思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「もの」という言葉から・観照(テオリア)

2014年06月02日 | ことば

 安曇野市では毎年6月になると毎年旧豊科町にある豊科近代美術館のバラ園の「バラ祭」が開催されいます。今年も5月31日(土)~6月8日(日)の1週間開催され行ってきました。









 遠くに北アルプスが見え、全体的な雰囲気とともに真夏日ですがすがすがしさを感じ、色とりどりのバラの花びらの色、そして漂い来るバラの香り何とも言えません。

 四季は移ろい循環するのですが、何事もなかったように決まってこの時期に咲くのですから円環、回帰などという考え方も自然の移ろいとともにしっかりと人間には作られ備わっているのが当たり前のように思えます。

 そういうものなんでしょうね人間は。

以前いも書いたことですが、国史学者の西田直二郎(1886年12月23日 - 1964年12月26日)先生は、『日本文化史序説』(昭和7年2月)の第四講「古代文化の概観其の一 神人融合 四八」に次のように書かれています。

 「草木咸能言語」。また「天地割判の代、草木言語せし時」ありとしたのは、古代の日本人が、わが住む世界について考えたこころである。われらの祖先は、その四周の山川草木のことごとくから、よく生ける声を聞いたのである。このこころのうちには自然の事象と人間の生命との区分が、なおあきらかについていない。而してこれはまた神と人との境が、いまだ大きく分けられていない状態であった。
 ここで示されている、「草木咸能言語(くさきことごとくよくものいう)」は、日本書紀巻二神代下、「天地割判(わかる)の代、草木言語(ものかたり)せし時」は、同じく日本書紀巻十九欽明天皇十八年に書かれている。<以上>

草木が「ものを言う」という話です。日本書紀で語られているこの「草木咸能言語」ですが、を日本書紀の注釈書で見てみると次のように書かれています。

○中央公論社 日本書紀上(1987年3月) 井上光貞監訳P128当該語句の前後から

 その地には蛍火がかがやくように、また蠅のようにうるさい邪神たちがいるし、また植物である草も木もことごとく霊をもち、ものを言って人をおびやかすありさまである。

○小学館 日本書紀1(1994年4月) P111

 その国には蛍火のように妖しいく光る神や、五月頃の蠅のようにうるさく騒ぐ邪神がいた。また、草や木もみな精霊を持ち、物を言って不気味な様子であった。
 注釈14:古代人は草や木にも精霊があり、物を言うと信じていた。祝詞「大祓」や「常陸風土記」でも同じく、草木の精霊のざわめきを「語問(ものい)ふ」時は人間を脅かすものと考えていた。

○岩波書店 日本古典文学大系67(昭和42年3月)) 日本書紀上 P567補注2-二「草木咸能言語」

 大祓いの祝詞にも「荒ぶる神等をば神問はしに問はしたまひ、神はらひに掃ひたまひて、語問ひし磐根樹立、草の片葉をも語(こと)止めて」とある。コトトフは物を言う意。磐や木立や草の葉が、物をいうことは、荒ぶる神たちが活動するのと同列に取扱われている。

これらの注釈は、日本書紀下神代の本文である「草木咸能言語」ですが、同第六別伝には

 「葦原中国(なかつくに)は、磐根(いわね)・木株(このもと)・、草葉(くさのかきは)も、猶能(なほよ)く言語(ものい)ふ。夜はほ火の若に喧響ひ、昼は五月蠅如(さばえな)す沸き騰る」(上記岩波書店本)とあり、磐根や木の株、草の葉が、ことごとく物を言うのである。

 これらの注釈等からは、岩石草木等に「す魅(すだま)」や「木霊」などの邪神が宿っていて、草木が物を言った、と古代日本人は考えていたようです。

 草木が本当に言葉をしゃべるわけがなく、この文言から言えることは古人(いにしえびと)は「草木や岩石がものを言う」と感じていたということです。

「もの言う」という言葉、どうしても漢字の「物」を使い「物言う」と書きますし、物語も一つの作品と見ればそれは「物(ぶつ)」という一つの「かたまり」的な感覚で理解しますが、「もの言う」の「もの」になると、そこには「言葉を発する」「しゃべる」すなわち「もの申す」という人間的な類似「物(ぶつ)」として成りて在る意が理解できます。

 草木とはそういう「もの」なんだよ。

 そこには人間と同じような「もの」なんだよ。

と、哲学者の梅原猛先生が3.11東日本大震災の原発事故後に特に強調する『勘定草木成仏私記』の「草木国土悉皆成仏」という意味するところが、元をたどればアイヌの人々にみる縄文文化、狩猟採集民族であったころの日本人の「こころ」が、今後の社会の中で自然との共存、人と人との共存に欠かせないものをいう指摘がありますが、上記の日本書紀の記述もまさにその事を語るものです。

「もの」という日本語、昔からある言葉であり声音です。

岩波の古語辞典を見ると、

もの【物・者】
1(名)《形があって手に触れることができる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対してモノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。また恐怖の対象や、口に直接のぼせることをはばかる事柄などを個個に直接に指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体と蔑視した場合から始まっている》

(1)物体・物品などを一般的にとらえて指す。

(2)《動かし難く、確実でのがれがたい事実や法則》
  ・既定の事実。
  ・一般的なきまり。さだめ。
  ・いつもの例。いつものこと。

(3)《対象の性質や状態が、はっきりとは言えないが、ともかく意識の対象となる存在》
  ・いろりろの状態。事態
  ・何か分らない存在

(4)《人間が恐怖、畏怖の対象ととするもの、あるいは競争者として立派な存在などを、直接指すことを避けて、一般的存在のように扱う表現》
  ・鬼。魔物。怨霊。
  ・ひとかどの(立派な)存在。

(5)明確に指示せず、ぼんやりと表現したい対象をいう話。

(6)《社会で一人前の人格的存在であることを表現するヒト(人)に対して、ヒト以下の存在であるモノ(物)として蔑視あるいは卑下した場合に多く使う表現》

その他に「接続詞「助詞」として使われる「もの」の解説もありますが、ここでは省略します。

1ページに満たない解説記述ですが多くのことを教えてくれます。

バラ園の中に「万葉」というバラがありました。このバラにどうして「万葉」と名を付けたのか、名づけた方はおそらくそこに「万葉」を見たのでしょうね。

「君、イマジネーションがなければダメなんだよ。」

 小林秀雄先生が学生との対話のなかで語っていましたが、想像力といってしまえば狭いでしょうね。

 古代ギリシャ哲学者でネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者といわれるプロティノスという哲学者がいます。このプロティノスの観照(テオリア)という言葉があります。中央公論社の『世界の名著2プロティノス、ポルピュリオス、ポロクロス』ではプロティノスは次のように語っています。

・・・まじめな態度で考察をすすめる前に、まず、たわむれに次のように語ってみることにしよう。
 「この世の中のものは、理性的な生きものぱかりでなく、理性をもたない生きものも植物の生命(ピユシス)も、またこれらをはぐくむ大地も、すべてが<観照(テオリア)>を求め、これを目指している。そして、すべてはその本性の許す範囲で精一杯の観照をおこない、その成果を収めている。ただし、それぞれの観照の仕方や成果にはちがいがあり、或るものの観照は真実を得ているが、別の或るものの観照は、真実の模像もしくは影を得ているにすぎない」と。

<以上>

注釈には次のように語られています。

  この「観照」は、自分より上位のもの・すぐれたものを「観る」こと。プロティノスにおいては、すべては「一者」より直接的もしくは間接的生れたのである。したがって、すべては自分の産みの親である一者を慕い求めるわけであるが、これが(うみの親を)「観る」という働きになってあらわれるのであって、下位のものは上位のものを観ることによって、その生命を得ているのである。

存在は形成の働きの中で平等にその姿を現わします。

花も人間も形成の中に異なるところはありません。

存在は観照を求めている。

「すべては自分の産みの親である一者を慕い求める」

「産みの親」とは「~成り」の働きです。観照も働き。「生命(いのち)を得ている」と読むならば、プロティノスの観照(テオリア)の考え方は、みごとな「うつくし」「うまし」です。