GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

勲章

2007-09-20 07:26:39 | 社会
グエン・ティ・キム・ガン労働傷病兵社会相から「義足提供の日本財団笹川陽平会長」に記念勲章が授与されたとのこと。ベトナムの「労働省」は名称に「傷病兵」という文字が付いていて「戦争の傷跡」が如何に社会の重要問題であるかを物語っていると思っていたのですが、かつて「世界反共同盟」を設立したり「国際勝共連合」の会長だった笹川良一の息子に勲章を、というのにはいささか驚きました。「ベトナム国民、特に貧困者や身体障害者に対する功績」だそうです。義足を3万本提供して来た「実績」があるわけですが、ふと、幾人もの若いベトナム女性への援助交際を続けている日本人が「援助」を「貢献」と誇る話を思い出しました。

たぶんベトナムは「表彰」とか「勲章」が好きな社会で、先日来日した村山元首相も「友好」勲章を贈られたそうです。

岩波新書の「ベトナム民族小史」に書かれてました。1993年夏に著者はフエの王宮を訪れたそうです。「帰国してしばらくすると宮中を案内してくれた若いベトナム官吏からこの前きた日本人はお礼に日本の勲章をくれたがお前は約束をしたのにくれないのは何故かと詰問状をよこしたのには驚いた」「この日宮廷を退去する時楽隊の行列でにぎにぎしく管理が下城してくるのにあった。これは勲章をもらった大官が帰るところであるという説明を受けた。」

まぁ、日本の王宮でも毎年叙勲の儀式は行われているようですが。



山の人生

2007-09-18 22:43:27 | 社会
´いまから三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、まさかりで切り殺したことがあった。女房はとうに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。
 何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめて見ると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。
「おとう、これでわしたちを殺してくれ」
といったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。´ 

柳田國男の本を実際に読んだことはありません。金指君の友達の名取君が読んでいたという記憶だけが残ってます。上の文は、色川大吉「近代国家の出発」、資本主義創世記の章の冒頭に引用してありました。かつて入院中に三宅先生から貰った本で手元にあります。日本のニュースで「斧」にまつわる悲惨な事件を知り、急に思い出しました。

資本主義創世記の政治経済が生み出した悲劇を、その当事者たる国家が近代法によって裁き牢に繋ぐということに何とも堪らぬものを感るわけですが、それから120年後の今日、果たしてどれだけ人間的で豊かな社会を築くことが出来たと言えるのでしょうか。近代日本の創世記を振り返ることなくして、自らの生い立ちを知らずして未来を語ることもできない筈だと思います。

ベトナムでの「山の生活」とは少数民族の生活であるのかも知れません。ベトナムの現在もある意味では「創世記」です。山の生活も創世記の圧力と無縁ではないようです。先日、立ち退きの補償金でバイクを買った少数民族の記事が新聞にありました。ガソリンを買うお金がないので使ってないのだとか。しかし、彼らの生活に触れると癒されるように感じるのは何故なのでしょう。一概に「少数民族」と括って語ることは間違いなのかも知れませんが、「低賃金」を売り物にして外資導入を図るベトナムにあって、その社会の中でも最も低い賃金層を形成しているのが少数民族出身者であることは確かで、定食店の下働きやお手伝いさんなどでしばしば見かけます。

事務所の近くに新しく開店したジュース屋さんにも15歳の可愛い女の子が二人働いています。残念ながら僕のベトナム語がまったく通じません。メニューに書いてあるジュースを注文してるのに「オジサンの言ってること全然ワカンナーイ」。仕方なく店の女主人に注文し直すと、「(少数)民族だから」聞き取れないとの説明。そんな訳はありません。他の客とは流暢に話しているのですから。僕の発音が悪いからで、下手糞なベトナム語を敢て一生懸命聞き取る気にはなれないだけのことです。

それでも天真爛漫な笑顔を向けられると文句を言う気も起きません。他人を憎んだり恨んだりという世界とは無縁のように感じさせてくれます。憎しみが親や子に向かい家庭内で暴力となって噴出する日本の社会とは対極にある世界に生きているかのようです。

「キレる新老人」

2007-09-18 03:59:27 | 新聞・書籍
近年、増加中という「キレる新老人」に着目したのは、藤原智美著『暴走老人!』。老人は精神的に成熟し、他者に寛容という固定観念に反して、窓口の対応が気に入らないからと突然、怒鳴り散らしたり、殴りかかったりするのが「新老人」だ・・・・[掲載]2007年09月09日

朝日新聞のサイトでこの文を読み、「日々キレまくる外国人」の自分としては何とも耳の痛い話です。自分の場合はコニュニケーションが旨く取れない苛立ちというのがあるわけですが、お互いに通じる言語で話しても同じことが起きてしまうということなのでしょうか。予想外の不合理な(と感じる)相手の対応に「キレ」てしまうのでしょうけど、年老いて日本で暮らすということは、ベトナムで生活するのと同じような「異文化の疎外感」を伴うものなのかも。

ここでも「キレた」オバサンの怒鳴り合いやら喧嘩が日常茶飯事。交通事故同様に彼方此方で目撃します。やはりご老人の絶対数が少ないからでしょうか、特にサイゴンではお年寄りの姿が極端に少ないように感じます。時には年老いた親を虐待する不良息子の記事が新聞にも載りますが、老人や親を敬う社会(儒教的伝統と言われてますが)であることにはしばしば驚くほど。それが形式的なものでない(粗末な家の中に立派な仏壇があるように)、とは言えないようにも感じますが。

先週、カフェでメコンデルタから来たばかりの店の女の子と話をしてたら宝くじ売りが来ました。一枚5000ドンで最高賞金は125百万ドン。宝くじを当てたらどうするかと訊くと、半分を親に上げて残りは銀行預金だそうです。町内会倫理委員会の模範解答というところ。想像力の欠如を「親孝行」で埋め合わせするなよ。と思いましたが言えませんでした。

かつて見た笹川良一の「お父さんお母さんを大切にしよう」というTVコマーシャルを思い出しました。いつ頃の時代だったか覚えてませんが、既に大切にされなくなった時代になってたようです。浦和の太田窪の電柱に張ってあった町内会の標語「悪いことはやめよう親が泣く」これも心に残る傑作です。競艇場に通うお父さんたちに「ギャンブルはやめよう子供が泣く」と呼びかけた方が良いのでは、と思って観てましたが。




GDP:1000ドル/1人

2007-09-17 01:34:11 | 社会
9月5日、政府の経済会議で今年の経済成長率予測が8.4-8.5%(一人当りGOP835ドル)で10年間で最も高い数値になるとの見込みが報告され、ズン首相は2008年は9.1-9.2%の成長率目標を達成し、一人当りGDP1000ドルと貧困者比率11%以下を実現するように、と述べたそうです。

戦後日本の一人当りGNPが1000ドルを超えたのは、ベトナム戦争中の1965-6年。1ドル360円の時代。一人当り雇用者所得の前年比伸び率は60年以降16年間にわたり10%を超えていました。40年前の1ドルと今の1ドルを比べられるものでもなさそうですが、当時ラーメン50円、ハイライト70円の値段はベトナムの今のフォーやタバコの値段と変わりません。

1966年は、ダットサン・サニー、トヨタ・カローラ発売。プリンス自動車が日産に吸収合併。ビートルズ、コルトレーン日本来日。堀内開幕13連勝・巨人V2、大鵬5場所連続優勝。国鉄初乗り20円、はがき7円。当時、高校生のアルバイトが最低でも時給100円にはなりました。もっとも当時のドルに換算すれば4時間でやっと1.1ドル。

先日知り合いに聞いてみたら、レストランのウェートレスの時給は5,600ドン(40円)で6年間で10%ほどしか上がってないのだとか。この物価上昇の中では明らかに実質賃金の低下です。しかし今日の対ドルレートでは4時間で1.4ドルの計算ですから、一人当りGDPが1000ドルということから賃金水準を類推することは可能のようです。当時の日本と決定的に異なるのは所得格差です。非熟練労働の賃金が月62ドル程度。40年前の日本の中卒初任給も同程度だったようです。先週求人サイトを見ていたら大卒で2・3年経験ある専門職なら300-500ドルとの募集が少なくありません。300ドルでも年収は一人当りGDPの3.6倍。66年当時の日本で月給が10万円を超える20代のサラリーマンがどれほどいたのでしょうか。軽自動車が40万円以下の価格でした。

交通事故者数の多さや環境汚染、政治家の汚職といった経済成長に伴う負の現象は40年前の日本も同じようだったようですが、格差の拡大を伴ってしか成長を実現させられないというところに今日のベトナムの辛さがあります。ベトナムで生産・販売されているホンダ・シビックの販売価格は3万ドル以上。300ドルの月収ですら100ヶ月分です。
来年はアメリカでT型フォードの発売が開始されて100年。日給5ドルの賃金でT型フォード一台は850ドルですから年収以下で労働者が買えた価格でした。

40年前のサイゴン

2007-09-16 02:14:20 | 地理・歴史
昨日の帰り際に「明日で辞めるので給料払ってください」と言われてしまい、ムっとして「毎日働き続けた人に一ヶ月後に支払うのが月給だろ。一週間来ただけで勝手に辞める人に早く給料払うというのは理解できないな。給料支払日は毎月5日」などと言ってはみたものの、中には逆切れして「公安に訴えてやる・・・」と騒ぎ出す人もいたことを思い出し、早々に支払ってお引取り願うことにしました。

昨日、税務署から渡された税務報告用のソフトが印字できず、説明書も読まずに「印刷できません」と言うので「取扱い説明を読んでもう一度やってみて」と頼んでおいたところ、どうやらあちこちいじり回している内に益々プログラムがおかしくなってしまったようです。それ自体は大した問題ではありませんが、「印刷できません」「このプログラム壊れてます」という言い方に「だからなんなの」?と言いたくなってしまいます。なぜ、どうしたらいいでしょうか、あるいは、教えてください、とか手伝ってくださいとか言えないのでしょうか。一言言えば、「だって・・・」と自己正当化の言い訳ばかり。ウンザリしてちょっと突き放したら「辞めます」ということに。

などと今更ながらのことを言ってても始まらないので、きょうは朝から求人の電話を掛け続け、午後は面接を3件。しかし、どうにも面接時から不愉快にさせてくれるような人が立て続けです。どっと疲れてコーヒーを飲みに外に出ました。土曜日の午後、雨上がりで客は誰もおらず、オバサンが問わず語りに昔話を始めました。

「私はパシフィックで働いてたのよ。クチで。クチ・トンネルのクチよ。上は米軍だけど地下はVC。私はそんなこと知らなかったけど。亭主とは66年に知り合ってに子供を生んだのが68年。仕事はロンタィンに移ってアシスタント・マネージャー。サイゴンよりも給料が高くて2万5千ドンだった。亭主は1万4千ドン。両親の面倒と子供を育てて生活し、服を買ってもまだお金は残ったのよ。それが「解放」で全部なくなって悲しかったわ。新しいお金に換えたら全部でたったの200ドン。外国に行きたかったけど母が許してくれなくて。縫製工場で働いて一着縫って50スー。1ドンの半分よ。」

突然なぜオバサンがそんな話を始めたのかわかりません。向かいは地区の公安だし外国人でもなければ話せないことなのかも知れません。「当時の1ドルは何ドンだったの」?とか幾つか訊いてみましたがイマイチ要領を得ません。娘の歳もこの前聞いたのと少し違うし。話の所々に英語の単語が混ざってました。アメリカ人、韓国人、シンガポール人などとも接していたようです。それで当時の外国人のことを思い出したのでしょうか。

40年前のサイゴンがどんな姿であったのか想像してみようとしても「戦争」以外には何一つ思い浮かびません。僕にとってはまったくの別世界。しかし、オバサンにとっては75年の転換があっても同じ街であり続けているはずです。

口座開設ツアー

2007-09-14 02:00:58 | 社会
H君が事務所に寄り、「これ知ってる?」とDVDを見せました。「ガイアの夜明け」というタイトルで、聞いたことがあるようなないような。てっきり映画だと思って再生してみるとTVの日経特集番組の録画でした。サイゴンの市内が映し出され、株価高騰に沸く証券市場の活気というか混雑振りなども。何とそこで通訳してるH君の姿も映っています。TVに映ると知っていて格好つけているのか、いつもよりは精悍な感じで流暢そうに喋っています。

「この頃がピークで今は証券会社もこんなには混んでないよ」とのこと。TVの内容は団塊の世代の退職金をベトナムやインド株に投資して運用するというようなもののようですが。何とそれで今やベトナム株購入のための「証券口座開設ツアー」というものまであるのだとか。べトナムと言えばベトナム戦争を意味した時代の世代がそれから40年を経てベトナムの土を踏み証券口座の開設というのも巡り合わせというものでしょうか。

勿論、株を買いに来る日本人ばかりではなく、8月は国連環境計画(UNEP)親善大使の加藤登紀子が訪れ、先週は村山富市元首相来越の記事がありました。南北統一後初めてベトナムを訪れた日本の首相。ということはハノイを訪れた初めての首相ということかも知れません。その日のことはよく覚えています。1994年8月、小学生だった娘を連れてフエからハノイ行きの列車に乗りました。フエの駅は今も当時と変わっていませんが、列車に乗り込むなり「おしっこクサーイ」との欧米人女性の日本語の叫びが聞こえました。コンパートメントの寝台車で同室のベトナム人二人と一緒で、ラジオを聴いていた一人が、「今、日本の首相がベトナムに着いた」と教えてくれました。

村山元総理は1924年生まれだそうで(1912年生まれのボー・グエン・ザップよりは一回りも下ですが)、Hội đồng thúc đẩy hòa bình hữu nghị Nhật - Việt (JVPF)日越平和友好促進会議(?)の議長なのだとか。トゥイチェ紙のインタビュー記事の見出しは「揺ぎ無い発展のために教育への投資を」と書かれてました。80歳を超えても頑張っておられることには頭が下がりますが、教育投資・援助の中身がホーチミン市3区にあるレ・クィ・ドン高校の日本語教育というのにはガッカリです。写真は高校内の「村山日本語学校」の開校式。何でこういう安易な援助をするのでしょうか。だから社民党は・・・などと口走りたくもなります。







日越関係私考

2007-09-13 12:16:58 | 社会
昨日の朝、K君から暫く振りに電話がありました。「調子はどう」?と聞かれたので、「もうボロボロ、アベ内閣と同じで脳死状態」と相変わらずの冴えない挨拶を返すと「じゃ、内閣総辞職だねー」と明るい声。多忙なK君は、ぼやきつつも僕よりは遥かに充実した時間を送っているようです。こちらも7月まではクレームと資金繰りに追われてバタバタしてたとは言え、気分的には忙しさに救われてた面もあったわけですが、ひと段落してからというもの次の第一歩が未だに踏み出せません。人の採用も失敗の連続。

昼になり食事に出る前に日本のサイトでニュースを見て驚きました。本当に内閣総辞職です。何でこういうつまらぬ偶然の一致があるのでしょう。偶然の一致は宝くじの番号にしてもらいたいのに。トゥイチェ紙のサイトにも早々と載っていました。記事のリンク先の見出しを見ると閣僚の相次ぐ辞任と謝罪ばかり。ボロボロ内閣がついに前代未聞の辞任劇で閉幕との印象が全世界のメディアを駆け巡ってしまったようです。

きょうの朝刊国際欄は、ほぼ全面がデカデカと「Thủ tướng Nhật Shinzo Abe ra đi」の署名記事。この「ra đi」の表現は少々重いものがあります。試しに事務所の女の子に見出しどういう意味?と訊いたら「きっと死んじゃったのよ」とのこと。かつて60年代にサイゴン政権の腐敗と混迷が日本の新聞にも報道されていたように、今は日本の混迷政治が世界の注目を浴びているということでしょうか。こういう時に北部の客先にでも行こうものなら「日本の首相は政権放り投げちゃったんだってなー」などと嫌味を言われるに違いありません。ことある毎に日本のニュースを話題にし、何処となく「だからお前も日本人だからってデカイ顔するなよ」とのニュアンスを漂わせます。「そういうことを僕に言われても・・・公務員でもないし筋違いです・・・」という気にさせてくれます。

前回、K君とグエン・オアン通りのカフェで話しをしてると隣に座った店の女の子が不思議そうな顔で「あなたたちナニ人なの」?と聞き、K君が日本人と答えてる「ウソー」と信じてもらえませんでした。K君は「何でウソって言われるんだよ」と不満げ。日本人はもっと上品でお金持ちの筈と思われているようです。われわれ二人は女の子にモテようとして日本人を語ったニセ日本人ということなのでしょうか。われわれ二人もアベ政権に負けず劣らず日本のイメージ低下に貢献しているようです。







蟻とねずみとゴキブリ

2007-09-11 08:38:33 | 生活
夕食後の眠気にまかせて身を横たえたまま目を覚ますと2時3時という日が最近少なくありません。緊張感のない一人暮らしのせいでしょうか。部屋の片付けや掃除も余程のことがないとする気になれないし。浦和の団地に住むナカバヤシ君の部屋の足の踏み場のない散らかり様ほどではありませんが。アパートの一室にゴミと共に暮らせるというのは日本の気候ならではのことで、ここでは皆家の中は清潔にして暮らしているようです。

そうでもしないと直ぐにゴキブリやねずみの巣になってしまいます。風通しが悪ければカビとシロアリも大繁殖。普通の蟻とて油断せきません。何といっても最大の被害、恐怖はシロアリです。壁の中に巣を作るので一度現れたら要注意。押入れの中の衣類を食い荒らされ、殲滅したつもりが暫くして他の部屋の物置に現れダンボール箱を食い荒らされた挙句に箱の中の新品の製品をも腐食させてしまいました。

映画「天と地」の中で、主人公の兄だったか解放戦線に身を投じた男が「俺たちは像に踏み潰されるアリだった」と米軍の近代兵器の破壊力の恐怖を語るシーンがありました。しかしこれって本当にベトナム人の言葉なのか、と疑問です。アリは働き者で弱いものなどとは温帯気候の作り出したお話で、釜に残ったご飯や食いかけで机の上に置いといた柿ピーのビーナッツに群がり、ゴキブリの死骸を羽だけの残して平らげてしまうアリの貪欲さとお付き合いすればアリが弱いものとは感じません。それに赤い色のアリは小さくても人を噛みます。

綿のTシャツは暫くすると虫が喰った小さな穴が幾つもできます。どんな虫が喰ったのか目認してませんが、アリではないかと疑ってます。ねずみも衣類を齧り、食後の排泄までして行くわけで憎たらしさは増すばかりで、このねずみからミッキーマウスなるキャラクターを作り上げたアメリカ人の感覚が知れません。

外で食事したり、カフェにコーヒーを飲みに行ってる時には眠気も起きませんが、このところ夕食後にフラフラを足を運ぶくつろげるカフェがありません。カフェの女の子に相手にされる歳でなくなったということなんでしょうけど、それも今更ながらのこと。昼は事務所の近くの「長女は44歳、35歳で今度結婚する末娘」がいるオバサンの店でコーヒーを飲んでるわけですから特別可愛い女の子がいないと嫌だということではありません。最近、本が読める明るさで客の少ないカフェを見付け、2・3日通いました。その近くの店の「あたし、どう」?と言い寄る自称34才の如き恐怖はありませんが、押し付けがましさは同じで「コーヒーは身体に良くないから夜はジュースにしろ」などと言われ鬱陶しくなりました。

言葉のちょっとした言い回しの問題で「ジュースの方が身体に良いんじゃないの?」程度に言われれば、「そうですね」とも答えるのでしょうけど、そういうニュアンスには聞こえません。ベトナム語を日本語に変換して受け止めてしまうのが良くない、ということがあるとしてもです。「こっちは外国人なんだからもっと正確にベトナム語を喋ってくれよ」とは仕事の中でも常々思うところ。片言のベトナム語に対しては片言で返すのが礼儀とでも思っているかのよう。ぶっきらぼうに「ハサミ」と言われ「ハサミが何なの」?とムッとして聞き直すと「紙を切るハサミ」。きょうも「○○高校から電話で全機種の見積もり」と言うので、「見積もりをどうするの?新しく送るってこと?FAXで送るの?届けるの?何時までに?誰宛に?5W1Hって中学校で教わったでしょ?」一番困るのが時制を省略されることで、「もう送った」と聞いてたつもりが「これから送る」だったり「終わりました」が「もうすぐ終わります」だったり。

朝になってしまいました。きょうは早朝のコーヒーを飲んでから仕事に行くことにします。



月餅商戦

2007-09-09 06:41:03 | 
今年の中秋祭は9月25日。残すところ後2週間と2日で、月餅を販売する臨時店舗もあちこちに増えています。日本のクリスマス・ケーキやバレンタインデーのチョコレート商戦をはるかに凌ぐ加熱商戦、と店舗数だけ見れば思えるわけですが、その割には買っている人の姿は多くはありません。バレンタインデーのチョコレートも義理チョコが増えれば販売数には好都合のよう。ベトナムの月餅は義理月餅そのものです。K君などは「あんな不味くて値段も糞高いもの止めて欲しいよなー」とのことで、僕も月餅を見る度に、日本で食べた中村屋の月餅を思い出し、食べたくなるのですが、何とK君は中村屋の月餅を食べたことがないのだとか。

一度日本に帰る時に、知り合いのベトナム人から「日本でこれ買ってきてくれ」と風月堂のお菓子の箱を渡されたことがありました。「VIPのお客さんに上げると喜ばれるんだよー」とのこと。荷物になるので面倒だから買わずに帰って来てしまいましたが、それ以降彼の態度も少々冷たくなってしまいました。月餅がK君が言うほどには不味いと思ってはいないのでしょうけど、日本のお菓子が美味しいと思われていることは確かです。

写真(クリックすると拡大します)はグエン・キエム通りに建てられたキンドー(漢字に直すと京都)社の仮設店舗で向かいにはBIBCA社の横断幕がずらーと張られていました。月餅を製造販売する会社はかなり多いようですが、この2社は大手で株式もホーチミン市場に上場してます。BIBICA社はS川さんお勧めのビエンホア砂糖会社の関連会社で先週末株価8.3万ドンで2年前の5.5倍。日本でベトナム株が騒がれるのも納得の数字です。何しろあの不味い月餅を作っていてもこんなに評価されるわけですから。

キンドー社(KDC)は、これを遥かに上回る高株価で24.6万ドン。株価収益率は何と51.89です。因みに中村屋の株価は2年前より300円ほど下がって527円。株価収益率24.68倍。将来性ということでは、不味いものを作っていても売れる方が可能性が高いには違いありません。

Nha Khoa (歯科)

2007-09-08 07:15:08 | 生活
毎日、採用面接を繰り返しながら成果はなくイライラは募るばかり。仕事のできそうな人には断られ、「ちょっと勘弁」と思ってしまう人を雇っても一ヶ月以上我慢できそうにありません。それ以前に面接の約束をしてすっぽかされることも少なくはなく、時間の浪費は積み重なるばかり。おまけにきょうは1時過ぎから大雨で外出の予定も面接もキャンセル。怒鳴り続けている会計の女の子には、もう同じ言葉を繰り返す気力も失せ、午後から家に帰って貰いました。

早めに切り上げて歯医者に行こうとすると北部の客先から電話が入り、再びPCの電源の入れ直し。やっと治療台での苦痛に耐える決心をしたのに水が入りました。しかし放って置けばさらなる苦痛と治療費の増大をもたらすに違いなく、折れた刺し歯を持って近くのNha Khoa(牙科)に行きました。最近は小奇麗になったメガネ屋と歯医者が多くなり、Nguyễn Kiệm 通りのこのNha Khoaも最近改築して外観は立派になりました。そのためか治療費も高騰。

治療方法は二つ。インプラントかブリッジでインプラントは高いけどブリッジなら300万ドンと言われ、迷わずブリッジに決めました。その前にX線を撮って来るようにとのことで、2kmほど離れた175病院の先にある「X Quang」へ。最近の新聞にホーチミン市のX線撮影室は半数以上が放射線の安全基準が守られていない、とあったことを思い出させる粗末な室内と古い機器でした。もっともそのお陰か撮影料は1万5千ドンと超低料金。帰宅ラッシュで混雑する道路を再び引き返してNha Khoaに戻りました。

治療台に横たわると「nhổ」という単語が何度も聞こえ、「抜く」という意味なんだ、と単語を一つ覚えたわけですが、「じゃ今から抜きますよ。ちゃんと食事は済ませてあるの」?と言われてビビッてしまい、ブリッジにしたところで両側の歯も何時どうなるかもわからないわけだし・・・などと心変わり。「やはりインプラントの方が良いですかねー」?と訊くと「インプラントなら20年、30年は持ちますから」と言われると、そんな長生きするわけではなから、との気がして来ます。

「毛沢東の私生活」に歯を磨く習慣のない毛沢東の歯が真っ黒でボロボロだったと書いてあったことを思い出しました。歴代中国の権力者同様に生と性には執着したようですが、歯には執着心がなかったようです。K君の前歯も煙草のヤニで真っ黒。一本抜けたように見えるほどです。「毛沢東じゃないんだから歯ぐらい磨けよ」と言うと「磨いてるんだけど追いつかないんだよ」との返事に笑っていたのは最近のこと。300万ドンかその7倍の治療費かの選択は来週に持ち越すことにしました。