私たちは、子どもを育てる大人として、教えたり、諭したり、褒めたり、時には叱ったりしています。
殆どの場合、子どもに主導権を渡すことなく、大人が主導権を握っています。
しかし、
「そんなこと、わかっている。」
「それなら、やったよ。」
「大丈夫だから、心配しないで。」
などと、
大人から見ると「本当は、わかっていないのに」「本当はできていないのに」と思えるにも関わらず、子どもが断言することがあります。
子どものこの言葉を聞いた時に、「嘘ばっかり言って」「ごまかしてはだめだ。」などと言い返したり、否定したりしたくなります。
もし、子どもが訴えたいことは、内容ではなく、「大人の言いなりになりたくない」という大人が主導権を握っている言葉への反発の発言だったとしたら、子どもの言葉に乗って言い返したり、否定したりすることは、子どもにとって、これでもかと主導権を握らせない大人の傲慢さを感じさせるだけになります。
どうせ、わかってくれない。
主導権を握りたいのでしょ。
となれば、子どもは、諦めるか、否定し続けるしかありません。
うまく子どもを育てるためには、あたかも、子どもが自ら考えて、判断し、実行したかのように思わせる育て方になります。
つまり、主導権を子どもに譲っているかのように思わせることです。
主導権を譲ってしまえば、放任になります。
あたかも、主導権を握ったかのようにというところがポイントです。
お釈迦様の手の上の孫悟空のようなものです。
これは、大人の対応の仕方で決まります。
子どもは体験が少ないため、願いをもってもうまく決めることができません。
考え方が未熟であったり、やり方が不器用であったりします。
こんな時に、選択肢を用意し、その中から選ばせます。
そうすれば、選択するのは、子どもですから、主導権を握ることになります。
ただ、選択肢を用意するのではなく、願いを通すための筋道を明らかにしたり、考え方を示したりしながら、選択肢を選ぶための判断材料を提供します。
よりよく生きたいと願っているのも子どもです。よりよい選択を選ぼうとします。
もし、選択が誤ったとしても、それを責めては、自信喪失につながります。
選択を誤って体験することが、今のこの子には、必要なんだと腹をくくり、温かく見守ることができれば、子どもは失敗を通して多くの事を学ぶことになります。
命に関わることでなければ、概ね子どもに選択させても恐れることはありません。
ちょっと道草をした程度です。
これが、お釈迦様の対応と同じ対応になります。
例 勉強しなさい
勉強するのは、子ども、させたいと思っているのが親
主導権を子どもが握りたがっているにも関わらず、「早く初めて、早く終わらせたい。」「遊ぶ前に勉強させたい。」「食事前までに終わらせたい。」などの気持ちがあると、どうしても主導権を握りたがる親がいます。
「わかったわ。」「今やるから黙っていて。」「うるさいな。」などと反発したくなるのが、子どもです。主導権を握らせてもらえないと思っています。
勉強する時間・・・帰ってすぐ、遊んだ後、食事の後、朝起きてから
子どもが選択した時点で主導権を握ることになります。
ただし、その責任を取るのも子どもです。
選択した通りにできれば、「あなたに任せてよかった。」「安心した」になります。「ほら、私にもできるでしょう。」と自信をもつことになります。
できなければ、「信頼されない」「叱られる」「嘘つき呼ばわりされる」等の自分にとって望ましい状況が生まれないことに気づかせる機会になります。
そして、できるようになるための学びの機会として、足りない点を教えることもできます。
ただし、決めてもすぐにいつも実行できる子どもにはなりません。何度も失敗を繰り返しながら、学びながらできる子どもになっていきます。
この失敗の繰り返しをお釈迦様のように見ていられるとあたかも主導権を子どもが握っていることになります。
これを許さないと主導権を奪いとれば、子どもは、主導権を握ることが許されず、親の言いなりにならざるを得ない状況になります。
失敗はするもの、失敗を繰り返すもの・・・・これを受け入れることができるか、親の力量が試されています。
日常生活に追われている毎日です。これは、大変大きな問題です。
大きなつけがこないうちに子どもに主導権を譲る振りをしてみてはいかがでしょう。
殆どの場合、子どもに主導権を渡すことなく、大人が主導権を握っています。
しかし、
「そんなこと、わかっている。」
「それなら、やったよ。」
「大丈夫だから、心配しないで。」
などと、
大人から見ると「本当は、わかっていないのに」「本当はできていないのに」と思えるにも関わらず、子どもが断言することがあります。
子どものこの言葉を聞いた時に、「嘘ばっかり言って」「ごまかしてはだめだ。」などと言い返したり、否定したりしたくなります。
もし、子どもが訴えたいことは、内容ではなく、「大人の言いなりになりたくない」という大人が主導権を握っている言葉への反発の発言だったとしたら、子どもの言葉に乗って言い返したり、否定したりすることは、子どもにとって、これでもかと主導権を握らせない大人の傲慢さを感じさせるだけになります。
どうせ、わかってくれない。
主導権を握りたいのでしょ。
となれば、子どもは、諦めるか、否定し続けるしかありません。
うまく子どもを育てるためには、あたかも、子どもが自ら考えて、判断し、実行したかのように思わせる育て方になります。
つまり、主導権を子どもに譲っているかのように思わせることです。
主導権を譲ってしまえば、放任になります。
あたかも、主導権を握ったかのようにというところがポイントです。
お釈迦様の手の上の孫悟空のようなものです。
これは、大人の対応の仕方で決まります。
子どもは体験が少ないため、願いをもってもうまく決めることができません。
考え方が未熟であったり、やり方が不器用であったりします。
こんな時に、選択肢を用意し、その中から選ばせます。
そうすれば、選択するのは、子どもですから、主導権を握ることになります。
ただ、選択肢を用意するのではなく、願いを通すための筋道を明らかにしたり、考え方を示したりしながら、選択肢を選ぶための判断材料を提供します。
よりよく生きたいと願っているのも子どもです。よりよい選択を選ぼうとします。
もし、選択が誤ったとしても、それを責めては、自信喪失につながります。
選択を誤って体験することが、今のこの子には、必要なんだと腹をくくり、温かく見守ることができれば、子どもは失敗を通して多くの事を学ぶことになります。
命に関わることでなければ、概ね子どもに選択させても恐れることはありません。
ちょっと道草をした程度です。
これが、お釈迦様の対応と同じ対応になります。
例 勉強しなさい
勉強するのは、子ども、させたいと思っているのが親
主導権を子どもが握りたがっているにも関わらず、「早く初めて、早く終わらせたい。」「遊ぶ前に勉強させたい。」「食事前までに終わらせたい。」などの気持ちがあると、どうしても主導権を握りたがる親がいます。
「わかったわ。」「今やるから黙っていて。」「うるさいな。」などと反発したくなるのが、子どもです。主導権を握らせてもらえないと思っています。
勉強する時間・・・帰ってすぐ、遊んだ後、食事の後、朝起きてから
子どもが選択した時点で主導権を握ることになります。
ただし、その責任を取るのも子どもです。
選択した通りにできれば、「あなたに任せてよかった。」「安心した」になります。「ほら、私にもできるでしょう。」と自信をもつことになります。
できなければ、「信頼されない」「叱られる」「嘘つき呼ばわりされる」等の自分にとって望ましい状況が生まれないことに気づかせる機会になります。
そして、できるようになるための学びの機会として、足りない点を教えることもできます。
ただし、決めてもすぐにいつも実行できる子どもにはなりません。何度も失敗を繰り返しながら、学びながらできる子どもになっていきます。
この失敗の繰り返しをお釈迦様のように見ていられるとあたかも主導権を子どもが握っていることになります。
これを許さないと主導権を奪いとれば、子どもは、主導権を握ることが許されず、親の言いなりにならざるを得ない状況になります。
失敗はするもの、失敗を繰り返すもの・・・・これを受け入れることができるか、親の力量が試されています。
日常生活に追われている毎日です。これは、大変大きな問題です。
大きなつけがこないうちに子どもに主導権を譲る振りをしてみてはいかがでしょう。