ブログを書き続ける中で、学ぶということ、知るということをテーマにしたことが多くあります。
思考視点をあちらこちらに巡らす中で、その度毎にそうなんだよなぁと、納得しながら今日まで来ています。
還暦間もなくの中で私よりも12歳年上の二人の人生を見ました。戦後の混乱の中で義務教育をうけられなかった72歳の男性と女性の二人だけの卒業式。
東京都心にある小さな中学校。二人だけの卒業式。
数日前に5月31日に放送されていたEテレのETV特集「学ぶことの意味を探して~神田一橋通信制中学~」はその二人の姿から始まりました。
戦後混乱の中で家庭の事情で義務教育を受ける機会を奪われた人のための学校があることは知っていましたが、実際を知る機会がありませんでした。
私は1954年(昭和29年)生まれですから、卒業生の男性と生まれ月が一緒で丁度12年の差があります。私の年代では家庭の都合で義務教育を受ける機会を奪われている人はいなかったように思いますが、戦後の混乱期、福祉の充実といっても各家庭の貧しさまでも平等にしていくまさに国の力がなかった時代です。
やはり子供は弱い立場にある。
今は親の実力が左右される時代、生をもたされ義務教育の世界に入っていく。みんなが行くから決まったように同じ道を進みます。中には親離れからなかなかできない子もいて、親に手を引かれ泣きながら学校まで来る子もいます。
戦後の混乱期は、今の若い人には信じられないような人生があったわけでこの番組には多くを学ばせていただきました。こういう機会に恵まれたことに感謝です。
番組の中で男性が「自分の目の前が開けてくる。」「勉強を積み重ねていくと色々なことが分ってくる。」ということを話されていました。
この言葉に個人的に何かがわかったような気がしました。
私はこの歳になって知識欲が旺盛になり、「終盤を迎えてなぜ学ぼうとするのか」という番組制作の大きな問いでもあるのでしょうが、「学ばなければいけない理由」それはおのずからあるように思います。
人よりも知識力が劣るからという理由よりも、心の底から解りたいという知識欲が湧いてきます。
渇愛の払拭が仏教の教えならば、それに反する行いになるのでしょうか。
否、違うなぁ。
わかろうとする、そこには「わかる」という言葉があります。漢字に変換させれば「分る・解る・判る」となり、分別もあれば、理解もあり、そして判断もあります。もっと多くの「わかる」世界があるでしょう。
生物学の授業の中で、植物の細胞を顕微鏡の観察する様子がありました。男性はタイル工の経歴もあり、その細胞の並びが、タイルの並びと同じことに感動されていました。
それは、植物の世界と人間が創りだす物に共通点があることを教諭は説明されていましたが、まさにそこが「わかる」の一つに思えました。
深緑の瑞々しさに生命の息吹を感じる時、私個人の感じる感覚の総体の片鱗の中に過去に体験している、顕微鏡の向こう側の世界や生物で学んだ知識が、さらに最近の細胞の働きについての知識が大きく関わっています。
そんなことを知らなくても、古代人も近代の人々も、時代の人は同じようにその瑞々しさを味わっていたのは、私的な世界に大いに表現されています。
しかしねぇ。
現代人ははるかに「わかる」世界が広がっていると思うのです。
お二人の卒業生は、高校にも進学すると決意し、既に実行されていると思います。
「やさしくなれる」、他人に対して寛容に成れる、3年間の学びの姿が放送される中で、これが学びの中にある「わかる」の意義ではないでしょうか。
過去ブログに「最終的には教育が大切」とコメントを寄せてくれた方がおられましたが、その意味がようやく理解できました。
世の中は最高学府に学んだ人が多くおられて、世の中をリードされているのですが、一体全体なにが「わかって」いるのでしょう。
"学ぶことの意味"
うつくしい生き方、お二人の生き方に美しい姿を観ました。