思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「もの的世界観」が第一次的ではないか。

2014年06月06日 | ことば

 「もの」と「こと」という日本語を考えているのですが、前回のブログで英語学者の安西徹雄先生が語る「英語はコトタイプ、日本語はモノタイプ」「英語は名詞中心であり、日本語は動詞中心である」という主張を書きました。

英語はコトタイプ=英語は名詞中心

日本語はモノタイプ=日本語は動詞中心

 昨夜のNHK視点・論点一橋大学石黒圭教授の「日本語の空気」という話でした。一人称の日本語の多いことは多く指摘されることで、日本人は一人称を使わないことが多く、また使われる際は、その場の雰囲気、自分のキャラを意識した選択で使われます。

 私、僕、俺・・・

 番組で石黒圭教授が語ったことではありませんが、それぞれの一人称の言葉に外に対する働きが含まれています。聴く相手に「私はこのような者です」ということを主張していることを示しています。

場に合せた使い方や人間関係における親しみの度合い。

がそこにある「こと」が理解できます。この「こと」は、事実やそのような事態を生じさせている、あきらかに動詞的な、働きの世界が事的世界を作り上げているということが言えるように思います。

 西田哲学では事的世界観を第一次的にとらえることが言われます。次の文章は時々引用する藤田正勝先生の『哲学のヒント』(岩波新書)の第4章「実在」における「もの」と「こと」論の一説です。

<藤田正勝先生の『哲学のヒント』から>

 リンゴが赤く、つややかに見えるというと、やはり一個の目の前にあるリンゴという「もの」を考えているのではないかと思われるかもしれません。しかしここでは、先ほど言ったような、誰からも同じように観察できる「もの」を想定し、そこから出発するわけではありません。あくまでそのリンゴが赤く、そしておいしそうに見えるという「こと」から出発します。そのようにおいしそうに見え、食欲をそそるということ、それが、私たちが目の当たりにしている現実なのだ、という理解に立ちます。もちろん、そのような立場も、そのおいしそうに見え、食欲をそそるという現実から翻って、そのように赤く見えさせているものを考えます。しかし、それはあくまで第二次的なことであって、第一次的なのは、このリンゴが赤くおいしそうに見えるという「こと」である。・・・・・

・・・・・ 「主観」から独立してそれ自体としてある「もの」ではなく、たとえばリンゴが赤く、つややかに見えるということ、そしてそれがおいしそうに見え、食欲をそそるということ、こうした「こと」から成り立つ前の世界こそが現実の世界であるという言いますと、何か荒唐無稽なことを言っているように受け取る人がいるかもしれません。しかし、そのように考える人は、「もの」と「意識」(意識の内面)という二つの極を考え、そしてその一方の極である「意識の内面」にあるものが第一次的なものだと言われていると受け取っているのではないかと思います。

<以上上記書p96-p97から>

ここに事的世界観を第一次的に捉えていることが分ります。

私は今「捉えていることが分ります。」と書きましたが、これは、「そのように成り立つ世界」に生きているという話だと思うのです。

 成りて在るリンゴ、このリンゴが赤くおいしそうに見えるという「こと」。人間とはそのようにおいしいと感じる存在として形成されている「もの」である。

 そういう「もの」なんだよ、と、語ってもいいと思うのです。

 そう思ってしまう、そのように考えてしまう、そのように見えてしまう存在、それが人間で、思うに、第一次的には「成りて」を置くべきではないか、と考えたくなります。

「そういうモノなんだよ人生は・・・」

「そういうコトなんだよ人生は・・・」

 そこにリンゴが在るという「こと」は、成りの果てであって、意識する私にとっては内から表出される認識感覚ですが、内と外の観照を考えると「何ものかの働きによる」という外からの働きを感じます。雨水が大海となり、そのような事象が事物を形成する。そういう「事・こと」に落ちつく、そこに大海という「物(ぶつ)」が在る、のではないか。

 もの的思考が、おのずからに形成の力として、働きとしてあるのではないか。

 そこでどうしても問題になってくる「純粋経験」。

 意識・認識の最先端の初発の目覚め

 混沌とした闇の世界から響きわたる騒音の中から、その音が「母の声」であると知るその瞬間に、「こと」のまえに「もの」という働きが大きく関わっているのを感じるのです。