走快エイトの気まぐれ人生

家族・スポーツ・スペシャルオリンピックス・教育・消防団・仕事・テレビ番組などの話題を、気ままに綴っていきます。

消防団を卒業して思うこと

2014年10月16日 20時00分53秒 | 消防団
私は消防団に平成2年4月から参加し、26年3月末で卒業しました。就職してから故郷を離れていたものですから、一般的な入団者の年齢からすれば高齢の28歳からのスタートでした。しかし、まさか20年以上続けるはめになるとは、全くの想定外でした。通常は、入団すると順番に役をこなし、10年目くらいで分団長といって消防団のリーダーを務めて退団するものでした。ところが、私が平成12年に分団長となった時から、状況は一変しました。それまでは、半強制的でも地元の若者が消防団に入ったものですが、家を離れて遠隔地に住んで働く人が増えてきて新入団員がなく、私は分団長が終わっても辞められず、一番下に戻りズルズルと消防団を続けるはめになりました。

時には、一応は入団したけど仕事で遠隔地に転勤となり、数年で退団した方も数名いたのが、その犠牲になった気がします。時代のせいでしょうか、私の地元では20年を超える団員が私の後も続々と生まれています。私のように消防団活動にずっと参加し続ける方は少なく、「幽霊団員」といって名前だけで全く活動に参加しない方が殆どです。実際に活動しない方は、ただ名前が残っているだけで、退団する際は継続した年数が考慮され、多額の報奨金を手にするというのは、絶対におかしいです。このお金は国民の税金から工面されているのですから、「幽霊団員」は全国の消防団で葬り去らなければなりません。OBになっても、消防団の後輩たちが気になって仕方ありません。

実は、フェイスブックで消防関係者のグループを立ち上げ、管理人を務めています。また、消防関係の他のグループにも参加していますので、たとえOBになっても気持ちは現役の消防団員と変わらないと自負しています。ネット上ではありますが、消防署員・団員・将来の消防署員を目指す学生などとも繋がりがあります。防災という観点からすれば、何歳になっても自分で家族を守ること、地元の住民を守ることは、義務だと思っています。近所に住む6歳年下の弟が、地元消防団で副分団長を務めているので、団員とは密に連絡を取り合っていきたいと考えています。OBとして、協力できることは積極的にしていきたいと思っています。(写真は昨年の夏に私が操法訓練で指揮者をして町の大会で優勝した際のものです。)
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平和じゃないと、こんなことも困るんですね。

2014年10月14日 22時20分46秒 | 自分&家族
2014/10/14 フェイスブックに投稿した文章を、ご紹介させて頂きます。これは、福祉に関わる大勢の方に対して失礼な内容かもしれませんが、知的障害者を持つ家族としては考えざるを得ないものとして、ご理解頂ければ幸いです。

「個人的なことですが、もし戦争が起こったら、どんなことが今の自分にとって大変なのか?困るのか?考えてみました。ちょっと、第三者には極端な話に感じるかもしれませんが、ご了承願います。10月14日20時から某国営放送で放映された番組で、「沖縄で語りだした障害者たち」という映像を視聴して、考え込んでしまいました。私には、知的障害を持つ子どもがいます。年齢は19歳ですから、戦争が起きれば徴兵されるのは避けられません。見た目は健常者と変わりませんし、体格も172cmで75kgといった堂々とした体格です。障害について理解していない方からすれば、息子はキビキビトした動きが出来ませんし、相手の話を理解する力も劣っていますので、ふざけているとか、故意に仕事をさぼろうとしていると勘違いされるでしょう。昭和の戦時中の映像を見ると、きっと息子は軍隊の教官に半殺しにされるか、本当に殺されてしまうかもしれない恐怖感が湧いてきました。敵国とされる相手の国の兵隊からではなく、自国の先生とされる教官に殺されたら、親の私は狂ってしまい、その教官への復讐に命をかけてしまうかもしれません。

目が見えない、片腕がない、車椅子に乗っているなど、身体的な障害ならば、誰が見てもすぐに障害者と理解できます。しかし、知的障害は違います。見た目は健常者であり、障害者とは分かりません。言動をしばらく見れば、何か変だと感じるかもしれませんが、なかなか障害によるものと理解するのは難しいことでしょう。平和な世界だからこそ、障害者についての福利厚生が、国や地方自治体により実施されているのです。万が一、再び戦争が勃発したら、真っ先に障害者は戦えないとか、避難する際の邪魔者になると考えられ、健常者である多くの自国民に虐(しいた)げられることでしょう。どんなに素晴らしい知識のある福祉の専門家であっても、経験豊富なスタッフの方でも、いざとなれば自分を守ることを優先し、障害者は蚊帳の外。彼ら、彼女らを守れるのは「家族」だけといった気がしてなりません。先般、朝ドラでヒットした「花子とアン」でも戦時中の様子が克明に表現されていましたが、結局は弱者は生きる術(すべ)がないに等しいのでは?歴史は繰り返すと言われますが、決して日本は戦争に巻き込まれても、自ら起こしてもいけないのです。」
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モノを増やさない工夫

2014年10月11日 19時53分12秒 | お気に入り
先日、フェイスブックで知り合った仲間から、消防関係のグッヅがオンライン購入できる情報を入手しました。魅力的なグッヅがたくさんあり、ついつい余計に購入してしまいました。その額、なんと1万7千円。レインウェア上下はさておき、記念大会などのTシャツをたくさん選んでしまいました。普段から、女房にはTシャツの多さを指摘されていますので、今回は角が出る前に自主的に古いシャツの整理をして、購入した枚数分を処分することにしました。

走る趣味があるため、スポーツ店などへ行くと、機能的なシャツが安売りされていると衝動的に購入してしまう癖があります。そのため、着回しているシャツの合計は、冬物と一緒に仕舞い込んでいるものを除いても、ざっと50枚程度。また、フェイスブックで多くの走友会に入っている関係で、仲間意識を高めるため購入した記念シャツは、想いが詰まっていて、愛着があります。しばらく我慢していた分、今回は爆発してしまったのかもしれません。
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まだまだ進化できる可能性あり!

2014年10月05日 09時35分43秒 | 健康管理
9/30、「再び月間200km走る」という目標を、なんとか達成しました。昨年10月から今年1月までの4カ月続けての達成以降は、花粉症や転勤による生活環境の変化など様々な理由で、2月から5月までは月間100km走ることさえできませんでした。ちょっと、今年と昨年の違いを、9月分の練習記録を見ながら比較してみました。

昨年は、日勤の部署に所属しており通勤ラン実施で27日間も走りましたが、うち14日間は通勤ラン3kmだけで、通算は162km。ところが、今年は13日間しか走っていませんが200kmに達しました。実は、3交替制勤務の部署で、夜勤明けの日こそ夕方だけでしたが、休日は昼前と夕方の2回走りましたので、走った回数は22回。

学生や実業団の選手でない一般の社会人が、1日で2回走るには日常の予定を調整することが必要です。着替え・準備運動・1時間走・入浴といった流れ作業をこなすには、1時間半は必要です。それを2回なら、3時間を走るために費やすことになります。走るために、家族の協力も必要ですが、自分でも何かを犠牲にする必要がありました。

2回走ることに慣れるまでは、一方がスロージョグになっていました。しかし、徐々に慣れてきたのか、夕方でもリフレッシュした気持ちと身体で走れるようになりました。9/29、まず10時から18km、17時から12km走れました。まだ一度に30kmは走れませんが、2回に分ければ可能になりました。進化している証拠ですね。(写真は、1984年にホノルルマラソンを完走した際のものです。)
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