フィリピンで死者・行方不明者123人をもたらした台風シャンセン(XANGSANE)があす朝にもダナン直撃、上陸との予測。きょうの新聞のトップニュースです。「NIN THO CHO BAO」との大見出し。「息を殺して台風を待つ」との意味でしょうか。衛星写真を見れば、台風の作り出した雨雲はすっかりベトナム全土というか、インドシナ半島全域を覆う大きさです。
日本では「地震・雷・火事・親父」で防災対策の第一は地震のようですが、ここでは何と言っても台風と洪水です。北部紅河デルタでは紅河の氾濫との闘いがベトナム民族を形成し、南部ではメコンデルタの氾濫が肥沃なデルタ農業を成立させました。そして中部は台風の直撃です。チュオンソンン山脈が海まで張り出したハイバン峠の地形が象徴するように、狭い平野で山が近いため、台風のもたらす集中豪雨が毎年の如く大きな被害をもたらしています。
ダナンは、1858年ナポレオン三世のフランスによるダナン上陸、1965年米海兵隊のダナン上陸など台風以上の被災者をもたらした疫病神の上陸でも有名です。オリバーストーンの映画「天と地」Heaven & Earth の舞台でもあり、また1975年サイゴン解放に至る闘いではサイゴン軍のダナン撤退の大混乱が悲惨を極め、この時の「LIFE」紙(だったか?)に掲載された写真はいまだに記憶に残っています。
フランス人は北部ベトナムをトンキンと呼び、南部をコーチシナ、中部をアンナンと呼びました。そのように名付けたこと自体当時のフランス人の無知無理解、馬鹿さ加減の表明のようにも感じます。トンキンとは漢字で東京。タインホア(だったか?)に都が置かれた時代があり、この西都に対してハノイを東京と呼ばれた時代があったからです。トンキン湾とは今でも使われる名称ですが「東京湾」となります。アンナンとは唐の時代の安南都護府に由来し、中国領土の「南部」が安かれという中国からの視点による名称です。コーチシナは、漢字では交跡支那、(あるいは日本語的には河内支那?=ハノイを漢字表記すれば河内、だし)で、漢の時代にベトナムに三郡を置き北部を交跡郡と名付けたことによるものです。
したがってベトナム南部・中部・北部の呼び名としては相応しくない名称なのですが、そこが帝国主義者の横暴というものなのでしょう。そしてフランスは1860年、清仏戦争の結果「仏領インドシナ連邦」を結成することになります。近代日本国家出発のわずかばかり前のことです。その81年後、火事場泥棒よろしくこの地へ軍を進めた日本政府は、それを「仏印進駐」と呼びました。火事場泥棒には相応しい言葉使いです。昨年だかハノイを訪れた小泉首相は安部仲麻呂を持ち出して日越の歴史に触れたそうですが、唐帝国から派遣された「植民地総督」みたいな人間が日本人だからと言って、ベトナム人にしてみれば楽しい話であるわけがありません。近代史の日越関係に触れられない今の自民党政府ではあれ、その辺の事情は、ODAの援助額として両政府間の暗黙の了解とされているかのようです。
台風被害の歴史は、中部海岸を沈没船の宝庫としているようです。ホイアンの土産物店などでは、今だに沈没船から引き上げられた貝の付着した陶器が売られたりもしています。沈没の原因がすべて台風ではないかも知れませんが、この時期サイゴンの日本料理店からマグロは姿を消し、漁船の被害は毎年のことです。
ハノイとホーチミン市周辺への日系企業の進出数と比べ、中部への投資は皆無に近いものがありましたが、ようやくダナンにマブチモータとダイワ精工の工場が建設されたようです。ダナン港を抱え海運の便も良い筈、とはいえ、何分いまだ便数が少ないため運賃コストの面では問題が残るとの話も聞きました。夏の猛暑と冬の冷たい雨、秋の台風という自然環境です。安価な労働力を求めてこの地に工場を建てるということにどの程度の合理性があるのかは知りません。
日本では「地震・雷・火事・親父」で防災対策の第一は地震のようですが、ここでは何と言っても台風と洪水です。北部紅河デルタでは紅河の氾濫との闘いがベトナム民族を形成し、南部ではメコンデルタの氾濫が肥沃なデルタ農業を成立させました。そして中部は台風の直撃です。チュオンソンン山脈が海まで張り出したハイバン峠の地形が象徴するように、狭い平野で山が近いため、台風のもたらす集中豪雨が毎年の如く大きな被害をもたらしています。
ダナンは、1858年ナポレオン三世のフランスによるダナン上陸、1965年米海兵隊のダナン上陸など台風以上の被災者をもたらした疫病神の上陸でも有名です。オリバーストーンの映画「天と地」Heaven & Earth の舞台でもあり、また1975年サイゴン解放に至る闘いではサイゴン軍のダナン撤退の大混乱が悲惨を極め、この時の「LIFE」紙(だったか?)に掲載された写真はいまだに記憶に残っています。
フランス人は北部ベトナムをトンキンと呼び、南部をコーチシナ、中部をアンナンと呼びました。そのように名付けたこと自体当時のフランス人の無知無理解、馬鹿さ加減の表明のようにも感じます。トンキンとは漢字で東京。タインホア(だったか?)に都が置かれた時代があり、この西都に対してハノイを東京と呼ばれた時代があったからです。トンキン湾とは今でも使われる名称ですが「東京湾」となります。アンナンとは唐の時代の安南都護府に由来し、中国領土の「南部」が安かれという中国からの視点による名称です。コーチシナは、漢字では交跡支那、(あるいは日本語的には河内支那?=ハノイを漢字表記すれば河内、だし)で、漢の時代にベトナムに三郡を置き北部を交跡郡と名付けたことによるものです。
したがってベトナム南部・中部・北部の呼び名としては相応しくない名称なのですが、そこが帝国主義者の横暴というものなのでしょう。そしてフランスは1860年、清仏戦争の結果「仏領インドシナ連邦」を結成することになります。近代日本国家出発のわずかばかり前のことです。その81年後、火事場泥棒よろしくこの地へ軍を進めた日本政府は、それを「仏印進駐」と呼びました。火事場泥棒には相応しい言葉使いです。昨年だかハノイを訪れた小泉首相は安部仲麻呂を持ち出して日越の歴史に触れたそうですが、唐帝国から派遣された「植民地総督」みたいな人間が日本人だからと言って、ベトナム人にしてみれば楽しい話であるわけがありません。近代史の日越関係に触れられない今の自民党政府ではあれ、その辺の事情は、ODAの援助額として両政府間の暗黙の了解とされているかのようです。
台風被害の歴史は、中部海岸を沈没船の宝庫としているようです。ホイアンの土産物店などでは、今だに沈没船から引き上げられた貝の付着した陶器が売られたりもしています。沈没の原因がすべて台風ではないかも知れませんが、この時期サイゴンの日本料理店からマグロは姿を消し、漁船の被害は毎年のことです。
ハノイとホーチミン市周辺への日系企業の進出数と比べ、中部への投資は皆無に近いものがありましたが、ようやくダナンにマブチモータとダイワ精工の工場が建設されたようです。ダナン港を抱え海運の便も良い筈、とはいえ、何分いまだ便数が少ないため運賃コストの面では問題が残るとの話も聞きました。夏の猛暑と冬の冷たい雨、秋の台風という自然環境です。安価な労働力を求めてこの地に工場を建てるということにどの程度の合理性があるのかは知りません。
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