思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「こと」という言葉から(2)・事的世界観の優位

2014年06月04日 | ことば

昨年(2013年)の11月に秋の叙勲大綬章勲に関係して次の記事を書きました。

<昨年の記事から>

 2013年の秋の叙勲大綬章勲章親授式が昨日執り行われました。文化勲章受章者5名の中に日本文学・比較文学の中西進(84)先生がおられました。中西先生と言えば万葉集の学者先生というところですが、個人的には「やまと言葉」のお師匠さんといったイメージの方が強い方です。

 時々「やまと言葉の思考論」などということをブログに書くのですが、そもそも「やまと言葉」という言葉は、今から40年ほど前の学生時代にNHKラジオで「やまとことばとコスモロジー」(中西先生は「やまとことば」と平仮名で記載します)という番組を聞いてからで、そこで聞いた内容が私の「やまと言葉の思考論」の基礎になっています。

 ラジオ番組後は、1994年の1月から3ヶ月放送されたNHK人間大学「古代日本人の宇宙観」で古代日本人の精神世界をさらに知ることになりました。「天地の構造をはじめ時間や数、ことばなどをどうかんがえていたのか、どのような悲しみや祈りの心を抱いていたのか・・・」そのような視点において日本人の心の宇宙に迫る内容でした。

 40年前のNHKラジオでは、

<「やまと言葉」に「からだ」という言葉がある。漢字で表記すれば「体」である。「から」という言葉には、稲の殻(から)、亡骸(なきがら)の骸(から)の意味がある。この意味から「から」には、彫刻の「トルソー」のように手足を付けない骨組みのような、物の根幹の部分を表す発音で、「からだ」の「だ」は何を意味するんか。「やまと言葉」の「えだ」という発音には、「木の枝」や「手足・四肢」の意味があり、これはトルソー的なものに「えだ」を付け、元々は「からえだ」と発音していたものが、日本人特有の日本語の発音を短縮するところから「からだ」と発音するようになった。>

<「花・鼻」は、「やまと言葉」では「はな」と発音される。これを「働き」の視点からみると、そこには「他よりも先にあるもの」という意味がみえる。
 人間の鼻は、顔の中ではさほど突き出ている形状ではないが、犬や猫などの動物を見るとその意味するところが解る。さらにそこには古代人が動物をどのように関わりの中でみていたかも解る。>

<匂える「色」も匂う「香り」も漂いの働きにおいては、同一であると認識する感覚、植物も人間の体も同一の働きの中でみる感覚、この古代人の感覚は、世界というものが「何ものか」によりネットワーク化されていることを意味する。そこに「け」という「やまと言葉」の存在を考えている。漢字で書いてしまうと「気(き)」という中国語を想起してしまうが、「もののけ」の「け」がそれである。言語学的に「か行」だから「き」が「け」に変化したと思いがちだが、そもそも「気(き)」という言葉が入る前に既に「け」という発音とその言葉の意味する概念が成立していたのである。>

と語っておられ、「やまと言葉」の奥底にある宇宙観にびっくりしました。

 「やまと言葉」とはそういうことか、中西先生は番組で、倫理学者の和辻哲郎先生の『続日本精神史研究』(『和辻哲郎全集第4巻』P275~・岩波書店)で語られている内容をもとに「もの」「こと」について説明されていました。

 2006年7月に『日本語の力』(集英社文庫)では、「やまとことばの思考」と題して、次のように語っています。

<『日本語の力』「やまとことばの思考」(集英社文庫)から>

 哲学者・和辻哲郎が残した多くの業績の中でも、もっとも注目すべきもののひとつに、やまとことばによる哲学的思考がある。たとえば和辻は日本語と哲学の問題においても、日本語が学的概念の表示として用いられることが少ないのは、理論的方向における発展の可能性をただ可能性としてのみ内臓していたことを示すのにすぎないのだといい。日本語---本来のやまとことばによる考察を試みた(『続日本精神史研究』)。
 
 そこで大きくとり上げたのは、「こと」と「もの」であり、「こと」は動作や状態がそれとしてあることを示し、「もの」はたとえば「動くもの」といった場合、ものの動作としてものをその中身において増大するととく。
 
 従来は学術語として不適当だとされてやまとことばを、積極的にとり上げた和辻の研究は、もちろん本居宣長などの先人をなしとしないが、先駆的なものといわなければならないだろう。ちなみにこの論文は、1929年の執筆である。
 そして和辻が開発したこの道は、りっぱに開拓者としての役割をはたし、後継者によって発展させられている。
 
 たとえば言語学者池上嘉彦は、固体に焦点を当てて表現する場合と出来事に全体として捉えて表現する場合とに区別し前者をモノ指向的、後者をコト指向的な捉え方だという(『との言語学』)。
 
 これは和辻が見てとった、それとしてあることをさす「こと」と、増大を中味とする「もの」との区別と、矛盾しない。むしろその発展的な考察といってよいであろう。
 さらにまた、英語学者安西徹雄はこれを日本語と英語との区別にも応用できるとし、英語はコトタイプ、日本語はモノタイプだという。英語は名詞中心であり、日本語は動詞中心であることも実証的に説明しており、これまた、説得性のある論である(『英語の発展』)。

<以上上記書p42~p43>

と語り、中西先生の関心は「やまとことばによって析出される日本人の精神構造にある。」そして「和辻の提示したやまとことばによる学問を、いっそう強力に進める必要があると思われる。」とも語られています。

<以上>

 以上の長い歴史があって、個人的に「もの」「こと」というやまと言葉を考える上に「英語はコトタイプ、日本語はモノタイプ」というやまと言葉は、特に「もの」という声音には「動詞的」というイメージがあります。

 ところが西田哲学を学んでいると「事的世界観が物的世界観を超克する」という話に落ちつかないといけないことになるのは、哲学者の藤田正勝先生の『哲学のヒント』(岩波新書・2013.2.20)の〔第4章 実在---「もの」と「こと」〕でも明らかなことで、個人的には日本語は「もの的思考」と考え型を薄学の私を悩ませるのです。

「こと」は「事的世界観」

になるのですが、事的世界観の優位性とでも言いましょうか、そこにどうも落ち着かない「もの」があるのです。

多くの哲学者が「もの・こと」論を展開しますが、奥深い言葉です。