GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

山の人生

2007-09-18 22:43:27 | 社会
´いまから三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、まさかりで切り殺したことがあった。女房はとうに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。
 何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめて見ると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。
「おとう、これでわしたちを殺してくれ」
といったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。´ 

柳田國男の本を実際に読んだことはありません。金指君の友達の名取君が読んでいたという記憶だけが残ってます。上の文は、色川大吉「近代国家の出発」、資本主義創世記の章の冒頭に引用してありました。かつて入院中に三宅先生から貰った本で手元にあります。日本のニュースで「斧」にまつわる悲惨な事件を知り、急に思い出しました。

資本主義創世記の政治経済が生み出した悲劇を、その当事者たる国家が近代法によって裁き牢に繋ぐということに何とも堪らぬものを感るわけですが、それから120年後の今日、果たしてどれだけ人間的で豊かな社会を築くことが出来たと言えるのでしょうか。近代日本の創世記を振り返ることなくして、自らの生い立ちを知らずして未来を語ることもできない筈だと思います。

ベトナムでの「山の生活」とは少数民族の生活であるのかも知れません。ベトナムの現在もある意味では「創世記」です。山の生活も創世記の圧力と無縁ではないようです。先日、立ち退きの補償金でバイクを買った少数民族の記事が新聞にありました。ガソリンを買うお金がないので使ってないのだとか。しかし、彼らの生活に触れると癒されるように感じるのは何故なのでしょう。一概に「少数民族」と括って語ることは間違いなのかも知れませんが、「低賃金」を売り物にして外資導入を図るベトナムにあって、その社会の中でも最も低い賃金層を形成しているのが少数民族出身者であることは確かで、定食店の下働きやお手伝いさんなどでしばしば見かけます。

事務所の近くに新しく開店したジュース屋さんにも15歳の可愛い女の子が二人働いています。残念ながら僕のベトナム語がまったく通じません。メニューに書いてあるジュースを注文してるのに「オジサンの言ってること全然ワカンナーイ」。仕方なく店の女主人に注文し直すと、「(少数)民族だから」聞き取れないとの説明。そんな訳はありません。他の客とは流暢に話しているのですから。僕の発音が悪いからで、下手糞なベトナム語を敢て一生懸命聞き取る気にはなれないだけのことです。

それでも天真爛漫な笑顔を向けられると文句を言う気も起きません。他人を憎んだり恨んだりという世界とは無縁のように感じさせてくれます。憎しみが親や子に向かい家庭内で暴力となって噴出する日本の社会とは対極にある世界に生きているかのようです。

「キレる新老人」

2007-09-18 03:59:27 | 新聞・書籍
近年、増加中という「キレる新老人」に着目したのは、藤原智美著『暴走老人!』。老人は精神的に成熟し、他者に寛容という固定観念に反して、窓口の対応が気に入らないからと突然、怒鳴り散らしたり、殴りかかったりするのが「新老人」だ・・・・[掲載]2007年09月09日

朝日新聞のサイトでこの文を読み、「日々キレまくる外国人」の自分としては何とも耳の痛い話です。自分の場合はコニュニケーションが旨く取れない苛立ちというのがあるわけですが、お互いに通じる言語で話しても同じことが起きてしまうということなのでしょうか。予想外の不合理な(と感じる)相手の対応に「キレ」てしまうのでしょうけど、年老いて日本で暮らすということは、ベトナムで生活するのと同じような「異文化の疎外感」を伴うものなのかも。

ここでも「キレた」オバサンの怒鳴り合いやら喧嘩が日常茶飯事。交通事故同様に彼方此方で目撃します。やはりご老人の絶対数が少ないからでしょうか、特にサイゴンではお年寄りの姿が極端に少ないように感じます。時には年老いた親を虐待する不良息子の記事が新聞にも載りますが、老人や親を敬う社会(儒教的伝統と言われてますが)であることにはしばしば驚くほど。それが形式的なものでない(粗末な家の中に立派な仏壇があるように)、とは言えないようにも感じますが。

先週、カフェでメコンデルタから来たばかりの店の女の子と話をしてたら宝くじ売りが来ました。一枚5000ドンで最高賞金は125百万ドン。宝くじを当てたらどうするかと訊くと、半分を親に上げて残りは銀行預金だそうです。町内会倫理委員会の模範解答というところ。想像力の欠如を「親孝行」で埋め合わせするなよ。と思いましたが言えませんでした。

かつて見た笹川良一の「お父さんお母さんを大切にしよう」というTVコマーシャルを思い出しました。いつ頃の時代だったか覚えてませんが、既に大切にされなくなった時代になってたようです。浦和の太田窪の電柱に張ってあった町内会の標語「悪いことはやめよう親が泣く」これも心に残る傑作です。競艇場に通うお父さんたちに「ギャンブルはやめよう子供が泣く」と呼びかけた方が良いのでは、と思って観てましたが。