思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

生命というのは何かしらのシステム

2014年06月25日 | 思考探究

 近日公開されるジョニー・デップ主演の映画『トランセンデンス』について連日言及しているのですが、・・・ということは暇あるごとに何かとこのことについて考えているわけで、暇人と呼ばれそうです。

 集英社の『kotoba』という雑誌がありちょうど2014年夏号が「生命とは何だろう?」という表題で中にソニーコンピュータサイエンス研究所北野宏明所長の「コンピュータに生命は作れるか」という話が4頁ほど掲載されていました。システムバイオロージーの立場からの話で、「人工知能の未来を考えても、人間が困るような機能をもつものや、あるいは人間そっくりな何かは生まれてこないと思います。」という内容のことが書かれていて、理由は「コンピューターはもともと大量計算を一瞬でするといった、人間にできないことをやるという点に存在の意義があるので、人間そっくりになっても意味がないのです。」ということからのようです。

 編集者側の書き込みの文頭の紹介者文に「コンピュータサイエンス、人工知能、自律ロボット研究などの最先端の知見から語ってもらった。」という文章の「自律ロボット」ということばに、システムとしての自動制御的な立場を感じました。

「システムバイオロジーとは、分子の集合体からなる生物や生命を、システムとして理解しようというものです。」

「私自身の個人的な見解では、生命というものは宇宙にありふれた現象だろうと思っています。」

「私たちが知っている環境は、地球という限定的な特殊な環境のみです。その中で起きているのは私たち自身の生命現象であり、私たちの知っている生命形態です。」

という言葉からは映画のような人類にとっての脅威は感じられず、最後は、

「生命というのは何かしらのシステムです。環境に対して変動しながら生き残れるために、システムが必要とされ、システム化という生命現象が起きるのです。」

ということばで終わっています。

 最近言及した「ホルモン」についても確かに男から女、女から男へのメタモルフセスや他者へのやさしさにシステム化が見てとれました。

 システムで理解できたとしても「脅威」というものは、作る人間側の意思次第で「おのずから」という自己を離れた独立したシステムは考えられず、結局は作る側の種づけか、プログラムの誤りにしか「脅威」は現れないように思います。

 科学は新しい主体を作る。

と過去ブログに書きました。

 自立的、自律的なシステム構成の主体(無機物存在)を考える時、有機物である人間との差は何となくではありますが「人は知っている」と思うのです。

 システムで理解できる生命が、無機物存在で主体的な自己判断できる「脅威」となる存在になるか?

「原発」をみてそれが脅威なのは、人間の制御不能から始まるのであって、「誤まり」がそこにあります。人間なくして有機的な疑似的なシステムはなく、あくまでも作る側、使う側の問題で、「脅威」もひとつのシステム化とも言えます。

 結局は作る側の種づけか、プログラムの誤りにしか「脅威」は現れない。

 システムに欠陥がある人間判断が災厄を惹起する。

「生命というのは何かしらのシステムです。環境に対して変動しながら生き残れるために、システムが必要とされ、システム化という生命現象が起きるのです。」

という北野宏明所長の文末の言葉にみる「環境に対して変動しながら生き残れるために、システムが必要とされ」は、何を意味しているのか。「生き残れる」ということばにとても深く意味ある訴えに聞こえます。

 「単純なミス」も許さない「システム化」によるものが確かに存在していることを「誰もが知っている」のです。

 赤外線感知器で銃弾がその方向に撃ち込めるシステムを作れば、そこには自立的な脅威が存在します。

 なぜそうなのか。

「誰もが知っていること」です。