思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「怒り」のプログラム

2014年06月30日 | 哲学

 書くことがないのでジョニー・デップ主演映画『トランセンデンス』に関連した話を今朝も書こうかと思って話を進めるわけではなく、先行公開を見に行こうとまでに駆り立てられる心理が働き、その結果、多くの問いを投げかけられ思考好きの私は、今朝も書くことになります。

 スーパー・コンピュータにインストールされたウィルの意識、そこで単純に問いが生まれます。

 深層心理学に興味があると、意識、無意識の世界が思ったのは自己と自我があり、ユング心理学を知っていると、象徴、元型、集合的無意識・・・などというものを想起します。

 そして「これらも全てインストールされなければ人間は創られないのではないか?」などという問いが生まれてくるのです。

 「脱法ハーブ」による悲惨な事件その背景にあるのは、幼児期における体験が「事」の深層にある、などと解釈する人もあるかもしれません。理由がなければ納得できない、人間の性(さが)でしょうか。

 人びとはこの事件に対して怒りの声を上げます。そもそも「脱法ハーブ」などという言葉がいけない、罪悪感を軽視するもので、若者がそういう言に敏感で、抑制力にはならない、などと「言葉」に対する怒りの声を上げます。

「怒り」

 自分の思うところと異なる事態に遭遇すると、違和感が襲い「そうじゃないだろう」と不満が湧き、怒りの衝動へと導きます。

 「何があなたをそうさせる。」

そう問われても仕方がないほどに、反省と自覚において、怒るのではなく、ある意味、わたしはそう創られている、としか思えない時が多々あります。

 天気予報でも、事件ニュースでも、政治的、国際的なニュースを見ても、なんと自分の思いとは異なる予報や、現実があるのか思うわけで、「怒り」様相とでも言いましょうか、報道すること自体が既に「怒り」の諸相のうちにあると言えるように思います。

【怒りの定義】では、怒りをこう定義するとしよう---軽蔑することは正当な扱いとは言えないのに、自分、または自分に属する何ものかに対しあからさまな軽蔑があったため、これにあからさまな復讐をしようとする、苦痛をともなった欲求である、と。

【個人に向けられ、快を伴う】もし怒りがこういういうであるとするなら、必然的に、怒っている人はいつの場合も、例えばクレオンにというように、個人の誰かに対して怒っているのであって、人間一般に対してではい、ということにもなるし、また、自分、または自分に属している者に対しなにごとかがなされた、もしくはなされようとしたがゆえに怒るのだ、ということになる。・・・・略・・・・

 げにこれこそ、滴る蜜よりもはるかに甘きもの、
 人々の心に燃えひろがり行く。(ホメロス『イリアス』十八書)

上記の三段の文章は、私の言葉ではなく古代ギリシャの哲人アリストテレスの『弁論術』の中の第2巻第2章「怒り」の冒頭の言葉です(アリストテレス著『弁論術』戸塚七郎訳・岩波文庫p161-p162から)。

 『他人を攻撃せずにはいられない人』(片田珠美著・PHP新書)

 『人はなぜ記号に従属するのか』(フェリックス・ガタリ著 杉村昌昭訳 青土社)

このに2冊の著書名を書きましたが、徹底して読んだわけではなくサワリと読んだだけですが、この根源にあるのはアリストテレスの「怒り」を想うのです。

 ガタリの言う「記号」とは、言語、貨幣、その他、人間世界に抽象的な意味作用をもたらし事物や身体を特殊に変質させるもの一切を指す。のだそうです。

【ガタリ曰く】

 ・・・・・精神や身体の真ん中に禁忌の感情を植えつけ、罪悪感を生産する強力な機械を発動させて、ついには諸個人のリビドー的エネルギーの大部分を動員しようとする。したがって、ある種の言語や罪悪感を与える個人化された記号の様式は、資本主義的な社会的領野を安定するために必要不可欠のものとして立ち現れる。・・・・(上記書p31から)。

結局私は今朝何が言いたいのか。人間とは無意識心理に支配されて「ある」といっていいのかと言う、ガタリの疑問が解るような気がします。個人的に常々思うのですが、人間とは自分の法則に囚われた創られていく存在なのだということです。

 それは、「無・有」の「0・1」の「怒り・笑い」と「怒り・泣く」・・・平衡(無常)に沈思する。

 「怒り」の反対語は「笑い」と「泣く」なんですね。

 哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。(西田幾多郎『無の自覚的限定』)

「怒り」と「驚き」親戚みたいな記号です、ということで西田先生を思い出しました。

 アリストテレスの「怒り」から少々ずれがきたようです。そこで折角アリストテレス著『弁論術』に言及したので哲人アリストテレスの「怒り」の論をさらに引用したいと思います(4年ほど前の過去ブログ「アリストテレスの怒り」にも引用しました)。

【怒る時の心の状態】

さて、以上述べたところから、人々が怒るのは、彼ら自身の心がいかな
る状態にある時であって、誰に対し、いかなることが原因で怒るのか、ということはもう明らかである。すなわち、自分自身については、苦痛を覚えている時がそうである。というのは、苦痛を感じている者は何かを欲求しているからである。その場合、誰かが、例えば喉の渇いている者が飲もうとするのを邪魔するように、何ごとかを直接妨げようと、或いは間接的に妨害しようと、いずれの場合も、その行為の帰するところは同じであるように思われる。

 すなわち、何かを欲求している人に対し、誰かがその行動に反対するような振舞いをする場合にも、それに手を貸そうとしない場合にも、他のことで彼を困惑させるような場合にも、彼はそのすべての人に同じように腹を立てるのである。
 
 それゆえ、病気に苦しんでいる人々、貧困に悩む人々、戦っている人々、恋している人々、渇いている人々、一口に言って、欲望を持っていて、それがすんなり満たされていない人々は、怒りっぽく、いらついている。中でも、今自分が置かれている状態を軽蔑するような人々に対しては、特にそうである。
 
 例えぱ、病気の時にはその病気に関わりのあることが原因で、貧困の状態にある時にはその貧困に関わりのあることで、戦っている時にはその戦いに関わりのあることで、恋している時にはその恋に関わりのあることで、その他の場合もこれと同様にして、そのような人々に対し怒りっぽくなるのである。
 
 なぜなら、今挙げたような場合には、人はそれぞれ、現在ふりかかっている状態によって、自分が怒りに向けてはしる道を前もって用意しているからである。さらに、自分の待ち受けていたものが、現に起こっていることとたまたま反対のことであるという場合も、人は怒りっぽくなる。
 
 なぜなら、大きく予想に反したことは与える苦痛もより大きいからである。それはちょど、大きく予想に反したことでも、それがたまたま自分の望んでいるものであったという場合には、悦びもひとしおであるのと相応じている。それゆえ、以上述べたことから、時節や時期や心の状態や年齢などは、どのようなものが、そしてどのような場合、どのような時に怒りにはしり易いか、という点は、それからまた、これらの条件が多く重なっている時には、それだけよけいに激し易いということも、もう明らかである。
 
【怒りの相手】

 さて、本人の場合は、心が上のような状態にある時、怒りにはしり易いのであるが、一方、彼らが怒りをぶつける相手というのは、自分を潮笑し、愚弄し、からかっている者たちである。なぜなら、これらの人々は侮辱を加えているからである。
 
 また、侮辱の徴となるような害を自分に加える者に対しても、腹を立てる。ただし、その行為の性格が、加害者にとって仕返しに当たるというのでも、利益になるというのでもない---これが必要条件である。なぜなら、そうであって初めて、その怒りは侮辱が原因であると思われるからである。
 
 また、自分が特に真剣に取組んでいるものを悪く言ったり、無視したりする者に対しても、怒りをぶつける。例えば、哲学の研究に誇りを持っている人々は、誰かが哲学に対してそういう行動をとる場合、これに腹を立てるのである。その他の例について見ても、これは同じである。

 その場合、今言ったような誇るべきものが、自分には全く備わっていないのではなかろうか、とか、それほど顕著ではないのではなかろうか、とか、他人の目には備わっているように見えてないのではなかろうか、などと疑心を抱いている時には、その怒りはなお一そう激しいものとなる。

 なぜなら、他人の揶揄の的となっていることであっても、その点で自分は他に秀でていると強く確信している時には、全く意に介さないからである。また、友人でない者よりは、むしろ友人に対してより激しく慣る。というのは、友人からは、よくされないよりも、よくされることのほうが当然と考えているからである。
 
 また、いつも自分に敬意を払ったり、心遣いをしたりしてきた人々が、もう二度とそのようなつき合い方をしない場合も、こういう人々には腹を立てる。なぜなら、彼らによってないがしろにされていると思い込むからである。つまり、そうでなかったら、今までと同じことをしてくれるはずだ、と考えるのである。

 また、親切のお返しをしない人や、対等のお返しをしない人々に対して。また、自分に逆らったことをする者が自分より劣った者である場合、そのような者に対して。なぜなら、これら二つの場合、それらの者はすべて、自分を軽視しているように思えるからである。すなわち、後の例では、それらの者は、自分たちより劣った者を無視している積りでいるし、先の例では、自分たちより劣った者からよくされている積りでいるからである。
 
 また、なんおとりえもない者たちが、何かで自分を軽蔑するような場合、彼らに対してはより激しい怒りを覚える。なぜなら、われわれの前提によれば、軽蔑する資格のない者に対して向けられる、ということであるが、しかし、より劣っている者にとって相応しいのは、白分より優れている者を軽蔑しないことなのだから。

 また、友人に対しても、自分のことをよく言ったり親切にしてくれたりしない時には、腹を立てるが、自分に逆らうようなことを言ったり行なったりする場合には、その怒りはなお一そう大きなものとなる。

 また、自分たちが何かを求めているのに気づかない場合も、腹立たしさを覚える。アノティポンの劇に登場するプレクシッポスがメレアグロスに腹を立てたのが、これに当たるであう。なぜなら、それに気づかないということは、ないがしろにしていることの徴であるから。というのは、心遣いをしているなら、その者のことに気づかぬはずはないから。

 また、自分たちの不幸を悦ぶ者たち、一口に言って、自分たちが不幸の真只中にあるのに、明るく振舞っている者たち-----これらの人々に対しても腹を立てる。なぜなら、このようなことは、自分に敵意を抱いているか、軽蔑しているかすることの徴であるから。

 また、他人に苦痛を与えておきながら、それを意に介さない者に対しても、腹立たしさを覚える。悪い報せを持ってきた人に腹を立てるのもそのためである。
 
 また、自分たちについて、その欠点を人から聞いたり、直接目にしたりしても平然としている者に対して、腹を立てる。なぜなら、そのような者は、白分たちを軽蔑しているか、もしくは敵意があるかしているのも同然だからである。

というのは、友人ならその痛みを共に分かち合ってくれるからである。つまり、人は誰でも自分の欠点を目にすれぼ心を痛めるものだから。

 さらに、次の五種類の人々の目の前で自分を軽蔑する者に対して、腹を立てる。すなわち、名誉を競っている相手、自分が感服している人、その人に感服されたいと願っている相手、或いは、自分が畏敬している人とか自分に畏敬を抱いている人々、がそうである。

 こういう人たちのいるところで自分を軽蔑する者があれぼ、その者に一そう激しい憤りを覚えるのである。また、助けの手を差し延べないのは自分の恥となるような相手、例えぼ両親、子供、妻、支配下の者などに関して、軽蔑の振舞いがある者に対し腹を立てる。
 
 また、受けた恩恵のお返しをしないような者に対しても。なぜなら、その軽蔑は果たすべき務めに反しているからである。
 
 また、自分は真剣に取組んでいるのに、それに皮肉な対応を見せる者に対しても。なぜなら、皮肉は軽視している証拠であるから。
 
 また、他の人々にはよくするのに、自分にだけはそうしない場合、その者に対して憤りを覚える。なぜなら、すべての人が受けるべきだとされていることに、自分だけはそれに値しないと考えること、これこそ軽視していることの証拠であるから。
 
 また、忘れるということも怒りを生み出す原因である。例えぼ、相手の名前を失念するというのも、ほんの些細なことであるとはいえ、怒りの原因となるのである。なぜなら、忘れるというのも、ないがしろにしていることの徴である、と見なされるからである。というのは、忘れるということは、心遣いを怠っているために生ずるのであるが、心遣いを怠るというのは一種の軽蔑であるから。

【結び】

 さて、人々は、誰に対し、また自分の心がどのような状態の時に、どのような理由によって怒るのであるか、は一括して述べられたのであるが、一方、弁論を試みる者は、言うまでもなく、弁論によって、聴き手の心を実際に怒っているのと同じ状態になるよう仕上げ、その怒りの原因をなしているのは自分の反対者たちであり、彼らが人の怒りを招くような人間であるからだ、ということを示さなければならないであろう。

<以上アリストテレス著『弁論術』(戸塚七郎訳 岩波文庫)p165-p171から>

 自分で書きながらそろそろ終息モードにならなければならないのですが、オートポイエーシス専門家の河本英夫先生の『臨床するオートポイエーシス』(青土社)、最近の『オートポイエーシス <わたし>の哲学』(角川選書)などを読んでいると「形成的自覚」という言葉が浮かんできます。「自覚」これは意識でも無意識でもなく自覚症状です。

 システムならば、そのようにプログラムしたらよい。

 そう考えると「怒り」のプログラムの彼岸が観えてくるような気がするのです。

※取り急ぎ書いたので意味の通じないところがあると思いますが、私のする「こと」ですので御寛大に。


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