個人的に読経する『般若心経』に登場する「色即是空」、そこに「空」なるものの意味が解かれます。
「身心皆空」とも語られるように、身体も精神も「空」と語られ、そこには我執がないのであるから「無我」とも「非我」ということにも「空」は重ります。
「身」は、色であり、「受・想・行・識」は精神の働きを意味し「心」ということになります。「身心皆空」とは般若心経の「五蘊皆空」と同意味になります。
サンスクリットで「シューニャ」と発音されたその言葉は、漢訳では「空」という一文字で表わされています。「何々が欠けている」というときに使われる言葉で、実体がない、実体が欠けている、妊婦の孕んでいるにも通じる言葉のようです。
インドの数学では「ゼロ(0)」のことを「シューニャ」と言い、インド人が「ゼロ(0)」の発見者であることは周知の事実です。
仏教学者で比較思想家でもあった先生は、
【中村元】 インド人が考え出した観念がアラビアを通って西洋へ渡っていったわけです。そして、西洋を通じて我々日本人にも知られ、使われているわけです。ゼロというのはどの数字でもない、否定的なものです。それと同じように我々の存在を構成しているものは、未来永劫、何千年何万年も固定して残るものではないでしょう。いろいろの条件に恵まれてここに現れ出ている。しかし、その縁が消え失せればまた消えます。「無常」と言っても同じことです。「無常」というのは消え去る方面だけをいうわけですが、固定的な実体がないという点を強調すると、「空」ということをいうんです。(NHKこころの時代「東洋の心を語る~飛ぶ鳥に迹なし~」から)
と語り、「空」はまた「無常」という言葉の意味に重なります。
このように仏教における「空」は、「=」を使うと、
「空」=「縁起」=「無常」=「無我・非我」
これは論理学(推論の妥当性についての学問)ではなく因明(推理における理由に関するもの)による「ことわり学」ということになるようです。
単語の意味
単語で作られる文章の意味
「意味」とは何ぞや?
「ことば(語)とは単なる音声ではなくて、音声を超越して実在するものである。音声は無常であるが、語は音声と意味との媒介体であって常住である」
などと古代のインド哲学では上記のような用法で「無常」という言葉を使う学派もあったようです。「無常」という言葉は「常に移りかわっていくこと」を意味し、「無常感」「無常観」という言葉としても使われます。
「空」=「縁起」=「無常」=「無我・非我」
の等式には語るには、単語で作られる長い文章が必要ですが、一方感覚で分ると「そうなのか」という納得で終わります。これが西洋の論理と因明の違いなのかもしれません。