何やら、パワースポットブームだそうです。そもそも、パワースポットがどのように定められるのかも知りませんが、私自身、そういうものがあるということ自体、全く否定するつもりはありません。きっと、パワースポットというからには、何かしらの大きな力(パワー)をいただけるということなのでしょう。そうだとしたら、それはとても魅力的なことだと思います。
ただし、そうした力については、きちんと考えておいた方がいいようにも思います。それは、力というのが求める者に宿るのではなく、必要な者に自ずと与えられるものではないかと考えるからです。それが、力の本質でしょう(「女神さまたちのお話」等参照)。
つまり、自分自身を磨き上げ、世界に必要とされる存在になることや、大きなパワーを与えられても、それを十分に受け取るだけの器を自分の中に用意しておくことが、とても重要なのではないかと思うのです。どうもブームと呼ばれる現象を見ていると、自分自身を鍛える努力が不十分で、力を受け取る器もないままパワースポットを廻っているような人々も、大勢いるような気がしてなりません。これでは、一部、懸念されているオカルト偏重にも繋がりかねません。
もちろん、パワースポット巡りのような旅を通じて、楽しい気分になり、心身ともにリフレッシュされ、新たな挑戦ができるといった効果があるのだろうとも思います。したがって、そういう意味では「力をもらった」ということになるのかもしれません。しかし、それでは所謂、パワースポットがパワースポットと呼ばれるだけの所以とは、少々、異なるような気がするのです。
せっかくパワースポットを廻って、大きな力を得ようというのなら、それに違わぬ努力をしていかなければならないと思います。自分自身を磨きあげ、世界観を広げ、生き方を定め、命の捨て方を決めることで、大いなる力は与えられると考えられます。それは、自分の中に力を受け取る器を用意するということでもあります。このことは、仮に神様なる存在がいるとして、誰かに力を授けるとしたら、そういう人物を選りすぐって、力を与えることになるだろうと考えることにも通じます。神様の立場からしたら、与えた力がきちんと全体のために有効活用されることを願うであろうことを想像すれば、そんなに難しい話ではないはずです。
つまり問題は、そういう神様がいるとして、自分がその神様に選んでもらえるような人物たり得るかということになるわけです。ただし、このことは逆説的ながら、どこか自分の外にいる神様の問題ではなく、単純な自分自身の中にある問題でもあるということがポイントです(「「NEXT LEVEL」だよ」、「「自分教」の薦め」参照)。
パワースポット巡りも大いに結構ですが、それにはそれに見合う準備というものがあるのではないかと思うのでした。