思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

安全の教えに見えてくるもの

2014年06月15日 | 思考探究

 梅雨明け宣言はまだのようですが、松本市、安曇野市は、土日はさほど暑くない晴天の日が続いています。

 晴天のなか久しぶりに昨日は地元の信大の人文学部で開催された哲学のシンポジウムに出かけてきました。学内の雰囲気というものは何となくなつかしさを感じます。

 シンポジウムですから「研究発表会」「討論会」ですが、OB会の懇親会がシンポジウム後予定されていましたので、シンポジウムは休憩も含み2時間半でしたので御二人の准教授の話と信大OBで春秋社の編集部の方の話が主でその後の「討論会」は聴講者の発表者に対する質問で終わりました。

 「哲学の読み方/読まれ方」

が今回の主題で哲学を学ぼうとする私にとってとても有意義でした。個人的に学生時代から「人はなぜそのような行動に走るのか」という根本命題があり、最初の提題者真山准教授の話は、専門がインド哲学・仏教学で東大の文Ⅲの御出身であることは知っていましたが、その学の歩みに親しみを感じました。東大といえば中村元先生を直ぐに思い出すのですが、准教授が学んだころには既に退官されていたようで中村先生についての言及はなく残念でした。仏教哲学のシンポジウムではないので当然と言えば当然のこと、中村元先生の名は、最後の春秋社の方の出版事情の中で一回だけ出てきました。

 御二人目は三谷准教授。専門は倫理学・西洋哲学、個性豊かな話し方は天才の肌という感じでいいですね。

 アメリカの哲学を学んだがストリートホームレスになった男「1ドルを支払ってくれればためになる良い話をします。」のジョークには笑いました。

 誰かが言っていました、哲学を専攻すると留年し専門家にならない限り就職先には苦慮するという話、上記のジョークはその延長線上にあります。

 哲学にだけでなくいろいろなことを学ぶということは、自分の視野を広げてくれます。視野を広げて何になるのかと言われそうですが、まぁそれぞれの個性が育てられるとでもしておきましょう。

 さて前置きはこのくらいにして、最近のブログで「人の心を知る」ということをテーマにしてきました。

 9年ほど前の栃木県の小学生1年生の女の子の傷ましい事件、不審者から身を守る不審者対策について書きましたが、そのときに「不審者とはどんな人?」と問いにおいて、見た目、言動、前回はそこに「場所」を加えました。

 深夜一人歩きの人に近づいてくる者は、不審者と思ってよい。

 人気のない道を(本来通学路として指定しないと思いますが)一人歩いている子に近づいてくる者は、不審者と思ってよい。

問いに対して、不審者だけでなく自分の今いる場所も考慮しないといけないという話でした。

 今回はこの「場所」「居場所」から話を進めたいと思います。

 人の心を知る場合、そこにいる場所も重要な意味をなします。当然に知ろうとする私もその場にいるわけで、敵味方ならば腹の探り合いが行なわれます。極端な話ですが戦争や襲撃があれば、

 婦女子は逃げるがよろしかろうし、ウ冠の屋根の下で身を隠すが「安」全です。

 安全・安心に使われる「安」という漢字。この漢字の世界を教育者で僧侶の故東井義雄先生の講話の中で見つけました。

「母親の責任」

 教育者の立場から母親教育にも熱心に取り組んだ東井先生、次のように話を進めます。

【東井先生】 しかしね、このお父さんを育てるのも、この子どもをどんな風にするのも、そのカギを握ってくださるのがお母さんでございます。・・・・<以下略を示す>・・・・子どもが楽しみにして帰って行く家を築いてください。・・・・その責任がお母さんいおありになるという証拠に、

「安」

家かんむりにの下に、お母さんという女の方がいてくださると、安らかになるでしょう。・・・・大体、字というのはいいかげんに出来とるのじゃありません。お母さん方に関係の字を考えて見ましても、女の一生涯で、ご自分でお考えになっても、人が眺めましても、女が一番良い時は、

「娘」

娘の時やそうですねぇ。この娘さんが、どんな難儀も苦労もこの家でと、難儀苦労をともにしますお家が決まりますと、

「嫁」

よめさん。お嫁さんにおなりたての頃には、ご飯をおあがりになっても、つつましやかに上品に食べてくださるんですが、それが知らん間に大口になり、二、三人と子どもがさんができなさった頃には、恥ずかしさもつつましやかさもどこかへ行ってしまって「私が私が」と言う。・・・・・。

そんなに、女の「私が私が」の鼻があぐらをかくようになると、「奥さん」と言わんそうです。おなごへんに、鼻という字を書きますと、

「嬶」

これは、かかあ。

このかかあが更にあつかましゅうなって、「わしらが嫁に来た自分には」と、いう言も、することも、考えることもみんな古臭くなりますと、

「姑」

女の古いのはしゅうとめさん。・・・・この姑さんが、更に古くなりますと、・・・・「波」がおでこにあたりに出てきた女を、

「婆」

まぁ、うまくできていますね。

<以上東井義雄著『こどもの心に光をともす』(致知出版から>

この話には可笑しさとともに訴えるものがありますね。この話からふと頭に「男」が浮かびました。直ぐに浮かんだのが「虜」という漢字。漢字辞典でも紐解けば気の利いた文字を探し出せるでしょうが、どうもこの字しか浮かびません。

 まさに虜になりやすい存在。虍の下に男、「虍」は(こぶ)は、という部首だそうで虎からとったようです。勇ましさや勇敢が見えそうですが、敵の懐に入ってしまったのでしょうか。

 今の世の中、平等な世界で男女間の差別はなくなりつつありますが、古代中国人は偉い。

この文字で検索すると、

 捕虜(ほりょ) 俘虜(ふりょ) 虜囚(りょしゅう)

 みんな囚われの身です。

ここでフトまた頭に浮かびます。

 遠く離れた、外国の、さらに奥地で生きる日本女性をテーマにしている番組を見ますが、実に凄い!

状勢のたくましさには驚かされます。勇ましいのではなくたくましい。

 どうしても男は、住処(すみか)を変えると、その居場所にいる人々を自分いとって敵なのか、味方なのかを判断したくなります。敵味方の腹の探り合いが表に現れ、臨機応変に場に合せることができないだろうと、自分をその場において考えるのですが、即その場に合せることが不得意(わたしだけかもしれませんが)な存在のように思えます。

 生物的な進化の過程によるものなのでしょうか、それとも歴史経験からの別なんでしょうか、男女の別などないのでしょうか。

 どうみてもそこには「成りて在る」違いがあるように思えます。

 社会は、性別の平等違いをな顕現で成り立っています。特に現代社会は過渡期にあるかもしれませんが、卑弥呼の時代が解るような気がします。それで倭国の大乱は沈静化しました。

 サッチャーさんは、フォークランド紛争では正に英断だったわけで、田島のおばさんではダメですが櫻井さんあたりが、本当はよいのかもしれません。国際問題について語るYouTubeの櫻井よしこさんの語りにそんなことを思いました。