鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その8

2017-04-19 06:19:22 | Weblog
小正月における甲府道祖神祭礼においては、甲府城下全体で数百枚以上の幕絵が飾られていたようです。しかし明治に入るとそれらの幕絵は布達によってその使用を禁じられ、ほとんどは廃棄されてしまったという。現在では、山梨県立博物館収蔵の二枚、個人所蔵の一枚、計三枚しかその存在が確認されていないようです。山梨県立博物館で収蔵される幕絵はいずれも緑町一丁目で飾られたもので、そのうち一枚は初代歌川広重が、もう一枚は二代目広重が描いたもの。画題は初代広重が「目黒不動之瀧」、二代広重が「洲崎潮干狩」。幕絵の飾られ方は、店の前に幕を飾るための棒(幕串)を立て、表通りの両側全体を幕絵で覆い尽くすというもの(裏通りには飾られない)。緑町一丁目の表通りの場合、東側ま約64.8m、西側が約63.9m、計128.7m。飾られた幕絵の数は11枚。1枚あたりの横幅は約10.7mほどでした。緑町一丁目の幕絵の画題は江戸名所であり、それは「目黒不動」や「「洲崎潮干狩」「両国大花火」などを含んだものでした。それらの幕絵は一年ごとに使い捨てされるものではなく、毎年、同じ店の前に恒常的(小正月)に飾られるものでした。甲府の道祖神祭礼に幕絵が飾られるようになったのは、同論文によれば天保13年頃。天保12年、広重はその準備のために甲府に出掛けたことになります。高橋氏は、その道祖神祭礼に幕絵を飾る契機になったのは、甲斐一国を巻き込んだ天保騒動(郡内騒動)にあり、その騒動によって破壊された城下の復興を願うものとして幕絵を飾ることになったと記しています。 . . . 本文を読む