思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

懺悔道としての哲学

2014年06月01日 | 哲学

 5月6日付の『ニヒリズムを如何にして超えるか』ブログにかささぎの旗さんからコメントを頂いたので、当該ブログに書きたいと思います。

 人間の実存とは、トマス・アクィナスの用語を借りて言えば、「多様なものの統一」なのだそうです。そして芸術も多様性における統一とも言われ、日記帳に簡単な絵を描くにしてもそこには集中して心の奥底から絵筆を動かす形成の力が働きます。

 まさにそこには統一があるように思います。CHAGE & ASKA 『On Your Mark 』もまたそのように善しとしての美しさ形成された作品なのだと思います。

 世間を騒がしている事件の被告人になった人物というイメージは、作品のもつ美しさを作りだす人物というイメージと大きなギャップを与えます。

 「人間とはそういうもの」

 人間は己の法則に囚われる。依存性のある薬物、止めどなき性的欲望・・・歯止めのきかない法則性に染まってしまうと、衣服に沁み込んだ匂いの如くに取れないものです。

 薫習(くんじゅう)とはよく言ったもので燻製のようなもの。

 精神と肉体のバランス。

 人が人になるために、人間の姿に織りだされる形成の働きはどこから来るのでしょう。

 意を離れた神秘の世界からか?

 善き行いをする人は、反省のできる人、懺悔を行える人だという話を聴いたことがあります。

 愛すること美しく生きようとすること、そこには懺悔のこころが織りなしの力として働いているようです。

 それが意を離れてもおのずから「なる」ならば、ありがたさに涙がこぼれます。

 ある人はそこに宗教性を導くでしょう。

 薫習は一生取れないもので、抑えるしか方法はないと言います。

 形成の働きに己の囚われの法則を付け加えると、必然的な結果があるだけです。

 今現在被疑者ですが、起訴されれば被告人。

 他人の手によって裁かれることになるわけですが、神からの愛と取る人もいるでしょう。

 大いなる懺悔が必要となります。

 まめなる反省が、善き行いに通じることを心の片隅に置くべきでしょうね。

 まめなる反省に生きる。

 そんなことをしなくても、普通に生きている人は、普通に備わっている話です。

 『懺悔道としての哲学』(田辺元著)

 このタイトルがとても気になったのです。「絶対無即愛」すごい話です。