思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

我ありと思う思考の背景にあるもの

2014年06月16日 | 思考探究

 ブログを書くなかで思い至るのは、過去ブログを検証するまでもなくそこに記された自己の思考の表明は、紆余曲折し一貫性は定まらず、揺るぎなき信念も含めたものは一生ひとつもないように思う。しかし美しき善き生き方を求めようとするときに一つの疑問が起きます。

 それは「善きものとは何か」を問うときにも、揺るぎなき我がないということです。しかし揺るぎなき魂の存在を「ある」とするならば、揺るぎなき我はそこにあると限定することができます。

 魂と言うとどうも怪訝そうな顔をされそうですが、超越的存在でもあるパラダイスを信じるならば、変わらずある我をパラダイスに思い、せめて現世においてはあるであろう根源の魂からパラダイスにある我に等しい存在を求めるに違いなく、支配者である神はそれを求めていると思うのに違いありません。

 したがって今生世界において「我あり」と言いきれるのは、不変なる魂がその背景にあることは確かです。

 「人間が人間らしく」という言葉を置いて、イヌはイヌであり続け、ネコはネコであり続けるを考えると、人間だけが人間いなる努力が必要である、という話になることはこれまでもブログに書いてきたことです。

 この思考の経路はあくまでも自己中心的な意志の指向で、「人間が人間らしく」という言葉に視点を変え、間主観性をおくと「扱われたい」という社会学で言うところの他者性が出てきます。まさに人間関係が出てきます。

 この内と外への指向性の視点転回に我は我であり続けること置きたくなるのが普通であろうと思います。

 哲学者でキリスト教学者森有正先生の言葉を借りるならば「思考するものとしての我の存在を直証しえたと信じることになる。」ということです。

「かれはいかにしても疑いを容れる余地のない事実(概念)として、この方法的に求める思考活動 cogitare そのもの(についての判断)に逢着し、それを承認し、是認し、それを我の存在そのものの内容とも意味とも考えたのであった。かれはこの思索することそのことをきわめて精密に考察し、規定し、我々はその結果をすでに『精神指導の規則』《Regulae ad directionem ingenii》や殊に『省察録』《Meditationes》 の中に窺うことが出来る。この思考がまた同時に懐疑であり、方法の行使であった。かれにあってはこの懐疑は悟性活動そのものであって、そこには些かも身体的なもの、想像的なもの、情念的なものの残滓はない。かれはかかる思考において自我の存在を直証した、分析の果てに発見した。更に正確に言うと分析の働きそのもの(についての反省)において自我の存在を自覚したと信じたのである。しかしかれはかく思考することそのことが、即ちかれの規定によるならば単純なる観念の直観とそれを基礎とする演繹とになる思考が、求めることの、更に一般的に言えば、人間存在の、一つの可能な在り方に過ぎないという一点を看過ごしていたのである。かれは思考において我の本質と存在とを離れがたく結合したものとして見出した、即ち現に存在する我とはかかるものであると主張したのである。その結果かれは、かれ自身が理解した意味の思考活動がその本質的属性とする人間の魂(アニマ)すなわち精神を実体として定立し、延長をその本質的属性とし、無限に分割せられうる物体からそれを実在的に厳密に区別し、身体の分解(死)によって影響されぬ精神(魂)の不死性 immrtalitas animae を証明したと信じたのである。しかしデカルトのかかる理解が一つの可能的なものに過ぎぬことは明らかである。」(森有正全集11p109-p110から)

 私は私であること、我が我であることが、普遍的に「あり得る」ことは不可能であることは、わかる。老いの姿に如実に現われてくるものでもあり、我を失っていることにに気づけないこともあり得る。それを自覚できない所にまた我無き姿を想う。

 永遠なる不滅の魂がない限り、善きものなる普遍性を持たないことになります。

 最初の人間関係にもどりますが、森先生は「人間関係における人格の三要素」の中で他の人と生きていると次のことが現れてくると言います。

第一 敵対意識

第二 他人に対して自分は責任があるという意識

第三 同情(シンパシー)

 森先生は他人との関わりの中に、この三つが出てくると言います(『いかに生きるか』(講談社現代新書・p29)。思うにここには唯一性と責任性があり、同情は慈悲心にもつながるように思います。森先生は信仰者で、「信仰をもっていても、私は有神論者ではないといったら、矛盾であろうか。」と「はじめに」に書かれる方でその真面目さが伝わってきます。ここで言う信仰とはキリスト教をいいます。

 一方仏教では、魂の存在では「毒矢のたとえ」で示されるように、お釈迦さまは「無記」をとおされ言及されませんでした。

 「空」(シューニャ)にして、大乗仏教は「仏性」という仏になる可能性を人のみならず説きます。

 善き生き方は、死ぬための生き方へと、この歳になりヒシヒシと実感します。

 でもそれもひょっと失うかもしれません。失ったことさえ解らないかもしれません。

 「無常観」とは、そういう「空」から成るものかも知れません。

 月曜の朝から何を言わんとしているのか。

 ある方の導きによって哲学者でキリスト教学者森有正という存在を知り得たことに感謝です。