
菱町郵便局の前を通過(8:25)してまもなく、橋を渡りましたが、その橋の架かる川が「黒川」でした。
その「黒川」の川べりに「絵カルタ」案内板が立っていました。
それには、
「ほ ほたる舞う 清流黒川 菱の里」
とあり、解説文には、黒川にそそぐ沢水を利用してほたる牧場を作り、ほたるの餌のカワニナを育て、それを放流してほたるの幼虫の生育に励んだ結果、平成7年には7万匹の幼虫を放つようになった、といったことが記されていました。
そしてその「絵カルタ」には、川の流れを利用した水車が描かれていました。
「水辺の生き物」という菱小学校の生徒の研究調査によると、きれいな川を好むサワガニが、黒川の上流・中流共にたくさん生息していることから、黒川は基本的にきれいな川であることがわかった、ということでした。
崋山が訪れた喜八宅は、下菱村黒川にあったというから、この黒川に沿ったところにあり、その黒川の清流を利用して水車を回し、それを動力として屋内の八丁車(八丁撚糸機)を動かしていたものと考えることができます。
「撚糸」とは、生糸を何本か撚り合わせることによってその強度を増した糸のことであって、それが縮緬などの絹織物に使われたわけですが、喜八の家は「水力八丁車」を使って撚糸の大量生産を行う「績屋(つむぎや)」の一軒であったということになります。
岩瀬吉兵衛が「水力八丁車」を完成させたのは天明3年(1783年)のことだから、それからすでに50年近くが経過しており、用水路が引かれていたところには各所に水車が設けられ、それを動力とした撚糸生産が行われてており、この下菱村の黒川流域においても撚糸生産が活発に行われていたということになります。
先ほど「拷機姫神社・機神様」(菱町3丁目)のところで、元文3年(1738年)に京都西陣の織物師である中村弥兵衛が一色村にやってきて、紗綾機(高機)を組み立てて紋織の技術を伝えたという解説文のある「絵カルタ」案内板を見ましたが、菱村で生産された撚糸はその紋織物の生産に使用されたものと思われます。
菱村においては、撚糸・染色・機織を副業とすることで、現金収入を得る家が多かったはずです。
喜八宅は黒川沿いの「績屋」であり、水車を利用した撚糸を行っており、崋山はそれを見学したわけですが、水車の図を描いたり、水車の構造を詳しく記述していることや、また縮緬織機の構造などを詳しく記していることは、崋山のそれらへの強い関心を示しており、おそらく崋山には、桐生の織物業の発展の様相、また絹買継商をはじめとした桐生町民などの富裕の様を知るにつけ、その繁栄を支えている近隣農民たちの副業の実態を把握し、田原藩の殖産興業に役立てようという意識があったものと思われます。
崋山は桐生川を越えて、この下菱村黒川流域のどこかにあった喜八家にやってきたのですが、その喜八家が黒川沿いのどこにあったかは、今までのところ私にはわかりません。
現在の黒川は、両側がコンクリート護岸になっており、水量も少なく、かつて水車が回っていたとは思えないような川となっていますが、小学生の研究結果によれば、まだまだきれいな川であり、季節となればほたるが舞い飛ぶ川でもあります。
「おりひめバス」の「菱公民館前」を過ぎると、右手に「桐生市立菱公民館」があり、そこにも「絵カルタ」案内板が立っていました。
それには、
「こ 公民館 生涯学習 菱町づくり」
と記されていました。
この公民館の敷地内に入ってみると、なんと、そこには「菱町かるたマップ」という大きな案内板があり、そこにはすべての「絵カルタ」とその位置が記されていました。
その案内板(かるたマップ)によると、菱町には桐生川と、桐生川に注ぎ込む二つの川が流れています。一つが黒川であり、一つが小友川。
この黒川と小友川という支流が流れ込んでいる桐生川は、やがて小俣町地先で渡良瀬川へと注ぎ込むことになります。
桐生川はしたがって、渡良瀬川水系の一つということになります。
そして黒川・小友川はその桐生川の支流ということになる。
私はこの菱町の「絵かるた」案内板を見て、埼玉県熊谷市の旧中山道沿いで見掛けた「熊谷郷土カルタ」の案内板を思い出しました。
この「熊谷郷土カルタ」は45枚のカルタ札があるのですが、このもとを作ったのは中島迪武さんという郷土史家の方であり、熊谷の歴史を簡潔にまとめた『やさしい熊谷の歴史』という本をまとめた方です。
「雁の絵と 訪瓺録(ほうちょうろく)は 龍泉寺」
「この道は 札所へ行くと 道しるべ」
「にぎわった荒川一の 河岸の跡」
などがあり、カルタによって、児童生徒たちは熊谷の歴史や史跡のあらましを知ることができ、また熊谷を訪れる人々は「絵カルタ」案内板によって、その地の歴史などを知ることができるのです。
私の場合は、荒川の堤防の上を歩いていてその「絵カルタ」案内板と出合い、「荒川一」の「河岸の跡」(江川河岸=新川河岸)を知ることができました。
あのような「絵カルタ」が学校で郷土を学ぶ教材として活発に利用され、またその地の案内板としても利用されるようになったらどんなにいいだろう、と私は思ったのですが、その時の思いが、この菱町の「絵かるた」案内板を見て蘇ってきました。
その地の児童生徒たちにとっても(さらに地域住民にとっても)、そしてそこをたまたま訪れる「旅人」にとっても、とても有意義な案内板であると、私は思いました。
続く
○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『桐生織物と撚糸用水車の記憶』(桐生市老人クラブ連合会)
・『熊谷郷土カルタ』(熊谷市立図書館)
その「黒川」の川べりに「絵カルタ」案内板が立っていました。
それには、
「ほ ほたる舞う 清流黒川 菱の里」
とあり、解説文には、黒川にそそぐ沢水を利用してほたる牧場を作り、ほたるの餌のカワニナを育て、それを放流してほたるの幼虫の生育に励んだ結果、平成7年には7万匹の幼虫を放つようになった、といったことが記されていました。
そしてその「絵カルタ」には、川の流れを利用した水車が描かれていました。
「水辺の生き物」という菱小学校の生徒の研究調査によると、きれいな川を好むサワガニが、黒川の上流・中流共にたくさん生息していることから、黒川は基本的にきれいな川であることがわかった、ということでした。
崋山が訪れた喜八宅は、下菱村黒川にあったというから、この黒川に沿ったところにあり、その黒川の清流を利用して水車を回し、それを動力として屋内の八丁車(八丁撚糸機)を動かしていたものと考えることができます。
「撚糸」とは、生糸を何本か撚り合わせることによってその強度を増した糸のことであって、それが縮緬などの絹織物に使われたわけですが、喜八の家は「水力八丁車」を使って撚糸の大量生産を行う「績屋(つむぎや)」の一軒であったということになります。
岩瀬吉兵衛が「水力八丁車」を完成させたのは天明3年(1783年)のことだから、それからすでに50年近くが経過しており、用水路が引かれていたところには各所に水車が設けられ、それを動力とした撚糸生産が行われてており、この下菱村の黒川流域においても撚糸生産が活発に行われていたということになります。
先ほど「拷機姫神社・機神様」(菱町3丁目)のところで、元文3年(1738年)に京都西陣の織物師である中村弥兵衛が一色村にやってきて、紗綾機(高機)を組み立てて紋織の技術を伝えたという解説文のある「絵カルタ」案内板を見ましたが、菱村で生産された撚糸はその紋織物の生産に使用されたものと思われます。
菱村においては、撚糸・染色・機織を副業とすることで、現金収入を得る家が多かったはずです。
喜八宅は黒川沿いの「績屋」であり、水車を利用した撚糸を行っており、崋山はそれを見学したわけですが、水車の図を描いたり、水車の構造を詳しく記述していることや、また縮緬織機の構造などを詳しく記していることは、崋山のそれらへの強い関心を示しており、おそらく崋山には、桐生の織物業の発展の様相、また絹買継商をはじめとした桐生町民などの富裕の様を知るにつけ、その繁栄を支えている近隣農民たちの副業の実態を把握し、田原藩の殖産興業に役立てようという意識があったものと思われます。
崋山は桐生川を越えて、この下菱村黒川流域のどこかにあった喜八家にやってきたのですが、その喜八家が黒川沿いのどこにあったかは、今までのところ私にはわかりません。
現在の黒川は、両側がコンクリート護岸になっており、水量も少なく、かつて水車が回っていたとは思えないような川となっていますが、小学生の研究結果によれば、まだまだきれいな川であり、季節となればほたるが舞い飛ぶ川でもあります。
「おりひめバス」の「菱公民館前」を過ぎると、右手に「桐生市立菱公民館」があり、そこにも「絵カルタ」案内板が立っていました。
それには、
「こ 公民館 生涯学習 菱町づくり」
と記されていました。
この公民館の敷地内に入ってみると、なんと、そこには「菱町かるたマップ」という大きな案内板があり、そこにはすべての「絵カルタ」とその位置が記されていました。
その案内板(かるたマップ)によると、菱町には桐生川と、桐生川に注ぎ込む二つの川が流れています。一つが黒川であり、一つが小友川。
この黒川と小友川という支流が流れ込んでいる桐生川は、やがて小俣町地先で渡良瀬川へと注ぎ込むことになります。
桐生川はしたがって、渡良瀬川水系の一つということになります。
そして黒川・小友川はその桐生川の支流ということになる。
私はこの菱町の「絵かるた」案内板を見て、埼玉県熊谷市の旧中山道沿いで見掛けた「熊谷郷土カルタ」の案内板を思い出しました。
この「熊谷郷土カルタ」は45枚のカルタ札があるのですが、このもとを作ったのは中島迪武さんという郷土史家の方であり、熊谷の歴史を簡潔にまとめた『やさしい熊谷の歴史』という本をまとめた方です。
「雁の絵と 訪瓺録(ほうちょうろく)は 龍泉寺」
「この道は 札所へ行くと 道しるべ」
「にぎわった荒川一の 河岸の跡」
などがあり、カルタによって、児童生徒たちは熊谷の歴史や史跡のあらましを知ることができ、また熊谷を訪れる人々は「絵カルタ」案内板によって、その地の歴史などを知ることができるのです。
私の場合は、荒川の堤防の上を歩いていてその「絵カルタ」案内板と出合い、「荒川一」の「河岸の跡」(江川河岸=新川河岸)を知ることができました。
あのような「絵カルタ」が学校で郷土を学ぶ教材として活発に利用され、またその地の案内板としても利用されるようになったらどんなにいいだろう、と私は思ったのですが、その時の思いが、この菱町の「絵かるた」案内板を見て蘇ってきました。
その地の児童生徒たちにとっても(さらに地域住民にとっても)、そしてそこをたまたま訪れる「旅人」にとっても、とても有意義な案内板であると、私は思いました。
続く
○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『桐生織物と撚糸用水車の記憶』(桐生市老人クラブ連合会)
・『熊谷郷土カルタ』(熊谷市立図書館)
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