鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その1

2017-04-11 07:02:40 | Weblog

 

 JR高尾駅から甲州街道(国道20号線)に出たのが10:20。出たところで左折して、まずは国道20号線と甲州街道が分岐する地点を目指しました。

 やがて交差点(高尾駅前第二)の左手に、二階建て木造のかつては商店であったらしい建物が一軒目に入りましたが、八王子市内も含めて、かつての甲州街道の面影を残す建物はこのあたりではほとんど残っていません。

 この店の一階部分の通りに面した部分はシャッターが全て下ろされており、商店としての営業は行われていないようです。

 「浅川上宿」交差点を過ぎたあたりで、歩道上に「日本橋より51km」の標示がありました。

 日本橋から51kmということは、時速4キロメートルで歩いても約13時間。このあたりまで一気に歩いてくるのは、いくら当時の健脚でも難しく、途中、府中や日野、あるいは八王子あたりで一泊することになるでしょう。

 しかもこの先、小仏の関所が控えており、さらにそこから先、小仏峠を越えていくことになるわけだから、否が応でも一泊することになります。

 ちなみに広重が甲州街道第一日目をどこに泊まったかというと、天保12年4月2日(旧暦)の夜に八王子で宿泊しています。

 江戸の自宅から八王子まで、おそらく40kmなかばほどの距離を1日で歩いたわけであり、広重も相当の健脚であったことをうかがい知ることができます。

 この道標のある歩道の右側に用水が流れており、のぞきこんで見ると、ゴミのない清冽な流れであり、しかも勢いのあるものでした。

 「川原宿」と記された京王バスのバス停を見掛けたのが10:31。行先は「高尾山口」と「相模湖駅」となっていました。

 JR中央線と国道20号線が交わる地点にあったのが「両界橋」(りょうかいばし)の標示。この下を流れる川は「浅川」で、このあたりになると浅川の幅は狭く、両側の岸は深くえぐれています。下流側の山すそにはところどころ桜が美しく咲いていました。

 「両界橋」を過ぎてまもなく、「小名路」(こなじ)のバス停が現れ、その隣に「国道20号」と「県道516号」の分岐点を示す道路標示が立っていました。

 そのわずかばかり先の交差点で右手方向へと入ったのが10:35。

 曲がらずにまっすぐ進めば、京王線の高尾山口の前に出て、やがて大垂水(おおだるみ)峠を越えて相模湖方面に出ることになります。

 この分岐点から右折していく道が「県道516号」であり、私は、初めてこの道に足を踏み入れました。

 

 続く

 

〇参考文献

 ・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)

 ・『甲州街道を歩く』山口徹(吉川弘文館)



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