走快エイトの気まぐれ人生

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亡祖父の想い出

2009年02月09日 05時32分12秒 | 自分&家族
尊敬していた大好きなおじいちゃん。明治43年2月生まれでしたので、生きていれば先日99歳を迎え、来年で生誕100周年となります。昭62・4・1にバイクで走行中、トラックにはねられ即死しました。(享年79歳)私が幼い頃から、既に高齢でしたので、祖父の若い頃のことは良く知りませんが、父から聞かされた祖父のイメージは、私の抱いていたものとかなり違っていました。

祖父は、齢のわりに元気ハツラツで、深夜遅くまで書斎で勉強していたのを覚えています。口癖で、自分は若い頃に柔道をしていたから喧嘩は負けないと、私が高校生の頃まで言われたものです。女房と交際している頃は、早く嫁にもらえと発破をかけられました。普段から健康に気を遣っていたので、100歳まで生きるだろうと確信していましたが、事故であっけなく亡くなってしまいました。

事故に遭う直前まで、家で共に高校野球のテレビ観戦をしていた弟の話では、用があるからと言って出かけたけど、出発する時間がずれていたら死なずに済んだろうとのことでした。当時の私は成田空港勤務でしたが、4月1日付けで島根県松江市にある二人勤務の出張所へ異動命令を受けていました。葬式のため新しい職場への着任は4月7日となり、所長には最初から大変迷惑をかけてしまいました。

女房との結婚は、転勤や祖父の死があったことで、翌63年2月末に遅れましたので、残念ながら祖父に晴れ姿を見せることが出来ませんでした。さて、父から聞いた話ですが、祖父は戦争でシベリヤへ行き捕虜となり、地獄のような体験をした後、栄養失調の身体で帰国してきたそうです。それから長い間にわたって教育委員や教育長などを歴任し、町長選にも候補として出るよう要請されたことがあるそうです。

しかし、相手候補が近所に住んでいる将来有望な人格者でしたので、自分は身を引いたとか。相手は選挙に勝ち、その後何十年も町長を務め、町の発展に尽くしてくれました。私の長男は高校受験で、私の母校を滑り止めにし、なんと祖父や前述の元町長の母校である高校に進学しました。これも何かの縁でしょう。プロ野球界のスターであった元巨人の長嶋さんが出た学校と言えば、校名が分かると思います。