことも、何となく嬉しいことでした。

【就職活動】


「高校を卒業したら、父の写真屋を継ぎなさい。そのために写真を学べる大学に入りなさい。」と、母に言われるがまま、写真の専門学校、そして大学2校を受験。
 でも、受験した3校すべて不合格。 
 理数系がまったく苦手だったので受かるはずもありません。
 仕方なく、新聞広告でみつけた写真屋さんに働きに行くことにしました・・・。

【社会人として】
 家業の写真屋は父と母がして、自分は錦糸町の写真屋さんへ。
 半年ぐらい働いただろうか・・・。
 ある日、知人の紹介で求人中のタイヤ販売の会社へ就職することに。
 「働いてみるか。」と、就職してみたものの、
 
 人とうまく話せない。 
 今まで大変なことはみんな母がしてくれていた。
 そんな自分が、タイヤを勧めても誰も買ってくれない。
 
 会社の上司からは、毎日のようにみんなの前で
 「お前はダメだなあ。」と言われる。

会議室で机を囲んで月の成績の発表があり、大学卒業した優秀なひとがいつもトップ。自分は全く売れない。
 
でも、母は有名なタイヤメーカーへの就職を喜び、自分の苦しみ、悩みは理解してくれない。家に帰ったってつまらない。
 
【唯一の安らぎ】


 そんな時いつも、会社の帰り道の銀座へ向かい夜のネオンや大きな鮮やかな看板を見て、それを絵に描いていました。
 「きれいだなあ。」
 「ずっと絵を描いていたいなあ。」

 やはり、絵を描いているときだけが自分の心が落ち着くのでした。
 家で母には悩みを打ち明けることも無く、いつも会話はほとんど無い生活でした。

 

【タイヤ販売会社での大きな挫折】


 新宿という町で、営業に出かける毎日。
 来る日も来る日も、うまくセールスできない。どこへ行っても断られる。
 「あ~、いやだなあ。」「辞めたいなあ・・。」
 そんな気持ちでいるから余計に売れるはずが無い。


 ある日、新入社員が入ってきた。有名大学を卒業し、英語も話せて、見るからに「頭がいい」人でした。しかも頭がいいだけでなく、人とのコミュニケーションも上手で、会社の壁に張ってあるグラフは彼のはぐんぐん伸び、自分のはちっとも伸びない。
 上司に呼ばれ、みんなの前で比べられる。また落ち込む・・。

会議室で机を囲んで座る空間がとても苦手で、心臓がドキドキするし、怒られる、笑われると思うと体が震える。

 「あ~あ、もういやだなあ。」
  「みんな俺のことをバカにしている。笑っている。」
  「がんばったって売れやしない。」
こんなことを頭の中でぐるぐる考えていました。

 思い切って、母に「辞めたい」と相談してみたら・・・。

「あんな良い会社、なんで辞めたいなんていうの。」

と、やっぱりか・・・。という返事。

【突然の父の死】


 突然でした。
 大酒のみの父は、50歳、脳出血で亡くなりました。
 泣きませんでした。
 「こんな簡単に、人は死ぬんだ。」
 というのがそのときの感想です。

【喪失感】
 父の葬儀が終わり、その後すぐ、会社を辞めました。
 いやな上司もいるし、仕事もうまくいかないし、続けていても意味が無い。
 母は怒りました。
 でも、もういやでした。
 それから、家の中に閉じこもる生活が始まりました・・・・。

【1年半の空白】


 父もいなくなり、母と2人っきりの生活が始まりました。
 家にいれば、母が食事を部屋まで持ってきてくれる。
 仕事もする気にもなれない。
 毎日ただ生きている。食べている。寝ている。それだけ。
 「あ~あ、生きていてもつまらないなあ。」
 「誰も自分の気持ちなんて分かってくれないなあ・・。」
 
 1人でいると、どんどん落ち込んでいくばかりでした。
 外に出て人に会うのが怖い。
 何をする気にもならない。

 でも、部屋で本を読むことと、絵を描くことだけは辞めませんでした。

【誰も助けてくれない】


 部屋で1人で過ごす日々が1年半続きました。
   
 誰も自分の気持ちなんて分かってくれない。
 こんなに苦しいのに。
 こんなに涙がこぼれているのに。

 もう生きている意味なんて無い。

 毎日思いつめているうちに、
 
 「もう人生を終わりにしよう。
   誰も止めてなんてくれやしない。
  生きていてもいいことなんてひとつもない」

 雨が降る、鎌倉にいました。
 北鎌倉駅を降り、踏み切りの前に立ち、電車の音が聞こえてきて・・

 「もうすぐ電車が来る。
   このまま飛び込めば、楽になれる。
  もうおしまいだ・・・。」

 一歩、前に足を踏み出そうとしたそのとき!!!

「このまま、死んでいいのか」

  確かに聞こえました。
  一歩前に出るはずが、一歩うしろに下がっていました。

  電車は通り過ぎました。
 
 それからです。
 心の中から、こみ上げてくる言葉。
 心の声。

 「誰も助けてはくれないぞ。
  助けてくれる人がいるとすれば、

  自分自身  だ。
  自分がいるじゃないか!おれだ!
  
  今から、この弱い自分を、自分の力で強い人間にしてみせる。」

どこからか聞こえてきたようにも感じた心の声。
なぜだかみなぎってくる力。

さっきまでの弱い自分。惨めな自分。
でも今は違う。
絶対強くなってみせる!
絶対すごくなってみせる!

そう心が決まったのです。

「もう人生を終わりにしよう・・」

その絶望の時から、

「もう一度、生きよう
  強い人間になってみせる」

と決めた21歳。

【自分の力で】
 
 今までの自分
惰性で生き、やる前にあきらめ、すぐにくじける自分
 は、もう捨てよう。
 
 これからは、一歩一歩、自分という仲間と一緒に、自分をつくっていこう。
 やりたいことをやろう。
 好きなことをしよう。
 そうだ、やっぱり自分が好きな絵を描く仕事をしよう。
 苦しいとき、本を読むと元気が出たなあ。
 特に、詩を読むと、涙がこぼれてきた。
 こんな言葉が書けたらいいなあ。
 
 それまで落ち込むばかりだった自分が嘘のように、心の中は希望があふれてくるような気持ちがしていました。
 「いよいよ、自分への挑戦だ! 」
 「いよいよ、好きなことへの第一歩だ!」

 絵を描く仕事をしよう・・という「夢」ができたのです。
 今までの自分には何の基礎も無い。
 そうだ、それには絵を描く基礎を学ぼう!と、考えました。
 基礎の無い人生は、アマチュアで終わってしまう。
 俺はプロになる!
 それには、ちゃんと学校へいって、基礎を学ぼう!
 そう思い、絵を学べる学校を探していると
 「セツ・モードセミナー」を知りました。
 
 「ここで勉強しよう。」と決めました。

 行けるところまで ひとりでいってみよう
 やれるところまで ひとりでやってみよう

 
でももうひとつ、大きな壁がありました・・・・。
 
さあ、いよいよ自分の人生を素晴らしいものにつくっていくぞ!
今までの弱い自分から、自分の手で、強い人間にしてみせる!!

と、心に誓い、新しい人生を歩き始めたところで

「大きな壁」

にぶつかりました。
それは

「母」

でした。




【母との決戦】

 「よし、学校で、絵の基礎を学ぶぞ。」
 胸の中は希望であふれていました。
 
 母に、
「絵の学校へ行って勉強したい。
 セツ・モードセミナーというところなんだ。」
 
 というと、返ってきたのは

 「会社もろくに勤められないお前が
  なんで絵で食べていける。
  お母さんは許さないよ。」

でした。
それまでの自分だったら、こう言われてすぐにあきらめていたでしょう。
でも、今までの自分とは違うんだ!

「よくも言ったな!
いつも俺が、これをしたい、あれをしたいと言うと、
 それはだめ。こうしなさい。と言ってきた。
 だから俺は世の中で通用しない人間になったんじゃないか。
 あれしろ、これしろは
 もう絶対に言うなよ!
失敗したっていい。
 自分のやりたいことをやる!!!!!!!!」

ここまで母にぶつかったのは、生まれて初めてのことでした。
母も驚いたと思います。
でもここでも返ってきた答えは、

「お前にできるはずが無い。」

でした。
その瞬間、自分の感情が表に出たのです。

母に身体でぶつかりました。
何をどういったのか覚えていないくらいです。
ここまでしなければ、母に自分の気持ちを伝えられなかった。
今思えば、かわいそうなことをした。
でも、こうするしかなかった。
絵の道で生きられなかったら、もう本当に人生は終わり。と思っていたから、
どうしても越えなければならないものだったのです。

【母の家出】

母が家出をしました。

「ひろしがおかしくなった。
 ひろしが狂った。」

母は、母の田舎、千葉県茂原市にいました。

自分がしようと、したいと思っていた家出を、先に母がしたのです。


1週間ほど経ち、帰ってきたとき、母は何も話しませんでした。

これから、本当の
「子離れ、親離れ」
が始まりました。
 
22歳の春、絵の基礎を学ぶために「セツ・モードセミナー」へ通い始めた須永博士。そこで、大きな自信に繋がる出来事がありました・・・・。

【河原淳先生との出逢い】

港区にあった(現在は新宿)セツ・モードセミナーに通う日々、週3日のカリキュラムでした。ドキドキしながら、教室に入り、いつも一番後ろの席に座り「この道しかない。」と心の中で言いながら、真剣に学びました。
 全国から服飾関係、デザイン関係を目指す人が集まっている場所でした。

「みんなかっこいいなあ。」

スタイルも良く、夢に向かっている人たちの中にいるだけでも、いい勉強になりました。良い刺激の中で、石膏のデザインや、モデルさんを見て描いたり、本格的な授業の日々、生まれて初めてと言えるほど、一生懸命でした。
ここで学んだ生徒さんが、先生になっていたりして、若い先生が教えてくれる中で、セミナーの設立者の「長沢節先生」も週に1度授業があり、もう1人イラストレーターの先生が、月に1度、教えてくれていました。

その先生が、「河原淳先生」です。

ある日の授業のテーマは、新聞広告に載せる為の絵でした。
「雨の日、傘を差した人」
というテーマです。

私が書いたのは、傘を差したかわいい子供達がいっぱい、空から降りてくるようなイラストです。
描き終え、周りを見ると、本格的な、かっこいいスタイル画でした。
「俺のこの絵じゃ、ダメだよな・・。」と思いながらも、思い切って提出しました。

先生に提出し、休憩時間に。
そして教室に戻り、河原先生の批評の時間です。

すると、突然、

「この絵を描いた、須永君、立ちなさい!!!」

と言われました。
一番後ろの席に座っていたので、立ち上がるとみんな振り返ります。

おそるおそる、立つと・・・

「この絵が今日の、1番です。
 みんな、同じような絵を描いてもいけません。
 この、須永君のように、人には描けないハッとするような絵を描きなさい。
 須永君、君の絵は必ず世の中に認められます。がんばりなさい。」

「え!!!、僕の絵が、1番!?」

びっくりしました。
約40人の教室のみんなもびっくりしていました。
そして、褒められたことで、とても自信がもてました。
今まで褒められたことなんてない人生でしたから。

河原先生は、それからも須永博士を応援してくださいました。

「自宅で、河原ゼミといって色々な画家を呼んで勉強会をしているので、君も来なさい。」と言ってくださり、等々力という場所の自宅に何度も尋ねていきました。
有名なプロの画家、現在も名のあるイラストレーターの人などが来ていて、本当に嬉しく、楽しかったです。

「みんなすごいなあ。
 世の中にはすごい人がたくさんいるんだ。」

毎日が輝き、希望に満ち、自分にも少しづつ、少しづつ自信が持ててきました。
 
 
【写真を学ぶ】

「自分は詩人になる。」という夢を描き、その詩にイラストを加えたものを作品として完成させたい。それに、写真もきっと、必要になる。
心配かけ、苦労させた母の手伝いもしていきたい。
そうだ、まずは母が今、細々とやっている写真屋を、本気でやろう。
だけどやっぱり、基礎は学ばなければいけないんだ。

高校3年生のときは、ただ何となく勉強して、何となく受験して、うまくいかなかったけれど、今度は本気で受験しよう。

23歳のときです。本気で勉強しました。

そうして、合格しました。学費は、母が何とかしてくれました。
必死で働き、必死で払っていてくれていたのだと思います。

1年間、本気で、真剣に学びました。

【母と写真屋を営む】

写真専門学校で、写真の基礎も学び、今まで迷惑かけっぱなしだった母に、少しでも楽をさせようと、写真屋を手伝い始めました。

母と子、写真屋で食べていかなければと、真剣に考えました。
絵の学校、写真の学校の費用を出してもらったし、身体の弱い母に、少しでも役に立つ息子になりたいと思いました。

まず、写真屋の看板を作りました。
カメラの絵を描き、「DPE」と、写真屋と分かるような看板を掲げました。
自分の撮影した写真や、絵を飾り、写真の現像をしたり、お客さんとの応対をしたり、自分なりに一生懸命やりました。

七五三の季節には、近くの神社で写真撮影をしたり、成人式、結婚式、お正月の記念写真などを撮影したり、また、町内旅行へカメラマンとして一緒に行った事もありました。
免許証の写真撮影も結構依頼があり、撮影から現像、その日のうちに渡す・・・。という仕事も多かったです。
やはり、写真の学校へ行ってよかったです。
学べるときに、学んでおくといつか役に立つことってあるなあと、今も思います。


詩人になる夢は持ち続けながらも、今やるべき事・・写真屋を営むことに一生懸命でした。
店内に自分の撮った写真や、絵を飾り、近所のおじさんに
「兄ちゃんがこれ描いたのか。これはいいぞ。がんばれよ。偉くなれよ。」
なんて言われたこともありました。

【夢実現にむかって】

詩人になる・絵を描いて生きていくという夢はあきらめていませんでした。近所の喫茶店に絵を飾らしてもらったり、写真屋の中にも飾ってあったりしていました。

そして、もうひとつの仕事、それが、カメラの修理を下請けすることでした。
店頭で預かったカメラを、銀座のカメラメーカーへ持って行きました。
その行き来する道の途中に、
「銀座三愛みゆき店」がありました。

「水森亜土展覧会」

と書いてありました。
中に入ると、かわいい絵がたくさん飾ってありました。

「いいなぁ~。こんなところで、自分も展覧会をしたいなあ・・。」

そして、受付にいた女性の顔は、今でも忘れません。
ドキドキしながら・・・。

「この場所は貸してもらえるのですか・・?」
と聞くと、

「はい。まず作品を見せていただき、この店に合うものでしたらお貸しいたします。」
と、担当者さんの電話番号を教えてもらいました。
もう、うれしくて、嬉しくて・・・・。
まだ何も決まっていないのに嬉しくて。

そして、
近所の喫茶店で2回展覧会をしたときの作品を持って担当者の、前田さんに会いに行きました。

「これは面白い。
 やりましょう。」

これが、「第3回 小さな夢の展覧会」です。
 須永博士 27歳でした。

【今も忘れない一言】

この展覧会が大成功に終わり、前田さんの紹介で全国にある三愛さんのお店を作品を持ってまわりました。
新宿、川崎、函館、札幌、北九州、神戸、金沢・・・。そして自分に自信がつき、池袋パルコ、上野ABABなど、自分から交渉に行き、開催してきました。
それから現在まで、詩人としての人生、ノンストップです。
全国各地での展覧会も、覚えているだけで1300回は越えています。
たくさんの出逢いがありました。

しかし、今も、第3回目の展覧会で出逢った家族の事が頭に焼き付いています。

2歳と、5歳くらいの女の子、それとお父さんお母さんが来て、色紙を2枚、購入してくれました。そのとき心に決めたことがあります。

「よし、この子達が大きくなるまでに、もっともっと素敵な絵や詩をかく人になるぞ!!」

です。今もそのときの気持ちはしっかりと持っています。

【人生を振り返り】

 今、詩人として生きていられることは
「奇跡」です。
「夢は絶対にあきらめない。」
「自分がやると決めたら、最後までやり続けていく。」

この事をやり続けてきて、今があります。
 
 あなたへ

絶望の時こそ
失敗のときこそ
ひとりぼっちのときこそ
もしかしたら
道は広くひろがっているかもしれません
花がたくさん咲いているかもしれません
優しい人が待っているかもしれません
自分に素直になるときです
自分の心を決めるときです
明日への夢を持つときです
人間
もう駄目だと思ったときこそ
大きな心で
ひらきなおって
覚悟を決めて

 さあ 第一歩

です

自分の本当の夢に向かって
明るく元気に
素敵に
挑戦です

あなた、幸せになってください。
すてきな人生を生きてください。

       須永博士 旅の詩人  
       

 
 

 

 

 

 

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