GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

SaxN'Art Jazz Club

2006-10-02 03:14:11 | 生活
土曜日の晩、雨も上がったのでバスに乗ってレロイ通りまでJAZZのライブを聴きに行きました。台風の影響による激しい雨でしたから、バイクで出掛けてずぶ濡れになりたくはありません。最終バスが7時半ですから、そのバスに乗り込み、30分ほどでレロイ通りに着きました。店は去年一度Dさんと一緒に行ったことがありました。レロイ通り28番。バクダン・アイクリームの近くです。ライブは9時からなので暇つぶしに少しブラブラして、久々に観光客気分を味わいました。
5分前に店に入ったのでまだ客も少なく、真正面のソファーの席に案内されました。

お店の名前にあるようにサックス奏者のTran Manh Tuanさんの演奏が迫力十分です。前回は残念ながら聴けなかったわけですが、今回は楽しませてもらいました。ステージには、テナー、アルト、ソプラノの3本のサックスが置いてあり、真鍮のくすんだ色をしていて骨董品のような感じもしてやや不安な気もしましたが、彼は楽器をバイクや自動車のようにピカピカに磨くということはしないだけで、楽器は演奏するためのものとでも言いたげに、3本のサックスを文字通り全身で吹きまくっていました。お店が何しろサイゴンの一等地ですから通常の建物一軒分の広さしかなく、その分音質はやや厳しいものがあります。昨年ドイツのJAZZバンドが演奏した音学院のホールの方が遥かに聴きやすい音でした。

曲は殆どがスタンダードナンバーです。前座はトランペット、次に小泉純一郎とそっくりの風貌のボーカル、そしてTuanさんの登場です。テナーSAX、アルトSAX、ソプラノSAXと続き、そして最後にはアルトを右手でソプラノを左手で操り、一つの口で吹いてます。そこまでしなくても・・・とは思いましたが、受けてました。これでビールやソフトドリンク代の55Kドンだけで楽しめるわけですから毎週でも通いたいくらいです。アイスコーヒーにピーナッツのつまみが付かないのが不満ですが。T君はあまり楽しめなかったようで、途中から雑誌を読んでしまってることでもあり、年配の女性ボーカルに代わったところで店を出ることにしました。その姿は既に記憶にないのですが、マーサ三宅という名を思いだしました。ボーカルの男女お二人共、たぶん米軍がサイゴンに居た頃に青春を送っていたのではないかと思える年令です。個人的にはアオザイの似合うJAZZボーカルを聴いてみたいものです。クボタ君のサイトに載っているJAZZボーカルのミホちゃんも可愛いですね。時々ライブに行くそうですが、羨ましい。

客の殆どは観光客と外国人駐在員のようでした。挨拶も英語でしたし。幸い雨には帰りも降られずで、しばらく街を歩いてからタクシーを拾ってGOVAPの家に帰りました。行きのバス代は一人3Kドン。帰りのタクシー代は60Kドンでした。

台風シャンセン

2006-10-01 02:36:18 | 天気
フィリピンで死者・行方不明者123人をもたらした台風シャンセン(XANGSANE)があす朝にもダナン直撃、上陸との予測。きょうの新聞のトップニュースです。「NIN THO CHO BAO」との大見出し。「息を殺して台風を待つ」との意味でしょうか。衛星写真を見れば、台風の作り出した雨雲はすっかりベトナム全土というか、インドシナ半島全域を覆う大きさです。
日本では「地震・雷・火事・親父」で防災対策の第一は地震のようですが、ここでは何と言っても台風と洪水です。北部紅河デルタでは紅河の氾濫との闘いがベトナム民族を形成し、南部ではメコンデルタの氾濫が肥沃なデルタ農業を成立させました。そして中部は台風の直撃です。チュオンソンン山脈が海まで張り出したハイバン峠の地形が象徴するように、狭い平野で山が近いため、台風のもたらす集中豪雨が毎年の如く大きな被害をもたらしています。

ダナンは、1858年ナポレオン三世のフランスによるダナン上陸、1965年米海兵隊のダナン上陸など台風以上の被災者をもたらした疫病神の上陸でも有名です。オリバーストーンの映画「天と地」Heaven & Earth の舞台でもあり、また1975年サイゴン解放に至る闘いではサイゴン軍のダナン撤退の大混乱が悲惨を極め、この時の「LIFE」紙(だったか?)に掲載された写真はいまだに記憶に残っています。
フランス人は北部ベトナムをトンキンと呼び、南部をコーチシナ、中部をアンナンと呼びました。そのように名付けたこと自体当時のフランス人の無知無理解、馬鹿さ加減の表明のようにも感じます。トンキンとは漢字で東京。タインホア(だったか?)に都が置かれた時代があり、この西都に対してハノイを東京と呼ばれた時代があったからです。トンキン湾とは今でも使われる名称ですが「東京湾」となります。アンナンとは唐の時代の安南都護府に由来し、中国領土の「南部」が安かれという中国からの視点による名称です。コーチシナは、漢字では交跡支那、(あるいは日本語的には河内支那?=ハノイを漢字表記すれば河内、だし)で、漢の時代にベトナムに三郡を置き北部を交跡郡と名付けたことによるものです。
したがってベトナム南部・中部・北部の呼び名としては相応しくない名称なのですが、そこが帝国主義者の横暴というものなのでしょう。そしてフランスは1860年、清仏戦争の結果「仏領インドシナ連邦」を結成することになります。近代日本国家出発のわずかばかり前のことです。その81年後、火事場泥棒よろしくこの地へ軍を進めた日本政府は、それを「仏印進駐」と呼びました。火事場泥棒には相応しい言葉使いです。昨年だかハノイを訪れた小泉首相は安部仲麻呂を持ち出して日越の歴史に触れたそうですが、唐帝国から派遣された「植民地総督」みたいな人間が日本人だからと言って、ベトナム人にしてみれば楽しい話であるわけがありません。近代史の日越関係に触れられない今の自民党政府ではあれ、その辺の事情は、ODAの援助額として両政府間の暗黙の了解とされているかのようです。

台風被害の歴史は、中部海岸を沈没船の宝庫としているようです。ホイアンの土産物店などでは、今だに沈没船から引き上げられた貝の付着した陶器が売られたりもしています。沈没の原因がすべて台風ではないかも知れませんが、この時期サイゴンの日本料理店からマグロは姿を消し、漁船の被害は毎年のことです。
ハノイとホーチミン市周辺への日系企業の進出数と比べ、中部への投資は皆無に近いものがありましたが、ようやくダナンにマブチモータとダイワ精工の工場が建設されたようです。ダナン港を抱え海運の便も良い筈、とはいえ、何分いまだ便数が少ないため運賃コストの面では問題が残るとの話も聞きました。夏の猛暑と冬の冷たい雨、秋の台風という自然環境です。安価な労働力を求めてこの地に工場を建てるということにどの程度の合理性があるのかは知りません。