(写真:Eテレ「2011.7.18ラッドジャパン~ひらがな~」から)
ベストセラー本の中で静かなベストセラーと呼びたい著書に故井上ひさし先生の『日本語教室』があります。これまでの言葉に関係する講義をまとめて編集したもののようです。
母語は精神そのものです
言葉は常に乱れている
芝居はやまとことばで
「美しい日本語」などはありえない
日本人に文法はいらない
世界に開かれた日本語に
というようなことについて、三つの講義に分けて編集してあります。個人的に目次を最初に見るのですが、その中で惹きつけられた小題に
「こゝろ」はなぜ平仮名か
があります。この中に日本語に関して、合理性という言葉が使われている箇所があります。
合理的ではなく合理性で、
日本語・・・・合理性を持っている。
と「・・・・」を書きませんでしたが、そう論述しています。
漢語は合理的な言葉である。
これは最近ブログにも書きましたが、「うつす」という話しことば、書きことばは、頭の中で「写す」「移す」「映す」とうの翻訳が必要です。
したがって漢語で書く方が合理的にその意味を解せる、ということです。
井上先生は「・・・・」に何を語っているのか、
<引用『日本語教室』新潮新書「「こゝろ」はなぜ平仮名か」から>
前半略
夏目漱石に 『こゝろ』という題の作品がありますが、なぜ漢字の「心」にしなかったのでしょう。きっと、ごくごく少数かもしれないけれど、「しん」なんて読む人がいるからでしょうね。しかも、平仮名に開いたことによって、ある意味で「深み」が出ています。
題名ひとつでも、漱石はそうやって神経を使いました。では、漢字は使わないのかというと、もちろんそうではなくて、「吾輩は猫である」「硝子戸の中」なんて題名もあります。
ふだんはあまり気にしていませんが、私たちは三種類の言葉を本当に微妙に使い分けているのです。「きまり」やまとことば、「規則」漢語、「ルール」英語、これをどういうふうに使い分けているか。
家庭で子どもがなにかをするときに、「それはうちのルールですよ」と言うと、かなりいいところのうちで、嘘くさい(笑)。「それはうちのきまりじゃないの」と言うと、まあぴしゃりとくる感じ。「うちの規則でしょう」と言うと、なんか、寄宿舎みたいな家という感じがしますよね。これ、微妙に使い分けているわけです。その他、「わざ」「技術」「テクニック」、「おおい」「被覆」「カバー」、「すみ」「一隅」「コーナー」、「ためし」「試験」「テスト」。「あした試験がある」と言うと、それによって一生が変わるかなという感じが多少しないでもないですけど、「あしたテストだ」と言うと、毎日のテストか一週間に一度のテストか、まあ、、たいしたことないな、ちょつと映画でも見に行こうというような程度です。「あしたためしがある」と言ったって(笑)、「えっ?」と聞き返されるだけでしょう。
こうやって、微妙な使い分けを、私たちはほとんど意識せずにしているのです。「かたち」「形態」「フォーム」、「えらぶ」「選択」「チョイス」、「とまる」「停止」「ストップ」、「切る」「切断」「カット」などなどたくさんあります。
ほんとうに日本語は大変ですよね。やまとことばと漢語と外来語の三つを覚えなければなりません。いま、やまとことばだけで通そうとしても無理です。漢語だけでも通せませんし、外来語だけではもちろん通せません。ですから外国人は苦労すると思います。
日本語の音韻体系は簡単で簡潔で、非常な合理性を持っています。五十音図を思い出して下さい。あれで日本語の音全部を言い尽くしているわけですからすごい。ところが、書き文字になると、最低三つのニュアンスをちゃんと知った上で使いこなしていかないとダメなんです。あの人は語感が悪いとか言いますけど、それは、この使い分けのことなんですね。
作家の文章でも、漢字やカタカナの選び方がどうもうまくはまってないなという場合は、この人は語感がちょつとね、なんて言います。それぐらい、日本語の書き文字はむずかしいのです。
<以上同書p92~p93から>
ということで、
日本語の音韻体系は簡単で簡潔で、非常な合理性を有するもの
という話で、この小題の結論は、「日本語の書き文字はむずかしいのです。」という話です。
日本語とはどういう言葉か?
学者でもない私がとやかく考えることでもないのですが、趣味の世界に持ち込むととても面白いのです。文学の立場から、哲学、社会学、心理学・・・脳生理学等の立場からと、その世界は大変広く深く尽きることがありません。